#20
夜明けの薄明かりが、「竜のまどろみ」の二階にある小さな窓からそっと差し込んでいた。
まどろみの中でエリカは目を開ける。天井を走る木の梁、古びた家具、そして棚に並んだ数冊の本――まだ馴染みの薄い景色だが、不思議と心に落ち着きを与えてくれるようになってきていた。
この部屋は元々倉庫だったという。天井は低く、広さもないが、寝具や調度はきちんと整えられ、誰かの手で丁寧に掃除された痕がある。
ここを使わせてもらえるようになったのは、ほんの数日前のことだ。カイルの帰りを待つ間、厨房を手伝っていた礼として、女将が気軽に鍵を渡してくれた。
「腕のいい料理人にすぐ出ていかれたら、こっちが困るからね。ああ、料理人といっても冒険者としての依頼がない、手伝える時だけでいいからね」
そんな言葉とともに手渡された鍵は、エリカにとって、ただの金属片以上の重みを持っていた。
異世界で初めて得た“居場所”――その響きに、胸の奥が静かにあたたまる。
だが、その温もりに甘えてはいられなかった。
彼女は起き上がると、小さな引き出しから大切なものを取り出す。
それは、元の世界から持ち込んだ唯一の私物――手のひらに収まる端末型のデバイス。
画面には、4人の姿が映っている。優しい微笑みを浮かべた母、屈託なく笑う姉、無邪気に笑う弟、そしてその隣で肩を並べる自分。今より少し幼く、まだ世界の広さも重さも知らない顔。
「……帰らなきゃ」
小さく呟いて、エリカは画面を消す。
何度も絶望しかけた。命を落としかけたことも、一度や二度ではない。それでも歩みを止めずにここまで来られたのは、この写真に映る“日常”が、自分を支えてくれていたからだった。
母の料理の匂い、弟の声、あの何気ない風景。
それらがもう二度と戻らないかもしれないという不安と、それでも必ず帰るという誓いが、エリカを突き動かしてきた。
神官として使える奇跡は、まだ半人前。
だがこの世界での経験は、確かに彼女を成長させている。そして、思いがけず評価されたもう一つの力――料理。
元の世界では、家族のために作っていた日々の献立。それが、ここでは人の心を和らげ、笑顔を生み出していた。
昨夜、カイルが呟いた言葉がふとよみがえる。
――「料理人のほうが向いてるんじゃないか」――
そのとき、胸の奥がわずかにざわついた。
認められることへの喜びと、それでも変わらない目的との狭間で揺れ動くもの。
(たしかに、料理をしていると心が落ち着く。楽しいと思うこともある。でも……)
思考の先を、エリカはそっと胸の奥に仕舞う。
窓の外に目をやれば、夜の名残が徐々に薄紅の空へと溶けていく。
静かな夜明け――新しい一日のはじまりを告げる空が、そこに広がっていた。
やがて、階下からパンの焼ける香ばしい匂いと、薪がはぜる音が聞こえてくる。
エリカは立ち上がり、ローブと布エプロンを身につけた。
神官として、そして今は料理人としての装い。それが思いのほか自然に馴染んでいる自分に、少しだけ笑ってしまう。
階段を降りると、女将が厨房で野菜を刻んでいた。
「おはよう、エリカ。よく眠れたかい?」
「はい、とても……ありがとうございます」
「そりゃよかった。あんたが来てから、客も増えたし、ルイナも楽しそうでね。ほんと助かってるよ」
その言葉に、特別な飾りはない。ただ日常の一部として、穏やかに交わされた信頼の言葉。
この世界は、厳しく、残酷で、命さえ脅かされる。
それでも――こうして誰かと笑い、力になれる日々がある。
エリカは深くうなずくと、厨房に立った。
今日もまた、香草を刻む指先が震えないように、丁寧に、正確に。
その小さな積み重ねが、きっと未来へと続いていると信じて。




