#35
魔石灯のほのかな光が、夜の静けさを溶かすように、屋敷の中をやさしく照らしていた。古びた石造りの廊下には、人の気配もない。ただ、風もないのにわずかに揺れる光が、淡く床に影を落としている。
戸口へと続く長い廊下。その静寂を破るように、一定のリズムで足音が響いた。革靴が石を打つその音は、抑えようとしてもにじみ出る焦りを含んでいるようだった。
カイルはその音に気づき、眠っていた目を静かに開けた。
誰かが近づいてくる。だが、ノックの音はなかった。
ただ、木製の扉がゆっくりと小さく軋んで開く。
灯りの影に切り取られたその輪郭は、すぐにカイルの目に馴染んだ。
「……来るなと言った覚えはないな」
そう言ったカイルの声は、どこか照れくさげだった。扉の向こうに立っていた金髪の女性――ナターシャは、一瞬言葉に詰まったが、すぐに静かに歩み寄ってきた。黒の外套を脱いで椅子に掛けると、そのまま無言でカイルの枕元に腰を下ろす。
「顔色が悪いわ……まだ痛むのね」
「まあな。命にかかわるようなものじゃないから、心配するな」
そう答えながらも、カイルはほんのわずかに顔をしかめた。痛みは誤魔化せても、彼女の視線はごまかせない。
ナターシャは返事をしなかった。ただその瞳だけが、深く彼の顔を見つめていた。冷たく整った目元――だがその光は、いつもの鋭さを欠き、揺らいでいた。
「来るなと言われても来てたわ……ギルドマスターに知らされるまで、何も分からなかったのよ? あまつさえ死にかけたと聞いて……黙ってなんかいられなかった」
「心配、してくれたのか」
「当然よ」
ナターシャはすぐにそう言った。珍しく感情を抑えきれなかったようで、その声はわずかに震えていた。ふいに、包帯に覆われたカイルの右腕に目を落とし、その指先がためらいがちに触れようとして――しかし途中で止まり、手を握った。
「本当に大丈夫なんでしょうね?」
「嘘はつかない。信じてくれよ」
「どうでしょうね? 割とあなたって嘘つくから……特に女性がらみの。何度見え透いた嘘をつかれたか」
冗談を言っている様子ではなかった。小さくうめくカイルを見て、ナターシャはくすりと笑った。
「ひどい言われ様だな」
「事実だからしょうがないわね」
気まずい沈黙が落ちた。医療室の中で、魔石灯が小さく揺れ、二人の影を淡く映す。カイルはしばらくその言葉を噛みしめるように黙していたが、ナターシャに抱き寄せられ、ほっと胸をなでおろした。
「まぁ、今はとりあえず水に流してあげる。感謝しなさいよね?」
カイルは彼女のぬくもりを感じながら、痛む腕をそっと彼女の背に回す。
「今なら死んでも良いかも」
「縁起でもないこと言うな! ……ちょっと、ダメだってば……ちゃんと治ってから……」
慌てた声。ナターシャの頬にわずかな紅が差す。目をそらす彼女の声に、カイルはただ静かに耳を傾けていた。




