#9
森路は、かつて王国軍が整備した古い軍道の跡だった。
だが、今では朽ちた標識と苔むした石畳が、辛うじてかつての名残をとどめているだけだ。
カイルは革鎧に手を掛け、周囲を警戒しながら黒い馬を走らせる。
濃い針葉樹の林が陽光を遮り、昼なお薄暗い。空気は湿り気を帯び、腐葉土と獣の匂いが鼻を刺す。
小枝を踏みしめる乾いた音。遠くからカラスの声。
そのすべてに、神経を研ぎ澄ます。
背嚢は魔法袋。とは言っても無限に容量があるわけでもなく高価で希少。最低限の兵糧、水袋、霊薬。それ以上の荷は持たない。無用な重みは死に繋がる。
森を抜けるには半日とかからない。
問題は、途中に潜むゴブリンの群れだ。
この季節、群れは繁殖期を迎えており、普段よりも凶暴だ。ゴブリンの繁殖方法は異種族間での交配が主な為、周囲の町にも被害が出る。村娘が攫われ、人間と家畜が食料に。
それに、トロールの出没により人間たちが森を避けたせいで、彼らの縄張りはますます拡大していた。
葉擦れの音一つにも意識を集中する。
そして――ふと、馬を止めた。
微かな血の匂い。
腐った肉の匂いに紛れて、確かに新しい血の香りが漂っている。
カイルは慎重に、腰を低くし、近くの茂みへと身を潜めた。
眼前の道が、わずかに開けた場所に続いている。
そこに、ゴブリンたちが群れていた。
五体。
いずれも二本足で立つが、背丈は人間の子供ほどしかない。
だが、油断すれば即座に喉笛を裂かれる。
短剣や棍棒、拾い集めた粗末な武器を手に、黄色い牙を剥き出しにしている。
その足元には、破れた冒険者のマントと、血に濡れた革鎧が転がっていた。
まだ若い、ギルドの新人だろうか。
カイルは眉をひそめた。
――間に合わなかったか。
冷酷な現実を、しかしカイルは受け入れた。
感傷に浸る余裕はない。今は、目の前の敵をどう片付けるか、それだけを考える。
カイルは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
剣を抜き放つ。ミスリルの剣は、曇り空の光を受けて鈍く光る。
そして――飛び出した。
一閃。
先頭のゴブリンが、悲鳴を上げる間もなく喉を断たれ、血飛沫を上げて崩れた。
他の四体が、驚きと怒りの咆哮を上げる。
カイルは一瞬も間を与えず、次の敵に踏み込んだ。
短剣を振りかざして突進してくるゴブリン。
その動きを読み、右に躱しざま、肋骨の間に剣を突き立てた。
呻き声を上げて崩れ落ちる。
だが、残る三体が包囲しようと動いた。
互いに距離を取り、カイルの背後を狙う。
カイルは口の端をわずかに吊り上げた。
だが、甘く見れば死ぬ。
素早く、左のゴブリンへと体を捻った。
狙い通り、背後の一体がわずかに踏み込んでくる。
それを察知したカイルは、足元の石を蹴り上げた。
石は回転しながら、背後のゴブリンの顔面に当たる。
ぐしゃり、といやな音がして、敵が仰向けに倒れた。
同時に、左のゴブリンに斬りかかる。
剣を振り上げた相手の脇腹を斬り裂き、骨まで達する感触を覚えた。
最後の一体。
カイルは振り返り、短剣を構えた小鬼と対峙する。
一瞬の静寂。
森の空気すら、張りつめる。
ゴブリンが、絶叫と共に突進してきた。
カイルは半歩、下がる。
直線に突き出された短剣を、剣の鍔で弾く。
力任せに押し返し、刃の腹で相手の顔面を打ち据えた。
ゴブリンはよろめき、体勢を崩した。
そこへ、ためらいなく剣を振り下ろす。
血潮が飛び、ゴブリンが絶命した。
深く息をつき、カイルは剣を振り払った。
血を払うと、淡く光る剣身が再び現れる。
足元には、冷たくなった若者の遺体。
無残に裂けた革鎧。恐怖に見開かれたままの瞳。
荷物袋を探り、遺体が首から下げた認識票を回収する。
これを持ち帰らなければ、故郷の家族も、仲間も、彼の死を知ることはできない。
銅級の認識票。どうやら依頼にある若者の死体ではないようだ。
立ち上がり、カイルは地図を取り出した。
目的地までは、あとわずか。
だが、トロールとの遭遇は、これからが本番だ。
そして、もし生き残っている者がいれば――
カイルは剣を握り直し、馬にまたがる。
小鳥たちのさえずりすら途絶えた森の奥へ進んだ。