#88
夜の帳が降りた頃、辺境の街の一角――冒険者の訓練場には、人気がなかった。
砂地を囲うように打ち込まれた木杭と、簡素な柵。昼間は訓練生たちの掛け声が響いていたそこに、カイルは静かに立っていた。
やがて、木の柵を押し開ける音とともに、三人の影が現れる。
「ようやく戻ってきたと思ったら、今度は夜の訓練場に呼び出し。……まさか、寝る前に筋トレでもさせるつもり?」
マリーが肩に剣を担いだまま現れ、軽口を叩く。
「さすがにそれはないでしょ。……でも、こんな時間に集まれって言われたら、普通に気にはなるわよ」
フィオナは弓を背負ったまま、辺りを警戒するように目を走らせる。
「何かあったんですか?」と、エリカが少し不安そうに尋ねた。
カイルは三人に視線を向け、軽く頷いた。
「悪いな、遅い時間に」
首をかしげるマリーにラダマーから提示された条件を説明するカイル。事前にエリカには説明してはいたが「夜の国」と「夜の王」の名が出た途端、二人の顔は引きつった。
「本気?」
「残念なことにな。とは言っても俺も吸血鬼とこれまで戦った経験はない。そこで」
フィオナが訝しげに眉をひそめた瞬間だった。カイルがふと足元に目を向けて声をかける。
「出てこい、リーファ」
次の瞬間――彼の影がわずかに揺れた。
その黒に溶けるようにして現れたのは、一人の少女だった。蒼銀の髪を真っ直ぐに伸ばし、陶器のように白い肌を持つ。目は深紅。夜の闇の中で、異様なほどに澄んで見える。
装いは一見して侍女のようだが、動作は洗練され、隙がない。所作の一つひとつが異様なほど静かで、まるで生きた人形のように見えた。
「誰?」とマリーが問い、エリカは一歩下がった。
フィオナだけが、その異質な気配にすぐさま察する。
「今まで見たこともなかったけど。この感じ、本物ね」
カイルは小さくうなずく。
「件の領主に同行するように命じられたのが彼女だ。名はリーファ。吸血鬼だ」
マリーがあからさまに警戒の色を見せ、エリカも驚きで声を失ったままカイルを見る。
カイルは続ける。
「だが、今のところ敵意はない。命令には忠実で、俺の指示に従うってことらしい。今回は――その戦闘能力を、確かめておきたくてな。ラダマーの依頼を受けるにしろ、ラダマーから遺物を奪うにしろ吸血鬼を相手にしなきゃならないのは確実だろうしな」
「……つまり、練習試合ってわけ?」
「そうだ」
マリーは溜息をつくように剣を抜き、「なんだか色々腑に落ちないけど、吸血鬼ってのは興味あるね」と言った。フィオナも弓を下ろし、矢筒を開く。エリカは小さく頷き、後方に控える。
「リーファ、お前はあくまで制圧にとどめ。殺傷は禁止だ」
「了解しました」
リーファの声は機械のように整っているが、言葉には従順さが滲む。表情は一切変わらず、ただ命令を遂行するための人形のように見えた。
カイルが開始の合図を出すと、風が裂けた。
リーファが、そこにいた。いや――気づけば、すでにマリーの背後を取っていた。
「……っ!?」
マリーがすぐに振り返り、剣を横に払う。しかしリーファはすでにそこにはいない。音すらない移動に、フィオナがすかさず弓を番える。
次の瞬間。弓から放たれた矢は、リーファにつかみ取られ地面に放り棄てられた。風の魔法を纏った矢の速度などものともせずフィオナに詰め寄る。
リーファは無音のまま接近し、フィオナの足元をすくうように蹴り上げた。
「速すぎ……っ!」
マリーが叫ぶと同時に再びリーファへと突っ込んだ。だが、その剣をあえて受けるようにリーファは身体を回転させてマリーの死角に滑り込む。
だが、その瞬間。
エリカの祈りが間に合った。
「黎明は影を溶かし、真実を照らす。我らの歩みを神の光が覆わん――暁の帳!」
聖なる光が訓練場を包み、リーファの動きがわずかに鈍った。マリーがその一瞬の隙を逃さず斬り込む。幽鬼や亡者の類に有効な結界は彼女にも有効だった。
「隙ありっ!」
マリー剣戟がリーファの腹を掠め、距離をとる彼女に無数の矢が降りかかる。メイド服が微かに破れた――だが。
「評価完了。制圧開始」
リーファは気にも留めない。煙のようにふっと姿を消すと同時に三人から距離を取る。
マリーは息を切らし、フィオナは次なる矢を番え顔をしかめた。
「そんなんありかよ!?白刃取りとか」
再びマリーの目の前に詰め寄ったリーファは上段から振り下ろされた剣を両手で挟むように受け止める。膂力ではマリーに比肩する剣士は稀なはずなのだが彼女はそのままマリーの水月に足先で蹴りこんだ。
その場に蹲るマリーの姿を見たフィオナが魔法の詠唱を終え、殺す気で矢を穿つ。
「んなバカな……」
白刃取りで負った手のひらの傷からリーファの血が流れだし、矢が着弾する頃には頑強な盾となって魔矢を弾く。迫りくるリーファに短剣を構えるフィオナだが遅かった。フィオナはすさまじい勢いのまま盾で弾き飛ばされた。
「まだ、続けますか?」
「……降参、です」
盾だった彼女の血液は長剣となり、手に握られていた。
眼前にゆっくり歩み寄るリーファの威圧感にエリカは祈る手を組んだまま、ぺたりとその場に座り込む。
リーファはスカートの裾を掴みカイルに淡々と一礼した。
「状況、終了」
カイルは小さく息をついて、三人を見た。
「これがこれから相手にしなきゃならない相手なんだが。手加減された上に三人がかりで…結果がこれだ。まぁ、リーファも上位の吸血鬼だろうし、戦闘にも長けているのを差し引いてもこれじゃあな」
厳しい言葉にエリカが俯き、フィオナは「油断しただけ!」と不服そうにカイルに噛みつく。
そんな中、マリーがぽつりと呟く。
「ねぇ、カイル。あの子って、名前の割にぜんぜん可愛げないんだけど」
「命令には忠実だぞ。人間味は……たぶん、無いが」
「顔は可愛いのに」
そう言ってマリーが笑い、カイルも苦笑する。
リーファは反応せず、ただ淡く赤い瞳で三人を見ていた。




