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#53

 竜のまどろみの二階、カイルの自室ではカイルがエリカの書いたノートに目を通していた。階下の酒場ではマリーの騒いでいる声とフィオナの怒鳴り声が先ほどまで響いていたが今では落ち着き、外で虫の声が細々と響いていた。


「こんばんは、カイルさん。遅くにすみません」


 控えめなノックの音と共に、エリカが入ってきた。

 手には温かいミルクティーの入ったカップがふたつ。

 ひとつを差し出すと、カイルはそれを受け取り、礼も言わずに一口だけすする。


「甘いな。それで折り入って話ってなんだ」


 エリカは少し笑ってから、無言のカイルの向かいに腰を下ろす。

 しばしの沈黙が落ちたあと、エリカがぽつりと切り出した。


「ギルドに、“勇者一行”が来るって話、本当なんですか?」


「ああ。アズレインの口から聞いた。死霊の王の調査で、こっちに足を延ばすってな」


 カイルは淡々と返す。

 エリカはカップを両手で包み、視線を下に落とした。


「“勇者”って、どういう存在なんですか? こっちの世界じゃ、“選ばれた者”って言われるけど……私には、あんまりピンと来なくて」


「勇者は、“称号”だ。希望でも、英雄でもない。戦うために、神に指名された役割――それだけだ」


 その声には、感情を抑えながらも、奥底に滲む冷たい怒りがあった。

 エリカは目を見開いた。

 カイルの声は感情を抑えていたが、その奥にある冷たい熱が、はっきりと伝わってくる。


「俺は幼い頃、神官に連れていかれた。家族の顔も覚えてすらいない。

 “あなたは選ばれたのです”――そう言われて、気づけば剣の持ち方を叩き込まれていた」


 エリカは言葉を失ったまま、黙って耳を傾けていた。


「仲間が死んでも歩みを止めるな、と教えられた。この世界の希望になれ。そう刷り込まれた。――それが勇者だと」


 エリカの手元で、カップがわずかに揺れた。


「それって、あまりに酷い」


「そういうものだと教えられて育てばそうは思わないのさ。本当に自分にとって大切な存在、俺は仲間を失ってから気が付いた……何もかも遅かったがな。自分の力と仲間の力を過信しすぎたんだ、馬鹿な話さ」


 ふと、カイルは棚に目を向ける。

 そこには、瓶に入った“初号:シャンプー”の試作品と、エリカの手書きのラベルが光っていた。


「こうして誰かの役に立つ道具を作ってる方が、よほどマシだよ。それに俺には冒険者の方が性に合ってる」


 その言葉に、エリカは何かを飲み込むように、静かにうなずいた。


「私、勇者って聞くと、どうしても“物語の主人公”を想像しちゃってました。

 選ばれて、戦って、勝って、世界を救って――そんな存在だと思ってたんです」


「少なくとも特別な存在ではあるだろう。ただ、ほとんどの勇者が上位の魔物やグリマタルのような魔物の頂点に出くわしその人生を終える。そして、何の因果か新たな勇者が現れる」


 静かに流れる夜の空気。

 魔石の光が弱く灯り、二人の影が机に落ちていた。


「勇者といっても俺の後を継いだわけじゃない。俺も誰かの後を継いだわけでもないしな。もし国で勇者の素養がある者が発見されれば一大事だ。国同士が競うように勇者の育成に力を入れ、打ち立てる功績に一喜一憂する」


「ゲームの駒みたいに、ですか」


 カイルはわずかに目を細めた。


「そうだな、魔王にたどり着いた勇者なんて誰一人いないのに。勇者は皆それを目指す。魔王の征伐。それこそ勇者の、世界の悲願。そうすれば世界に平和が訪れると妄信している」


 彼はカップを持ち上げ、残ったミルクティーを飲み干す。


「実際には魔王を征伐出来たところで魔物が消えるわけでもない。俺が思うに本当に征伐がなされれば始まるのは本格的な人同士の争いだ。もうすでに国同士で小競り合いが起きている所もある。魔物という存在がある種の抑止力として働いているんじゃないかとさえ俺は思う――あくまで俺の主観だが、お前はどう思う?」


「……わたしもそう思います」


 彼女の声には迷いがなかった。

 異世界から来た彼女の目にも、世界の“歪み”は確かに映っていた。

 再び静けさが工房に満ちる。

 夜の虫の音が、遠くかすかに響いていた。



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