#36
数日後――。
朝靄の名残が街を包み、陽光が斜めに石畳を照らしていた。カイルは、深く呼吸を整えながら竜のまどろみを目指して歩き始めた。まだ包帯の残る右腕には、引き攣るような痛みがわずかに残っている。だが、日常動作に支障が出るほどではない。
パン屋の煙突から香ばしい煙が上がっていた。どこか平和な朝だった。だが、その穏やかな風景にカイルの目はやや鋭く細められていた。
「……そろそろ、戻るか」
簡単な荷物を肩にかけ、外套を羽織りながら歩くカイルは、仕事が終わるたびにせっせとカイルを見舞いに来るナターシャにもう面倒をかけなくて良いな、とふっと笑った。
甲斐甲斐しく通う彼女の姿をもう見る事が出来ないのは少し勿体ない気もしたが。
馴染みの酒場の扉を押し開けると、鈴の音とともに木と酒と焼きパンの匂いが鼻をくすぐった。昼前の酒場はまだ静かで、客もまばらだ。だが、奥の丸テーブルでは、エリカとフィオナが並んで何やら談笑していた。
意外な組み合わせに、カイルは足を止める。
「……ずいぶん仲が良さそうだな」
その一言に、二人が同時に振り向く。先に立ち上がったのはエリカだった。相変わらず清楚な雰囲気を纏いながら、微笑みを浮かべて歩み寄る。
「カイルさん。無理はしてませんか? その、体は大丈夫なんですか?」
「まあな。派手に痛んではいたが、動かせるくらいには回復したよ。心配かけたな」
エリカはほっと安堵の息をつき、手元のハンカチをぎゅっと握った。フィオナも、珍しく素直に頷いた。
「ホントに心配したんだから。エリカに聞いてもどこにいるかわからないって言うし…また消えちゃったのかと」
言いかけて口をつぐみ、フィオナはそっぽを向く。だが、頬がわずかに赤くなっているのをカイルは見逃さなかった。
「それにしても、お前たち……なんだ? まるで昔からの親友みたいな雰囲気じゃないか」
カイルの揶揄混じりの問いに、フィオナがちらりと横目を向けた。
「……別に、仲良しってわけじゃないわよ。ただ……」
「ただ?」
「髪をとかしてくれたり、食事を用意してくれたり……いつの間にか一緒にいる時間が増えてただけ」
「それを仲が良いって言うんだよ」
カイルが肩をすくめて笑うと、フィオナはむくれて紅茶をすすった。
「エリカの料理は意外と美味しいのよ。私、料理下手だし」
「意外とってなんですか。意外とって……」
エリカは苦笑しながら、カイルに席を勧めた。
しばらくして、三人は二階の個室へと移動した。
カイルの部屋は相変わらず質素だった。書棚には冒険者指南書や古い地図が並び、壁には使い込まれた剣が掛かっている。机の上には乾いた薬草がまとめられ、カイルが長年培ってきた癖がにじみ出ていた。
エリカが静かに茶を淹れ、フィオナが本棚を覗き込みながら、「この本、読んでいい?」と尋ねる。
「勝手に読め。眠くなる内容ばっかりだがな」
会話が少しずつ弛緩し、部屋に柔らかな空気が満ち始めたその時だった。
カイルは座ったまま、まっすぐに二人を見つめて言った。
「しばらくの間、俺は別行動だ」
「え……?」
「この身体じゃ、何かあった時にお前たちを守り切れない。だから――代わりに、ある剣士を紹介するつもりだ」
エリカとフィオナは顔を見合わせた。
「どんな人……ですか?」
「腕は確かだ。ただし、性格には難あり。酒と女にだらしない上に、口は悪い」
「……うわ。なんか嫌な予感しかしないわね」
フィオナが呆れたようにため息をつくが、エリカは小さく笑った。
「でも、カイルさんが信頼してる人なんでしょう?」
「……信頼っていうか、でかい貸しがあるんだよ。でなきゃ紹介なんかしない」
そう言ったカイルの声には、少しだけ懐かしさがにじんでいた。
外では教会の鐘が午前の終わりを告げていた。




