#91
夜の《竜のまどろみ》は、すでに常連の酔客と、閉店前の静けさを迎えていた。
ランタンの灯りが揺れ、煙草草の煙と酒の匂いが混ざる空気の中、一人の女がカウンター席で足を組んでいた。
マリー。剣を生業とし、元傭兵として荒事に身を置いてきた女は、酒場の灯に照らされた頬を紅く染めながら、何杯目かのエールをあおっていた。
「……ったく、くだらない連中ばっか……」
ぼそりと呟いた言葉の先には、酔っ払った若い冒険者たちの一団があった。その中の一人がふらつきながら、マリーの背に声をかける。
「なあ、姉さん……ちょっと、こっちで飲まねぇ?」
「やめとけって、あの赤髪…この辺りじゃあ有名人だろ?剣殺しとかって…」
「剣、持ってないし平気だろ。な? ちょっとくらい――」
瞬間、椅子が倒れる音と同時に、マリーの拳が男の顔面を捉えていた。
酔いに任せた一撃とは思えない鋭さだった。吹き飛ばされた男が椅子ごと床に倒れ込む。
「……今すぐ立って出て行きな、首の骨折る前に」
低く、凍りつくような声音。冒険者たちは顔を青くして仲間を引きずりながら逃げ出していった。
「まったく……男ってやつは、どうしてこう、酔うと揃いも揃って馬鹿になるかね」
マリーが再び椅子に腰を落とそうとしたその時、酒場の扉が軋む音がした。
風が流れ込んできて、埃っぽい空気を一掃するような、穏やかで冷たい空気。その中に立っていたのは、いつぞやの襲撃者だった。
彼は周囲を見回すと、倒れた椅子や鼻血を拭う痕跡を視界の端にとどめ、そして――マリーに視線を向けた。
「騒がしい夜だったようだな」
「あんた、この前の……いつもの事さ。」
マリーは肘をつき、ジョッキを揺らしながらカイルを見上げた。視線の奥に、どこか懐かしい光が宿っている。
カイルはため息をひとつ吐き、倒れた椅子を立て直すと、マリーの隣に腰を下ろす。
「カイル、カイル・グレイブスだ。あの時は名乗りもせず悪かった」
「そうかい。あたしはマリー、マリー・アンヴェール。けど、あいつらと違ってあんたは腕が立つようだから特別に一緒に飲んでやる。私は本来男が嫌いなんだ。特に弱い男はね」
「それは光栄だな。そういえばあの後の顛末は知ってる…悪かったな面倒を押し付けたみたいで」
そう言って、カイルはカウンター越しにルイナへエールを一つ注文し、受け取ったジョッキをゆっくり傾けた。事の顛末からいえば領主の元から離れると決めたマリーがカイルの為そうとした事を肩代わりしていた。結果から言えば旅先の“不慮の事故”でこの街の領主は亡くなっていた。
「……あんた、いつからこの街に?見ない顔だ。腕が立つにしちゃあ、ね」
「最近だよ、ほんの一月前だ。駆け出しの冒険者さ」
その答えに、マリーの目が少しだけ見開かれる。そんな馬鹿な話があるかと。自分と同年代に見えるカイルの顔をじっと見つめた。
「へぇ……まぁ、あたしも今は無職だし。いいかもね、冒険者になるのも」
「俺もそう思ってたよ。ただ気を付けた方が良い。冒険者同士の揉め事はギルドは不介入だ。君は良く恨みを買いそうだ…特にさっきみたいな男からな」
カイルの言葉にマリーが思わず吹き出す。
「あんた、面白いね。変わってるって言われない?」
マリーの問いに、カイルは首を傾げた。
妙な縁ではあったが共に冒険者として歩むこととなったマリーとカイルは気が合った。
幾度か依頼をともにこなした後は酒を酌み交わす仲になるまでは時間は掛からなかった。




