表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/174

#20

 夜明けの薄明かりが、「竜のまどろみ」の二階にある小さな窓からそっと差し込んでいた。

 まどろみの中でエリカは目を開ける。天井を走る木の梁、古びた家具、そして棚に並んだ数冊の本――まだ馴染みの薄い景色だが、不思議と心に落ち着きを与えてくれるようになってきていた。


 この部屋は元々倉庫だったという。天井は低く、広さもないが、寝具や調度はきちんと整えられ、誰かの手で丁寧に掃除された痕がある。

 ここを使わせてもらえるようになったのは、ほんの数日前のことだ。カイルの帰りを待つ間、厨房を手伝っていた礼として、女将が気軽に鍵を渡してくれた。


「腕のいい料理人にすぐ出ていかれたら、こっちが困るからね。ああ、料理人といっても冒険者としての依頼がない、手伝える時だけでいいからね」


 そんな言葉とともに手渡された鍵は、エリカにとって、ただの金属片以上の重みを持っていた。

 異世界で初めて得た“居場所”――その響きに、胸の奥が静かにあたたまる。


 だが、その温もりに甘えてはいられなかった。


 彼女は起き上がると、小さな引き出しから大切なものを取り出す。

 それは、元の世界から持ち込んだ唯一の私物――手のひらに収まる端末型のデバイス。

 画面には、4人の姿が映っている。優しい微笑みを浮かべた母、屈託なく笑う姉、無邪気に笑う弟、そしてその隣で肩を並べる自分。今より少し幼く、まだ世界の広さも重さも知らない顔。


「……帰らなきゃ」


 小さく呟いて、エリカは画面を消す。

 何度も絶望しかけた。命を落としかけたことも、一度や二度ではない。それでも歩みを止めずにここまで来られたのは、この写真に映る“日常”が、自分を支えてくれていたからだった。


 母の料理の匂い、弟の声、あの何気ない風景。

 それらがもう二度と戻らないかもしれないという不安と、それでも必ず帰るという誓いが、エリカを突き動かしてきた。


 神官として使える奇跡は、まだ半人前。

 だがこの世界での経験は、確かに彼女を成長させている。そして、思いがけず評価されたもう一つの力――料理。

 元の世界では、家族のために作っていた日々の献立。それが、ここでは人の心を和らげ、笑顔を生み出していた。


 昨夜、カイルが呟いた言葉がふとよみがえる。

 ――「料理人のほうが向いてるんじゃないか」――


 そのとき、胸の奥がわずかにざわついた。

 認められることへの喜びと、それでも変わらない目的との狭間で揺れ動くもの。


(たしかに、料理をしていると心が落ち着く。楽しいと思うこともある。でも……)


 思考の先を、エリカはそっと胸の奥に仕舞う。

 窓の外に目をやれば、夜の名残が徐々に薄紅の空へと溶けていく。

 静かな夜明け――新しい一日のはじまりを告げる空が、そこに広がっていた。


 やがて、階下からパンの焼ける香ばしい匂いと、薪がはぜる音が聞こえてくる。


 エリカは立ち上がり、ローブと布エプロンを身につけた。

 神官として、そして今は料理人としての装い。それが思いのほか自然に馴染んでいる自分に、少しだけ笑ってしまう。


 階段を降りると、女将が厨房で野菜を刻んでいた。


「おはよう、エリカ。よく眠れたかい?」


「はい、とても……ありがとうございます」


「そりゃよかった。あんたが来てから、客も増えたし、ルイナも楽しそうでね。ほんと助かってるよ」


 その言葉に、特別な飾りはない。ただ日常の一部として、穏やかに交わされた信頼の言葉。


 この世界は、厳しく、残酷で、命さえ脅かされる。

 それでも――こうして誰かと笑い、力になれる日々がある。


 エリカは深くうなずくと、厨房に立った。

 今日もまた、香草を刻む指先が震えないように、丁寧に、正確に。


 その小さな積み重ねが、きっと未来へと続いていると信じて。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ