#69
奇跡の光が再び竜の影に斬りかかる。リュシアの剣が震えるほどの気迫をもって振るわれるたび、周囲の霧が一時的に晴れてはすぐに濃さを取り戻す。
「まだ……足りない……!」
彼女の腕には無数の擦過傷。血が剣の柄を濡らし、握力すら奪いかけていた。
背後では倒れた仲間が呻き声を漏らし、立ち上がろうとするたびに腐敗した風が押し戻していく。
グリマタルの化身たる古代竜は、一切の情を見せることなく咆哮した。
その口から吹き出したのは、火でも氷でもなく――“死”。
すべての生命を冒涜し、腐らせ、屈服させる瘴気そのもの。
「後衛、下がれ!前衛、盾を重ねろ!」
リュシアの怒声が戦場に響く。彼女の足元には聖なる光が満ち、次なる斬撃の予兆が現れていた。
加護により常人を遥かに超えた膂力、俊敏性、強靭性。
さらには毒や呪いに高い耐性を持つ彼女以外に対抗できる存在などいない。
「ティルフィア、もう少しだけ耐えてくれ!」
城壁上の魔法陣では、ティルフィアが唇を噛みながら詠唱を繰り返していた。
彼女が維持する街全体の結界は、グリマタルの瘴気を街の内部に侵入させない唯一の防波堤だった。
そのため、彼女自身は前線に出られず、支援魔法も封じられている。
「リュシア、無理は……」
「無理をしなきゃ、この世界は守れない!」
決意に満ちた叫びとともに、リュシアは再び竜の前脚へと飛び込む。
鋭い突撃。だが、竜の硬質な鱗が再びその刃を弾く。
「くっ……!」
わずかにずれた軌道が、剣を滑らせる。竜の反撃。
巨大な尾が横薙ぎに振るわれ、数人の兵が吹き飛ばされる。
リュシアは間一髪でかわしたが、深く息を吐いたその表情には焦りが滲んでいた。
仲間が減っていく。防げるはずの損耗が、止められない。
敵の硬さ。瘴気の濃さ。奇跡すら届かぬ異常性。
これまで幾度も戦場を潜り抜けてきたリュシアでさえ、今のグリマタルには恐れを覚えていた。
「このままじゃ、いずれ全滅する……!」
しかし、彼女は退がらない。
――それが“勇者”の責務だから。
その時だった。
東門から遠く離れた西の空。そこからわずかに届いた、魔力の鳴動。
城壁の裏手にいる者には聞こえなかっただろう。だが、リュシアには聞こえた。鼓膜ではなく、戦場に身を置く者としての“直感”で。
何かが、動いている――と。
竜が首をもたげ、空を仰ぐ。まるで“嗤う”ように、喉の奥で低い呻き声を漏らした。
直後、再び咆哮が響く。外壁が震え、地が呻き、兵の列が一瞬緩んだ。
「ここで……倒れるわけには……!」
リュシアは再び剣を振り上げた。
しかし、その刃は疲弊していた。仲間たちも限界に近い。
奇跡の力も、無限ではない。
「私は…なんて無力なの」
その声は風に乗り、誰にも届かなかった。
だが――まるで、それに応じるように。
次の瞬間、霧が一部裂けた。
遠くから聞こえる、駆ける音。
空気が震える。
古竜の気配が、一瞬だけ“緊張”したように見えた。
「なに…?」
リュシアが目を凝らす。ティルフィアが魔法陣の中で、一瞬だけ顔を上げた。
だが、何も見えない。霧の向こう――ただ、足音が近づいてくる。
それは、戦況に希望をもたらすのか、それとも……さらなる絶望か。
霧はまだ晴れていない。
だが、その向こうで――何かが確かに、動き出していた。




