#29
グリマタルの死者の書が開かれた瞬間、礼拝堂の空気が変わった。
石壁に刻まれた古紋が淡く輝き出し、空間そのものが軋みを上げる。何かがこちらの世界に足を踏み入れようとしていた。
頁が、風もないのにゆっくりと捲られる。そこから漏れ出したのは、実体を持たぬ呪詛――夥しい死者の呻き、断末魔、悔恨。名もなき魂の声が幾重にも重なり合い、耳ではなく脳を直接侵してくる。
「なるほど……忌々しい。貴様はこの場で確実に屠る。勇者と謳われたその名が、悔いと共に葬られるだろう」
グリマタルの眼差しが、ただひとりを射抜いていた。
彼にとって、他は意味を成さない。エリカもフィオナもそこにいたが、すでに戦場の只中からは退いていた。彼女たちもまた、それを悟っていた。
カイルは一歩、静かに前へ出た。柄を握る指先には力がこもっていない。それでもその眼差しは、獲物を見据える狩人そのものだった。
「もう二度と、お前みたいな化け物と踊ることはないと思ってたがな……」
書の頁が捲られ、濁った影が床から這い出してくる。それは生者に擬態した死。かつての英雄たち――剣を携えた者、矛を突く者、魔法で世界を焼いた者。その全てが死に損なった断末魔としてカイルへと迫る。
カイルの足が動いた。迫りくる骸影より早く敵の死角へと滑り込む。最初の骸影が、一太刀で首を跳ね飛ばされた。返り血はない。ただ、斬られた魂の残響が呪詛となって空間に残る。
後方からの気配に、振り返らず刃を返す。闇が裂け、迫っていた影が分断される。無駄のない一撃。呼吸するように斬り、間断なく次へ備える。
グリマタルは動かない。死者の書を開いたまま、静止している。その周囲には無数の呪文陣が浮かび、色と光の常識が歪み始めていた。
(視界が狭い……いや、違う。これは目じゃない。認識そのものを侵されている)
世界が傾く。重力ではなく、現実の基盤が歪められている。グリマタルが、死者の書を通して「世界」を書き換えていた。
裂けた床から手が伸びる。白骨の指に、かつての戦場で見た顔があった。自分自身の姿――よりにもよって、己を模した骸が這い寄ってくる。
「……不快だな」
カイルは眉一つ動かさず、刃を突き立てる。硬い感触。だが確かに斬れた。幻想ではない。これは現実に変えられた呪いだ。
「運命に抗う者は、いずれすべてを悔いる」
グリマタルの言葉に意味はない。ただ精神を侵す毒のような音に過ぎない。だが、カイルは揺るがない。
剣を握る右腕が熱を帯びる。筋肉が硬直を拒み、皮膚の奥から神性が滲む。鼓動と共に湧き上がる加護の力。神が授けた神聖が、あらゆる呪いを否定していく。
左胸の奥で、心臓の鼓動が打ち鳴らされるたびに、存在そのものが空間を押し返す。何も変わっていないはずのその姿が、景色の中で異質に浮かび上がる。
エリカが息を呑み、フィオナが無意識に後ずさる。彼女たちも理解していた。カイルは今、かつての"勇者"としての姿を取り戻しつつあった。
「そうかな……ところで、お前は気づいてるか?」
カイルは刃を構え直す。再び召喚される死の使いどもは、もはや遅い。彼の動きは、人の域を超えていた。
次の一太刀は、呪いそのものを断ち切る。死者の咆哮も、亡者の痛みも届かない。ただ、純粋な「否定」としての刃だけがそこにある。
カイルは囁くように言った。
「これが……元々誰のものだったのか」
剣が風を斬り裂くたび、空間の呪縛が断ち切られていく。
グリマタルの書から漏れる光が、わずかに揺らいだ。




