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#68

 ――その異変は、音もなく始まった。


 辺境の町に面した東門。薄曇りの夜空の下、前線に立つ者たちの間に、言い知れぬ緊張が漂っていた。

 霧。白く、濃く、地を這うように侵食してくる異様な気配が、足元からじわじわと陣を包み込んでいく。


 最初に異変を察したのは、ティルフィアだった。

 外壁上に立ち、術式による結界の調整を続けていた彼女が、空気の濁りに気づく。


「……来る。普通の魔物じゃないわ」


 低く呟いた彼女の声に、勇者リュシアは無言で応じた。

 その手にはすでに、神の奇跡を宿した聖剣が握られている。銀の刀身には淡い光が浮かび、周囲の霧をわずかに祓っていた。


 そのとき、魔導障壁が軋むように波打った。


 ――そして、現れた。


「……あれは……」


 後方の兵士が震え声を上げた。霧の向こう、月の光すら飲み込む暗黒の中から、ずしりと地を踏みしめる重低音。

 次第に姿を現したのは、かつて語られた“災厄”の化身。

 灰色に朽ちた鱗、翼の膜は破れ、蹄のごとき爪が地を掘り裂く――その巨体は、明らかに“竜”だった。


 だが、ただの古代竜ではない。

 その瞳には意思があった。邪悪で、冷たく、底知れない憎悪と狂気。

 リュシアの口が、震えながらその名を告げる。


「どうやらあれが元凶みたいね」


 死霊王。かつて討ち滅ぼされたはずの存在が、今、古代竜を依り代として現界している。

 ティルフィアが強く歯を噛みしめ、瘴気が街に入らぬよう結界を二重、三重に強化していく。


「結界に近づけるわけにはいかない……私が支えている間に、必ず仕留めて」


「了解」


 リュシアはそれだけ言い、剣を構えて前へ出た。

 東門の前に展開する勇者一党――盾兵、槍兵、弓兵、魔術師。すべてが定位置に着く。


 そのとき、グリマタルが咆哮した。


 空気が震え、大地に亀裂が走る。

 衝撃波で城壁の一部が軋み、後衛の数人が吹き飛ばされる。

 それでも、前線は崩れなかった。盾兵が足を踏みしめ、槍兵が陣を締め直す。


 リュシアが剣を掲げる。

 その瞬間、奇跡の光が刀身に宿り、霧を裂く。


「前衛、突撃! 死ぬな、踏み止まれ!」


 彼女の号令とともに、戦闘が始まった。


 骸骨兵、アンデッドオーク、死してなお従う魔獣たち。

 それらがグリマタルの背後から現れ、波のように押し寄せてくる。


 だが、リュシアの剣はそれを断ち切った。


 奇跡の剣。

 神の祝福を宿し、不浄なるものを祓う剣。

 その軌跡が光となり、触れた亡者を塵へと還す。


「次ッ、次を落として!」


「横を抑えろ、流れるぞッ!」


 叫びが飛び交う中、リュシアは常に最前線に立ち、味方を導いた。

 だが、状況は決して楽観できるものではなかった。


 グリマタルの竜の鱗は奇跡の刃が触れても、黒く焦げるだけでその奥までは届かない。

 斬撃も魔法も、表面を削るだけで根幹には届かなかった。


「効いてない? いや、届いていない……!」


 リュシアが焦りの色を見せたその時、ティルフィアが叫ぶ。


「身に纏っている障壁があるのよ!それを打ち破る強力な攻撃が必要だわ」


「なるほど。普通の魔物とは格が違うってわけね」


 リュシアは歯を食いしばる。

 だが、そんな暇もない。竜の翼が大気を切り裂き、腐臭と瘴気が混ざった嵐が押し寄せる。


「ぐっ……!」


 後衛の兵士たちが次々と倒れる。

 一部は魔障に焼かれ、立ち上がることも叶わなかった。


「退くな!」


 リュシアは自ら盾兵と並び立ち、奇跡の刃で亡者を斬り伏せていく。

 だが、竜の巨躯はあまりにも大きく、あまりにも重かった。


 ティルフィアは外壁の上、魔法陣の中に留まり、全力で街全体を包む結界を維持していた。

 彼女がそれを崩せば、瘴気は街に入り、内部から壊滅する。


 ゆえに、戦線を支えるのはリュシアとその一党のみだった。


「私は、止らない……!」


 血を流しながら、それでもリュシアは剣を構える。

 奇跡の光が再び刀身に宿り、死霊王の軍勢へと突き刺さる。


 戦況は拮抗していた。

 いや――徐々に、不利に傾きつつあった。


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