#23
朝靄の漂うギルドは、まだ完全には目を覚ましていなかった。
常ならば喧騒が満ちる帳場も、今はほとんど無人で、かすかな紙擦れの音だけが空気を割っている。
その中心で、ナターシャは変わらぬ手付きで帳簿を捲っていた。長い金髪を後ろで束ね制服の襟元をきっちりと整えた彼女の姿は、いつも通りに見えた――ただ、そこには誰にも見せぬ張りつめた静けさがあった。
「……随分早いな」
声をかけたのはカイルだった。外套を羽織り、旅の支度を終えた男の気配に、ナターシャはそっと顔を上げた。
「私は優秀な冒険者ギルドの職員ですからね」
軽口まじりの返答に、わずかに笑みが混じる。だがその目は真剣だった。
「なんだ……心配してくれるのか?」
「当たり前でしょ。私はギルドの受付嬢だけど、あなたの女なのよ」
言いながら、ナターシャは目を伏せた。その声音には、冗談とも本気ともつかない苦さが滲んでいた。まだギルドの職員や冒険者がいないために二人は公然と話しているがエリカは二人の会話に顔を赤くする。
「いつ帰ってくるの?あなたっていつも……」
「以前に俺を助けてくれた人がいてな。彼の真似事さ」
そう言ったカイルの目は、どこまでも真っ直ぐだった。
ナターシャは小さく息を吐き、ふと指先で帳簿の隅をなぞった。
「じゃあ、帰ってきたら――」
「また例の場所で休暇と行こうか」
二人からくすりと笑いが漏れた。
「楽しみにしてる」
そうして、言葉にならぬ感情を残しながら、二人はそれ以上、踏み込まなかった。
やがてギルドの裏手、厩舎へと歩を進める。そこには既に準備された馬が待っていた。
「うわ……お、大きい……」
エリカの声が緊張に震えていた。白い神官装束のマントを揺らしながら、彼女は一頭の栗毛馬の前に立ち尽くしていた。
「……大丈夫か?」
カイルの問いに、エリカは苦笑で返す。
「騎乗訓練は、ほんの少しだけ受けました。でも、そのとき落馬して……腰を打って、三日寝込みました」
「そりゃ期待できそうにないな」
「精一杯、頑張ります」
萎縮するようなその姿に、カイルは肩をすくめて馬の傍らに歩み寄ると、鞍を押さえてやる。
「手綱は軽く握れ。力を入れすぎると馬が戸惑う。片足を鐙に――そう、腰を軸にして――」
エリカはぎこちない動きながらも、どうにか鞍にまたがった。だが背筋はピンと伸び、両脚が強ばっている。
「緊張しすぎだ。落ち着け」
「は、はい!」
彼女の瞳に浮かぶのは、恐れと、それを越える意志。
「ありがとうございます。……頑張って、ついていきます」
「道は長い。足を止めなきゃ、それでいい」
カイルが馬に跨がると、蹄の音が石畳を打った。
ギルドを背に、二人の影は朝霧のなかへと消えてゆく。
その窓辺に、ナターシャは佇んでいた。
声をかけることも、呼び止めることもせず――ただ、無事を祈るように、その背中を見つめていた。




