#67
――敗北の記憶は、霧のように魂を蝕んでいた。
死霊王。
幾度も世界の理を侵し、命あるものを死へと変え続けた支配者。
だが、前回の戦い――あの男、元・勇者との交戦は、彼にとって忘れ難い屈辱だった。
あの戦いで、彼は“死”に最も近いところまで追い詰められた。
神代より積み上げた魂核は砕け、意識は深淵に沈みかけ、霊体すら崩壊の淵にあった。
言葉は、もはや持たない。
意思を伝える術すら、残されてはいなかった。
己を語る理性は溶け、ただ一つ――憎しみだけが、形を保っていた。
あの男だけは、許さない。
人間ごときが、自分に“終わり”を与えかけた。
その事実が、グリマタルにとっては何よりの呪いだった。
けれど、現世に留まるにはあまりにも力が足りない。
その魂は今や断片化し、霊の世界と現世の狭間で、灰色の霧となって漂っていた。
常ならば、ここで消えるはずだった。
しかし、それでもなお彼は“現世”を選んだ。
どうしても、滅びたくなかった。
どうしても、あの男を殺したかった。
――そして、“それ”を見つけた。
深い谷底。かつて竜種の王と恐れられ、封印された古龍。
その巨体は半ば朽ち、肉は削げ、翼は崩れ、眼窩すら空虚だった。
だがその内奥にはまだ、微かな竜の意志が残っていた。
そこへ、グリマタルの魂が“染み込んでいく”。
緩やかに、しかし確実に。
竜の核を犯し、呪いを注ぎ、やがて魂を侵食する。
意志のない融合ではない。
支配。
強制的な、蹂躙による霊的統合。
竜の眼が、一瞬だけ苦しみに震える。
しかし、やがてその光も濁り、黒く、濁流のような瘴気が瞳を満たした。
言葉はない。だが、感情はすべて溢れていた。
怒り、怒り、怒り。
焼けつくような、尽きることなき怒り。
それが、竜の口から瘴気として漏れ出す。
一歩、動いた。
大地が震える。
その腐敗した四肢が地を踏み締めるたび、土は腐り、周囲の草花は一瞬で黒く枯れ落ちる。
瘴気が辺り一面を包む。
その空間に息をしていた獣たちが、もだえ苦しみながら倒れ、やがて、再び立ち上がった。
目が虚ろで、動きはぎこちない。
だがそれでも確かに“動く”。
肉体が、魂の命令に従っている。
もはや彼らは“生者”ではない。
死と、支配の従者――亡者。
朽ちたオークが立ち上がり、骸のまま槍を構える。
大鷲の翼は千切れたまま腐風に乗って滑空し、アンデッドグリフォンとして再誕する。
数刻のうちに、そこには軍が出来ていた。
兵でも軍団でもなく、“死の集団”。
命の輝きを失ったまま、それでも戦いに備える、不滅の亡者たち。
中心に立つのは、巨躯の古代竜。
だが、そこに竜の尊厳は、もはや一片も残っていない。
意思なき咆哮。
その声に、知性はない。ただ執念のうねりだけが響いていた。
名を叫ぶことはできない。
その舌も、声も、奪われている。
だが、魂の底でその名は何度も渦巻いていた。
許せぬ。
断じて、許せぬ。
あの男だけは、この手で葬らねばならぬ。
竜の翼が、腐風を巻き起こしながら広がる。
その風だけで、木々が千切れ、空は黒く濁り、空気が死に満ちていく。
そして、“それ”は歩き出す。
その目的地は、ただ一つ――
周囲の村を踏みつぶしながら東の町。勇者がいる地へ。
瘴気を撒き、死者を従え、黒い塊のように大地を蹂躙しながら進む。
夜が来る。
冷たく、重く、終わりの夜が。
それは静かで、声なき恐怖に満ちていた。
言葉を持たぬ死竜王は、咆哮と瘴気で世界に宣言する。
――我が怒りは、まだ終わっていない。と




