#8
軽く咳払いをして言葉を濁したカイル。アズレインの鋭い視線をかわすようにして、手元の卓に視線を落とす。
――お互い様だろう。若い頃のお前ときたら、盛りのついた猫みたいに、王女だのエルフだの魔女だの、見境なく口説き歩いてたくせに。
そんな思い出話を、かつてアズレインの伴侶だった女性――エリザから聞いたことがある。
まだ少年だったカイルに、彼女は屈託なく笑いながら言ったものだ。
「この人ね、昔は命知らずで、戦場でも町でも、目につく女には片っ端から声をかけてたのよ。人間でもエルフでも、しまいには敵方の魔女にまで」
カイルはその時、目を丸くした覚えがある。
今でこそ冷徹で、無口で、滅多に笑わないこのギルドマスターが、若かりし日はそんな破天荒な男だったなど、にわかには信じがたかった。
カイルは小さく肩をすくめ、呟く。
「……まあ、俺はアンタほど節操がないわけじゃない」
その一言に、アズレインは目を細め、意地の悪い笑みを浮かべた。
「ほう、どの口が言う」
彼が卓上に無造作に置かれた革袋を指で弾く。じゃらりと金貨の重い音が室内に響いた。
室内は古びた木材と油煙の匂いに満ち、埃を照らす朝陽の光が斜めに差し込んでいる。壁にかかるドラゴンの頭骨は、まるで部屋を見下ろす守護者のようだ。放たれた殺気にカイルは無意識に腰の短剣に触れた。
自然と、空気が引き締まる。
「冗談はさておき…仕事に集中しろ、カイル・グレイヴス。……坊主どもの墓標を立てる覚悟がないなら、今のうちに断れ」
静かな、だが重い言葉だった。
冗談めかした空気が霧散し、部屋の温度が一段階下がったように思えた。カイルはしばし、何も答えず黙った。
捜索対象は、青銅級の一党――ギルドに登録して間もない若者たちだ。
たかがトロール一匹とでも思ったか、名を上げたかったか。事情はどうあれ、無謀な挑戦だったことは確かだ。
トロールは並の剣では肉を断つことすら叶わず、頑強な肉体を持つ。生半可な腕前では、喰われるのがオチだ。
――救えるなら救う。
だが、間に合わなければ、認識票だけでも回収しなければならない。
カイルはゆっくりと立ち上がった。椅子がきしむ音が、部屋に響いた。
肩に鞄をかけ、卓上の革袋をひょいと懐に収める。
「どうせ誰かがやらなきゃならない仕事だ。……引き受ける」
アズレインは短くうなずき、傍らの机から地図を一枚破って手渡してきた。
羊皮紙に粗い手で描かれた地図。森路、古い鉱山跡、赤い印。
カイルはそれを受け取り、ざっと目を通す。
「森路を抜けて、南西の廃鉱を目指せ。情報では、奴らはそこに向かったらしい。途中、ゴブリンの群れにも遭遇するかもしれん――気を付けろ」
「分かった」
簡潔に答えると、カイルは踵を返し、重い扉の取っ手に手をかけた。
そのとき、背後からアズレインの声が投げられた。
「……無事に帰れ。命より重い金はないぞ」
カイルは振り返らず、片手を軽く挙げて応えた。
胸の内で、アズレインの言葉を繰り返す。
命より重い金はない――それは、この世に生きる者すべてにとって、血の教訓だ。
扉を開き、階段を下りる。まだ朝早いというのに、一階は依頼を待つ冒険者たちで溢れていた。
見習い風の若者たち、老練な狩人、妙に派手な鎧をまとった軽薄そうな男たち――ナターシャと軽く話をした後カイルは外へ出た。
街にはもう朝霧はほとんど残っていなかった。
太陽が高くなり、石畳を照らし、尖塔の影を長く引いている。
馬車の車輪の音、商人たちの呼び声、鍛冶屋の槌音。街は今日も変わらず、命を賭ける者たちを迎えている。
向かう先は南西。森路を抜け、古びた鉱山跡へ。
死と隣り合わせの地へと。
遠く、教会の鐘が午前の時を告げた。
――今日もまた、血の匂いを孕んだ、彼の一日が始まる。