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元勇者、冒険者として第二の人生を歩む  作者: 橘ユウマ
忘れられた地下聖堂ー邂逅ー
35/174

#35

 魔石灯のほのかな光が、夜の静けさを溶かすように、屋敷の中をやさしく照らしていた。古びた石造りの廊下には、人の気配もない。ただ、風もないのにわずかに揺れる光が、淡く床に影を落としている。

 戸口へと続く長い廊下。その静寂を破るように、一定のリズムで足音が響いた。革靴が石を打つその音は、抑えようとしてもにじみ出る焦りを含んでいるようだった。


 カイルはその音に気づき、眠っていた目を静かに開けた。


 誰かが近づいてくる。だが、ノックの音はなかった。

 ただ、木製の扉がゆっくりと小さく軋んで開く。


 灯りの影に切り取られたその輪郭は、すぐにカイルの目に馴染んだ。


「……来るなと言った覚えはないな」


 そう言ったカイルの声は、どこか照れくさげだった。扉の向こうに立っていた金髪の女性――ナターシャは、一瞬言葉に詰まったが、すぐに静かに歩み寄ってきた。黒の外套を脱いで椅子に掛けると、そのまま無言でカイルの枕元に腰を下ろす。


「顔色が悪いわ……まだ痛むのね」


「まあな。命にかかわるようなものじゃないから、心配するな」


 そう答えながらも、カイルはほんのわずかに顔をしかめた。痛みは誤魔化せても、彼女の視線はごまかせない。

 ナターシャは返事をしなかった。ただその瞳だけが、深く彼の顔を見つめていた。冷たく整った目元――だがその光は、いつもの鋭さを欠き、揺らいでいた。


「来るなと言われても来てたわ……ギルドマスターに知らされるまで、何も分からなかったのよ? あまつさえ死にかけたと聞いて……黙ってなんかいられなかった」


「心配、してくれたのか」


「当然よ」


 ナターシャはすぐにそう言った。珍しく感情を抑えきれなかったようで、その声はわずかに震えていた。ふいに、包帯に覆われたカイルの右腕に目を落とし、その指先がためらいがちに触れようとして――しかし途中で止まり、手を握った。


「本当に大丈夫なんでしょうね?」


「嘘はつかない。信じてくれよ」


「どうでしょうね? 割とあなたって嘘つくから……特に女性がらみの。何度見え透いた嘘をつかれたか」


 冗談を言っている様子ではなかった。小さくうめくカイルを見て、ナターシャはくすりと笑った。


「ひどい言われ様だな」


「事実だからしょうがないわね」


 気まずい沈黙が落ちた。医療室の中で、魔石灯が小さく揺れ、二人の影を淡く映す。カイルはしばらくその言葉を噛みしめるように黙していたが、ナターシャに抱き寄せられ、ほっと胸をなでおろした。


「まぁ、今はとりあえず水に流してあげる。感謝しなさいよね?」


 カイルは彼女のぬくもりを感じながら、痛む腕をそっと彼女の背に回す。


「今なら死んでも良いかも」


「縁起でもないこと言うな! ……ちょっと、ダメだってば……ちゃんと治ってから……」


 慌てた声。ナターシャの頬にわずかな紅が差す。目をそらす彼女の声に、カイルはただ静かに耳を傾けていた。


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