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#90

 夜の《竜のまどろみ》は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


 珍しく客の少ない酒場、奥の常連席にはマリーの姿があった。片肘をつき、気怠げに傾けるジョッキの中身は空になり、すでに何杯目かは分からない。カウンターの女将が呆れたように視線を送るが、マリーは意に介さない。


「いい夜ねぇ……ま、いつも通りか」


 そんな独り言を呟いていたマリーの隣に、静かに一人の男が腰を下ろした。


「相変わらず、いいペースだな」


 その声に、マリーは眉も動かさず目だけを向ける。カイルだった。


「おや、カイルじゃない。久しぶりにあたしと飲みたくなった?それとも昨夜の話?酒の席ではできればやめてほしいもんだね」


「どちらでもない。ただの忠告だ…ルイナ、俺にもエールを」


 カイルはそう言って、自分のエールを看板娘に注文しながら続けた。


「酒を飲むなとは言わないさ。だが、もう良いんじゃないか?いい加減に四六時中呑むのはやめろ。酔ってないほうがお前は強い…当然だが」


 その一言に、マリーの口元がわずかに吊り上がる。


「ふん、強くなきゃ生きてこれなかったの。昔からね」


 ジョッキを口に運びながら、彼女の目が少しだけ懐かしさを宿す。


「……あたしたちの出会い、覚えてる?」


「ああ、忘れられるわけがない。あの頃は俺も似たようなもんだったしな…良くお前と酒で潰れてたのは懐かしい思い出だよ」


 カイルはグラスに触れもせず、マリーの視線を受け止める。


 ――それは、まだカイルが冒険者になったばかりの頃。


 ひとつの山賊討伐依頼を受けた時のことだった。

 その山賊団は、実のところこの辺境の地を収める領主が裏で操っていた私設の傭兵団であり、偽装された襲撃を繰り返していた。


 そして、その領主の護衛だったのが傭兵として雇われていたマリーだった。


 片付けた山賊が自分の命惜しさに口を割ったことで事の真相を知ったカイルはギルドへは報告せず単独で領主を片付けることにした。どうせ報告したところで事件は解決しないと知っていたから。

 それなら面倒な手順を省き要因を闇討ちしてしまった方が早いと。


 夜闇に紛れて領主の館に潜入したカイルは、そこで初めてマリーと出会う――刃を交える事となった。


「名乗りもせずに、いきなり襲いかかってきて…正直、びっくりしたよ。それに信じられなかった。負け知らずだったあたしと互角に斬りあうなんてね」


「まぁ、お前の馬鹿力で剣が壊れなきゃ危なかったかもな」


 斬り合いの中で互いの剣が壊れたことでカイルが撤退したことでその場は引き分けで終わった。しかし、負った手傷ではカイルの方が劣勢だった。


 どちらが勝ったわけでも、倒れたわけでもない。引き分けだった。


 だが、それはマリーにとって転機となった。

 幼いころに拾われ剣の才能をひたすらに研鑽してきた彼女の育ての親である領主の悪事を知ることになる。

 娼婦の娘をただの好奇心で育て上げ、見事に剣士としての才を開花させたマリーを領主は手練れの護衛として上手く利用していただけだった。


「それからすぐ、あたしはあの傭兵団を抜けた。あたしは領主の護衛だったから気づかなかった、とはならないし。やってることが、ただの山賊と変わらないって……ようやく、気づけた」


「そうか」


「まぁ、しばらくは自棄になって飲んだくれてたけど……あんたと再会して冒険者になって…今でも思うの。あのとき、あんたと剣を交えてなかったら、今のあたしはいなかったかも」


 カイルは何も言わない。ただ、ジョッキを指で軽く弾いた。


「だから、あたしはあんたに恩がある。……借りを返すなんて柄じゃないけどさ。あんたのためなら、剣を振るうのもまんざらでもないよ」


 その声に偽りはなかった。

 そして、酒場の空気がわずかに和らいだところで、マリーが片肘をついてにやりと笑う。


「とはいえ、リーファの動きには驚いたわ。人外って言葉がぴったりだった」


「そう思うなら、少しは節制してくれ。お前なら、真っ向から渡り合える力がある。俺が保証する。それに俺ももう仲間を失うのはごめんなんでね」


「……じゃあ、次からは訓練後の一杯にしておく」


 言葉とは裏腹に、マリーの声にはどこか照れくささが混じっていた。


「次の戦いに備えるってんなら、あたしもちゃんと備えておく。あんたの足は引っ張りたくないからね…さてと今日はこの辺にしときますか。女将!今日のお代はカイルにつけといて」


 そう言って立ち上がったマリーの足元は、ややふらついていたが、それでも彼女の歩みに迷いはなかった。

 カイルはそれを見送ってから微かに笑った。


 戦場で出会い、剣を交えたかつての“敵”が、今は頼れる“仲間”として傍にいる。

 それだけで、少しだけ肩の力が抜ける気がした。


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