#84
朝の水の都は、霞をまとった鏡のようだった。
朝靄が運河をたゆたうように流れ、石造りの橋のアーチが水面にぼんやりと映っている。窓辺の花籠には露が降り、通りの商人たちがゆっくりと店を開け始める頃――カイルとナターシャは、調査報告のためギルドへと向かっていた。
「本当に、この街は綺麗ね」
ナターシャが言いながら肩を伸ばす。旅装は昨日と同じだが、どこか晴れやかに見える。夜の出来事が、彼女の内側に何かを芽吹かせたようだった。
「昨日の今日で元気なもんだな」
ナターシャが隣を歩き、欠伸をするカイル背中を本気で叩いた。
道中、運河沿いの階段を上がるとギルドの古びた看板が見えてくる。水運と交易の要衝であるこの街のギルドは、それなりの規模と威厳を持っていた。建物は年季こそ感じるが手入れは行き届き、冒険者たちの活気に満ちている。
「調査報告、私がまとめておいたから。カイルはそのへんのベンチで待ってていいわよ?」
「いいよ。どうせ書類に署名が要るんだろ?」
「……素直じゃないんだから」
ナターシャは笑いながら受付に進み、応対したドワーフの職員に書類を渡した。
ギルド内では、若い冒険者たちが依頼掲示板を囲み、成果を報告し、互いに茶をすすっていた。その中に混ざっても、カイルの雰囲気はどこか“浮いて”いたが、それを誰も指摘しないのは、彼の持つ無言の“気配”のせいだろう。
「周辺に魔物の気配はなし。周辺の被害調査。街道の安全確認も完了。……賊の件は?」
「現場で掃討したよ。詳しく情報が必要ならラダマーの屋敷に続く街道を調べてるかラダマーに話を聞いてみても良い」
カイルが短く答えると、受付の職員は頷いて印を押した。
「以上で任務完了となります。お疲れさまでした」
それだけで、すべては終わった。
静かに外へ出ると、陽光は高くなり、街全体が活気を帯びていた。水上の小舟が運河を行き交い、香辛料とパンの香りがどこからともなく漂ってくる。
「うーん。終わったわね」
ナターシャが伸びをし、微笑んだ。
カイルは頷き、目を細める。
「休暇も、もう終わりか」
「そうね。でも……いい時間だった」
「ああ、そうだな」
二人はしばらく水の都で買い物をするとラダマー邸へと向かった。
屋敷の門をくぐると、使用人がすぐに応対に出てきた。
「ご滞在、誠にありがとうございました。旦那様がお見送りをご所望です。応接間へどうぞ」
通された部屋は初日に訪れたあの応接間。淡い日差しが差し込み、床には魔法で調整された香が漂っている。
ラダマーは、書架の前に立ち、手に一冊の本を持っていた。
「お帰りなさい。お二人とも、調査ご苦労様でした。とくに問題はなかったようですね」
「ええ、幸いにも。あなたのご厚意のおかげで、快適に過ごせました」
ナターシャが丁寧に礼を述べると、ラダマーは柔らかく微笑んだ。
「それはなによりです。お力になれたのなら私としても光栄です。……できれば、またいつか」
「今度は依頼じゃなくて、観光で来たいですね。そうだ、カイルも――」
ナターシャが何かを言いかけたが、カイルがそれを軽く手で制した。
「考えておくよ」
ラダマーがほんの少し、目を細めて笑った。
「それでは、お見送りさせていただきましょう」
中庭を抜け、玄関まで戻ったとき、ラダマーはそっと一歩踏み出してカイルに声をかけた。
「どうかご無事で。今後の私たちの窓口として従者を一人付かせますが構いませんか?カイル様の好きに使っていただいてかましません」
「好きにすると良い」
「万が一にも、貴方が情報を必要とする局面に備えて。それと彼女には転移魔法を扱えます。きっと貴方の力になるでしょう」
ラダマーが指を鳴らすと、控えていた若い女性が一歩前に出た。年はまだ二十に届かないだろう。青い髪にラダマーと同じ白磁のような白い肌に赤い目、端正な顔立ち。
彼女は落ち着いた仕草と笑みをたたえているが、張り付けたような笑みだった。その瞳には、ただの従者とは思えない“何か”が潜んでいるように感じられた。
「リーファと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
先に馬車へと乗り込むナターシャには見えないようにカイルはうなずいて受け入れた。
「用があれば呼ぶが、なるべくなら姿を見せないほうが良い。君の正体が露呈したら騒ぎになるからな」
「御意」
メイド服を纏ったリーファが短く答えると文字通り煙のようにカイルの前から消えた。茫然とするカイルだったがすぐに馬車へと向かって歩を進める。
「じゃあ、行くか」
「そうね。ラダマーさん、本当にありがとうございました!」
ナターシャが馬車から笑顔で手を振り、ラダマーも笑顔で軽く手を挙げた。
ラダマーは、その姿をしばらく見送ってから、ようやく小さくつぶやいた。
「さてさて……思うように事が運べば良いが」
誰にともなく呟かれたその言葉は、ゆるやかに風に溶けていった。




