#21
朝の酒場は、夜とはまるで別の顔をしていた。木造の梁に差し込む陽光は穏やかで、あの喧騒がただの幻だったかのよう。エリカはまだ少し慣れないこの世界の空気を胸いっぱいに吸い、台所の窓をそっと開けた。火を落としたスープの鍋からは、野菜と豆の香りが立ち昇っている。
鍋を手にカウンターへ出たところで、カイルが階段を降りてくるのが見えた。
カイルは、まるで影のように静かに動く。目が合うと、何か悪いことをしたような気持ちになる。彼にしてみればエリカの事を決して悪く思っているわけではないのだが。
「おはようございます。……勝手に厨房を使ってしまって、すみません」
「俺の店じゃないし、女将さんが良いって言っているなら良いだろ」
その言葉に、エリカの胸が縮こまる。けれどカイルは椅子に腰を下ろし、静かにスープを口に運んだ。
少しの沈黙が流れる。
「……珍しい味だけど、俺は気に入ってるよ、お前の料理」
その言葉に、エリカは胸の奥でひっそりと息を吐いた。彼にしてみれば珍しく彼女を気遣った言葉だった。
「ありがとうございます。あちらでは、よく作っていたので……」
言いかけて、エリカは自分の言葉に戸惑った。“あちら”とは、元の世界のこと。でもそれを説明すれば、また面倒をかけてしまう気がして、彼女はそれ以上口をつぐんだ。
カイルはスープを飲み干すと、椅子を引いて立ち上がった。その動作一つすら、彼は静かで迷いがなかった。
「今日はギルドに顔を出す。お前も来い」
「……私も?」
思わずエリカは問い返す。数年前なら、きっと戸惑って固まっていただろう。
神殿で修行を積み、幾つかの小さな依頼もこなしてきた。それでも彼のような人物に並ぶには、まだまだ足りないことは痛いほど分かっている。
「お前の目的を達成する術を俺は知らない。だから生き字引に話を聞こうと思ってな…対価に面倒な依頼を押し付けられるかもしれないが、覚悟しておけよ」
エリカは頷いた。
「わかりました。準備、してきます」
エリカが身なりを整えるのに、さほど時間はかからなかった。神殿で教えられた簡素で清潔な着付けは、今でも身体に染みついている。肩にかけた白いマントには、古びた銀の紋章が縫い付けられていた。
街路に出ると、朝の空気は思いのほか冷たかった。通りには市場の準備をする人々の姿があり、どこか落ち着いたざわめきが広がっている。
エリカは歩きながら、カイルの背中をそっと見つめた。
「静かですね。まるで、何も起こっていないみたい」
そう口にした途端、私の声が場違いなものに感じられて、少しだけ後悔した。だがカイルは立ち止まらずに答えた。
「魔物の脅威が、まだここまで届いていないだけだ。……運よく、な」
その言葉は、予言でも脅しでもなく、ただの事実のように聞こえた。
「その“いつか”を遅らせるために、戦っている人たちもいるんですね」
彼はちらりとこちらを見た。言葉は返ってこなかったが、その視線が否定ではなかったことが、少し嬉しかった。
ギルドの扉を押し開けると、すぐに目に飛び込んできたのは依頼書を掲示板に張る一人の壮年の男性だった。
銀白の髪を後ろにまとめ、くたびれた羽織に身を包んだ老人。だが、その眼差しはまるで狼のように鋭い。
「カイルか。こんな朝っぱらから顔を出すとは、風邪でも引いたか?」
「丁度良かった。少し時間をくれ、アズレイン」
カイルがそう言って顎で私を示すと、アズレインと呼ばれた老人は一度だけまばたきし、椅子の背もたれに体重を預けた。
「……なるほど。話を聞こうか」
小さく一礼して、エリカは二人のあとに続いた。ここで何が得られるか分からない。でも、帰るための手がかりがあるかもしれない。元の世界に帰還するための“方法”が、見つかるかもしれなかった。




