#82
月が水面を静かに照らしていた。薄く霞がかった夜空の下、ラダマーの館にある応接間では、揺れる蝋燭の灯りが壁に影を描き、長い夜の始まりを穏やかに告げていた。
テーブルの向こう側で、ラダマー・ヴァルドランは深紅の液体が注がれたグラスを傾ける。光を透かして揺れるその一滴に、彼は香りを楽しむように目を細めていた。
「さて、報酬の話をしなければなりませんね。何の見返りもなく命を懸けさせるほど、私も無神経ではありません」
やや柔らかい調子ではあったが、言葉の奥には確かな重みがある。ラダマー自身、未だカイルへの警戒を完全に解いたわけではなかった。
彼は深く椅子に身を沈めながら続けた。
「まず、条件の前に前提を述べさせてください。あなたが討つべき相手は――夜の国の“現王”、我が同族にして、忌むべき支配者。『夜の王』アスフェル・ノス・エルラディウス」
その名を聞いた瞬間、カイルの眉が僅かに動いた。彼はその名を知っていた。
かつて勇者として在った頃、遠くからその存在を警戒し、交戦を避けるように動いていた“災厄”の一角。王国や教会にとっても、公然と手を出せない存在の代表格。
「……本気で言ってるのか? そんな奴を俺に討てと?」
「ええ。常人には到底届かない存在ですが、貴方は常人ではない。星骸の獣を討ち、死霊王をも葬った、“かつて勇者だった”貴方であれば――可能性がある」
ラダマーの言葉に、カイルは乾いた笑いを漏らした。
「肩書きなんざ、とっくに捨てたつもりだったがな」
「それは貴方自身の心の中の話でしょう。だが、世界はそう簡単には過去を忘れてくれませんよ。“剣を持つ者”が、何を捨てたつもりであろうと」
ラダマーの瞳がわずかに光を帯びる。
「報酬を聞こうか。受けるかは別として、気にはなる」
カイルの声が低く響いた。ラダマーは微笑みを崩さず、軽く頷く。
「望むものを。私に用意できるものであれば、力の限り整えましょう。物ではなくとも構いません。……例えば、最近入手した“星晶の欠片”などはいかがですか?」
その名が出た瞬間、カイルの表情がわずかに動いた。
「……星晶の欠片、だと?」
「ええ。門――異界と繋がると言われる構造体を起動させる“鍵”だとか。真偽は不明ですが、少なくとも非常に特異な魔力を帯びた遺物であることは確かです」
カイルはしばし沈黙し、グラスをテーブルに置いた。赤い液体がゆらりと波紋を描く。
彼の脳裏には、エリカの姿が浮かんでいた。帰る方法を探し続けていた、異界から来た少女。彼女が必要としている“鍵”――それがもし、星晶の欠片であるのなら。
「……だが、なぜそんな代物をお前が持ってる?」
「収集家としてね。巡り合わせの妙とでも言いましょうか」
「ならそのまま奪ってもいいだろう。お前を倒せば、手っ取り早い」
言葉こそ鋭かったが、カイルの声音に敵意はなかった。それを読み取ってか、ラダマーも平然と微笑みを浮かべていた。
「それは理屈としては間違っていません。ですが、私は用心深くてね。本当に価値ある物は手元に置いてなどおりませんよ。破壊も盗難もされぬよう、安全な場所に封印しております」
それを聞いたカイルは、ゆっくりと息を吐く。
「……なぜそこまでして、同族を討たせたい?」
ラダマーはしばし目を閉じ、そして静かに答えた。
「“彼”が生きている限り、我々吸血種は永遠に“人喰いの化け物”という呪縛から逃れられない。私はそれが嫌なのです。――本当に、心の底から」
その声には冷徹な理知よりも、確かな“情”があった。
「彼を討つことは、進化の一歩。人を支配し、貪るだけの存在から、共存への可能性を見出すために必要な犠牲なのです」
カイルは黙ってその言葉を聞いていた。やがて、ゆっくりと目を開け、ラダマーを見つめ返す。
「考えさせてもらう。……ただし、俺が動くのは、俺の意志だ」
「もちろん。それ以上のことは望みません。私は扉を提示したに過ぎませんから」
そう言って、ラダマーは袖から一通の封書を取り出した。
「まずはこれを。彼に仕えていたかつての側近が、北辺境の“灰鷲の谷”という場所に潜んでいるという報せがあります。王の所在へ近づくための、最初の鍵となるかと」
カイルはそれを受け取り、古めかしい封蝋を見つめた。それは紛れもなく、吸血種の高位貴族の紋章だった。
「もう一つ聞いておく。もし俺がこの依頼を断ったら?」
「その時は、今夜のことは互いに忘れるとしましょう。私は貴方と争う気はありません。……お互い、生き延びる道は必要でしょう?」
その言葉に、カイルは口元にわずかな皮肉を浮かべた。
「……その割には、食わせ物じみた接待だったな」
「貴方のような方には、相応の待遇を。ええ、“ファン”としてね」
「野郎に言われてもまったく嬉しくないな。せめて吸血鬼でも美女だったら、話は違った」
冗談めいた言葉に、ラダマーが小さく笑った。その目の奥には、仄かに満足げな光が宿っていた。
応接間の外、水面に映る月がゆっくりと形を歪める。夜は、まだ始まったばかりだった。




