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#71

 ――刹那、戦場の空気が変わった。


 死霊の軍勢がわずかに怯んだように動きを止める。その理由は明らかだった。

 ただ一人、仮面の男――カイルの存在が、まるで重力のように、場を支配していた。


 彼は剣を手に、一歩、また一歩と古代竜グリマタルに向かって歩み出る。

 その動作は緩やかで、隙だらけにさえ見えた。だが、不死の軍勢は誰一人として彼に踏みかかることができない。

 それは“本能”による拒絶。生と死の狭間をさまよう者たちが、真に“生きている者”を前にして感じる、圧倒的な差。


 カイルの周囲に、風が巻く。否、剣圧が空気を裂いている。

 仮面の奥で目を細め、彼はゆっくりと剣を持ち上げた。


「雑兵だよりか?やっぱり死にかけだな」


 その言葉と同時に、世界が切り裂かれた。


 斜め上から振り下ろされた斬撃は、赤い軌跡を描きながら地を走り、竜の前脚を貫く。

 重く腐った鱗と肉を斬り裂き、内包されていた死霊の魔素を霧散させた。

 その余波だけで、周囲にいた骸骨兵たちが一瞬で塵となって崩れ落ちる。


「……っ、やっぱり、異常だ……」


 リュシアは、癒しの奇跡によってようやく立ち上がりつつあった。

 だが目の前の光景は、彼女の持つ常識を軽く飛び越えていた。

 “ただの剣士”ではありえない。

 神の祝福を授かった自分が苦戦したあのグリマタルを、仮面の男は明確に“圧している”。

 すべてが規格外なのはリュシアにも言えるが彼とは比べるまでもない。


 再び、グリマタルが咆哮を上げる。腐敗した竜の喉から発せられたそれは、音というよりは衝撃波に近い。

 魔障が濁流のように押し寄せるが――


「もう言葉も話せないか」


 カイルがそう呟いた瞬間、彼の剣が正面へと薙ぎ払われる。

 赤黒い波が霧を割り、魔障そのものを切り裂いた。

 その後方、数体のアンデッドやグリフォンがまとめて吹き飛び、地面に激突して四散する。


「哀れだな」


 古代竜の瞳が、わずかに収縮する。

 グリマタルはこの仮面の男の“正体”に気づいたのかもしれなかった。


 そして、カイルの剣が上段に構えられた。

 刃にまとわりついた光が、異彩を放つ。


「ここまでやるつもりはなかったが……」


 そう言いかけたカイルの動きが、ふと止まる。


 その視線の先――リュシアが立ち上がり、剣を構えていた。


 身体はまだ万全とは言えない。それでも、彼女の目には力が戻っていた。

 奇跡の剣を握る手に、再び神の火が宿っている。


 カイルは、一瞬だけ目を細め、口元に微かな笑みを浮かべた。


「……そうか。だったら」


 剣を下ろす。

 カイルは、竜の足元へ斬撃を叩き込むことで膝を折らせ、動きを封じると、静かに背を向けた。


「後は任せるよ、“勇者”さん」


 その言葉に、リュシアの胸が高鳴る。

 これは――試されている。


「私だって……!」


 傷ついた体を押して、リュシアが駆ける。

 剣に集めた神の火が、彼女の一撃に集約される。

 奇跡が奔流となり、光の刃を形成する。


 竜が再び咆哮するが、遅い。


 リュシアの剣が、竜の胸の刻印を貫いた。


 光が爆ぜ、奇跡の奔流が竜の体内を駆け巡る。

 異質な力と力がぶつかり、ついにはグリマタルの憑依そのものが軋みを上げる。



 リュシアの叫びと共に、剣が深く突き立つ――


 そして次の瞬間、全てが止まった。


 竜が、動きを止めたのだ。


 巨体がぐらりと傾ぎ、ついには地響きを立てて倒れ込む。

 空気を裂いていた瘴気が霧のように薄まり、死霊の軍勢が次々と崩れていく。


 “死霊王グリマタル”、討滅。


 その余波は、まるで嘘のような静けさだった。


 呼吸を整えながらリュシアが剣を突き立て、膝をつく。

 エリカがすぐに駆け寄り、再び癒しの奇跡を展開する。


 カイルはその様子を一瞥し、何も言わずに踵を返した。


 足早に、仮面のまま、彼は夜の霧の中へと消えていく。


 その背に、リュシアはかすかに手を伸ばしかけ――そして、静かに呟いた。


「……あなたが、私の目指した……やっぱり死んでなんかいなかった」


 答えは、風にさらわれていった。


 夜はまだ明けない。けれど、この街には、ひとつの奇跡が訪れたのだった。

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