#64
不死族は音もなく迫ってきていた。
西門防壁の上、アズレインは背を丸めることなく立ち尽くしていた。風向きは逆、だが濃霧は逆らうようにじわじわと広がっていた。感覚の奥に刺さる、冷たく、濁った魔力の気配――それが、肌を焼くように静かに沁みていく。
「気配が変わった」
ぼそりと、隣の弓兵が呟く。声が震えていた。
「落ち着け。ゆっくりと深く息を吸うんだ」
アズレインの声は低く、無機質だが、不思議と耳に残る。背後の壁沿いでは冒険者と衛視が混成で布陣していた。年若い者もいる。慣れていない者もいる。だが、今はそれすら問えなかった。
「見えた!」
衛視のひとりが叫ぶ。
霧の奥、地を這うようにして現れたのは、人の形をした“なにか”だった。腐りかけの肉をぶら下げた亡者。骨だけになったものもいれば、鎧を纏った騎士の形を残した個体もいる。
「数…百は下らないな」
アズレインは剣を抜いた。
銀色の刃。刃に打ち込まれた刻印が淡く輝く。魔物狩りに特化して鍛えられた対魔剣。その切れ味は、かつて幾千の魔物の肉を裂き、骨を砕いてきた。
「連中、不死族に変異しているぞ。首か胴を狙え。結界が張られているとは言え外壁には取りつかせるな」
声を張らず、ただ投げるように言う。その一言だけで、冒険者達は自然と配置を整える。
静寂が走った。
やがて、狂いかけた鐘のような呻き声とともに、亡者たちの群れが動き出した。
第一波――短距離を駆け抜け、壁に取り付こうとする死者の群れ。
弓兵が矢を放つ。先端に刻まれた封魔の印が光り、数体を吹き飛ばした。しかし、それでも止まらない。
「下!」
衛視が叫ぶ。
登攀具もなしに、腐肉を擦り付けるようにして壁を這い上がる亡者の爪が、ひとりの冒険者の足を掴んだ。
その瞬間、アズレインの剣が閃く。
――ズッ。
音もなく、その腕が地に落ちた。
「ぼさっとするな。案山子じゃあ、あるまいし」
そう告げた彼は、次の瞬間には前衛の隙間に入り込んでいた。
二体、三体と刃を走らせる。音は少ない。振るい方が違うのだ。無駄がない。力まない。ただ研ぎ澄まされた“殺しの手”だった。
後衛の魔導士が火球を放ち、霧の中を焼き払う。だが濃霧は、火をも飲む。
「無駄に燃やすな。連中、火だるまになっても完全に死ぬわけじゃあない。味方が巻き込まれる」
アズレインは短く止める。火の爆ぜた音が、あたりの静けさをひときわ際立たせた。
「第三班、南寄りへ。間を抜かれる。弓兵、矢の角度が浅いぞ!」
指示は少ないが正確だった。まるで何年も訓練された指揮官のように、動きが無駄なく整っていく。
それでも、数は減らない。
一体、また一体。壁に取り付く者は後を絶たず、冒険者の手も疲弊し始めていた。
「こんなの、きりがない!」
若い衛視の叫びが飛ぶ。
アズレインはその声に返さない。ただ、血に濡れた剣を布で拭い、次の敵へと足を運ぶ。
「無駄口を叩くな。死にたくないならさっさと手を動かせ」
彼の目は、目の前の敵だけを見据えていた。
そして――霧の向こうで、何か大きな気配が動いた。
ざわり、と地が揺れたような感覚。
亡者たちが一斉に動きを止め、霧の奥へと道を開けるように退いたのだ。
その中心に、異様な気配が滲む。
アズレインは剣を持ち直した。眉一つ動かさぬまま、低く構える。
「やれやれ……老体には堪えるな」
夜がさらに深まり、風が止む。
その沈黙の中、西門はなおも耐えていた。




