#22
ギルドの奥にある小部屋は、ひどく静かだった。外の賑わいが嘘のように遠く、分厚い扉と古びた石壁が喧騒を締め出していた。壁沿いには書架が並び、羊皮紙と革の背表紙が時の重みを物語る。窓はなく、かすかな蝋燭の光だけが空気を揺らしている。
部屋の主であるアズレインは、深く座った椅子の背もたれに寄りかかり、湯飲みを手にしていた。彼の髪は銀白に染まり、年齢を物語っていたが、その瞳は不思議なほど鋭く、まるで人の本質を透かして見るかのような光を宿していた。
「そこに立ってると話が進まん。座れ」
アズレインの低い声が背後から響き、エリカはわずかに肩を震わせた。促されるままに椅子に腰を下ろすと、神殿の白いマントが膝の上で揺れた。緊張していた。こうした場所に呼ばれるのも、こうした人物と真正面から言葉を交わすのも、彼女にとっては初めてに近い経験だった。
「……ふむ。異世界から来た娘、か」
アズレインは指を組み、視線をゆっくりとエリカに向けた。拒絶も歓迎もない。ただ、老練な者特有の、見定めるような眼差し。
「まるでお伽話のような話だな。とはいえ、君の言葉を全く疑うわけではない。この世界では、“あり得ぬ”という判断が何の役にも立たぬことを、我々は嫌というほど見てきたからな」
彼は言葉を切り、視線を机に落とした。その先には数枚の羊皮紙と、古びた地図、赤茶けたインク壺が置かれている。
「君の“元の世界”がどこにあるのか、我々がそれを地図に描けるわけではない。だが、かつて似たような記録――次元を越えた現象についての言及はいくつか存在している。“境界の書”や、“星落ちの記録”と呼ばれる古文書だ」
エリカの眉が動いた。「それらは、今どこに?」
「待て」
アズレインは片手を上げ、彼女の言葉を制した。その仕草は穏やかだったが、有無を言わせぬ威圧感があった。
「それらの文献の多くは、今や遺跡の奥深くに封印されている。誰もが自由に出入りできるような場所ではない。結界が残り、魔物が巣くう領域もある。君がそこに向かう覚悟があるかどうかが、まず問われる」
「私は……」
エリカは一瞬、言葉に詰まった。神殿での修業、戦場の片隅での神官として負傷者を治療する日々。それらは決して無駄ではなかったが、目の前の二人が歩いてきた道と比べれば、あまりにも小さく、脆いものだった。
「……私は、元いた世界に帰りたい。そのためにできることなら、なんでもする覚悟はあります」
はっきりとしたその言葉に、アズレインはわずかに目を細めた。
「いい返答だ。ただ、口だけでは通じないのがこの世界だ」
彼は立ち上がり、書架の中から一枚の羊皮紙を抜き取り、机の上に広げた。そこには、風化した地図とともに、薄く読み取れる文字が並んでいた。
「“忘れられた地下聖堂”――この名を聞いたことはあるか?」
首を横に振るエリカに、アズレインはうなずいた。
「ここから北東に位置する古の修道院跡、その地下に眠る遺構だ。古い信仰の拠点だったが、百年以上前に閉ざされた。近年、そこから魔力の異常な揺らぎが観測されている。放置できぬ事態だ」
「……そこに、“異界”に関する何かが?」
「確証はない。だが、当時の信仰は“世界の狭間”と呼ばれる概念に強く傾倒していた。その名残があるならば、何かしらの手がかりが眠っているかもしれん」
沈黙が落ちた。エリカの表情に不安と希望が交錯する。それを見ていたカイルが、立ち上がる。
「行くぞ」
短く、しかし力強い声だった。アズレインはその背中を見送りながら、ぽつりと呟いた。
「……まったく。いつも予想より動きが早いな、あの男は」
エリカも立ち上がる。視線はまっすぐ前を向いていた。未知への恐怖はある。だが、それ以上に、心の奥に灯った光が彼女を突き動かしていた。
ついに、自分の“帰る”ための旅が、動き始めるのだ。




