#2
カイル・グレイヴスは、今日も変わらぬ朝を迎えていた。
古びた酒場の二階、借りた部屋の簡素なベッドの上で目を覚ました彼は、天井の木目をぼんやりと見つめる。風が窓の隙間から吹き込み、乾いた埃と古い酒の匂いが鼻をついた。
外からは、荷馬車の車輪が軋む音と、遠くから聞こえる市の呼び声が入り混じって聞こえる。小さな街での朝は、どこか牧歌的で、どこか嘘めいていた。
「……もう朝か」
低く呟き、彼は体を起こした。寝癖のついた黒髪を指でかき上げながら、無造作に荷物をまとめる。肩掛けの布と、無骨な剣を背に背負うと、その姿は冒険者そのものだった。
鏡に映る自分の顔を、彼はしばし見つめる。銀髪だった頃の面影は、今やどこにもない。霊薬によって黒く染めた髪と瞳――それは、勇者という過去を切り捨てるための仮面だった。
階下に降りると、酒場は既に開いていた。
酔っ払いがテーブルに突っ伏し、女将の怒鳴り声が朝の騒がしさに溶けていた。鉄と木でできた粗末な内装、しけたパンと安酒の匂い。だが、カイルにとってはそれが何よりの「日常」だった。
「お、カイルさん。もう仕事?」
給仕の娘、ルイナが声をかけてくる。まだ十五かそこらの、あどけなさを残した少女だった。
「ああ。ギルドから依頼が来てた。墓地でアンデッドが目撃されたらしい」
「また? 最近多くない? 気味悪いな……」
「だから呼ばれたんだろう」
カイルはいつも通りパンとチーズを頼み、席に腰を下ろした。ルイナが皿を置くと同時に、傍らの老人が話しかけてくる。
「よう、カイル。例の山道の盗賊ども、片付けてくれてありがとよ」
「報酬は貰ったさ。礼はいらない」
「いやいや、おかげで娘が安心して嫁に行けるってもんだ。ほんとに世話になったよ」
老人の手には、粗末な木細工の御守りが握られていた。
そういう些細な感謝が、カイルの今を繋ぎ止めていた。英雄ではなく、ただの便利屋として――人々の役に立つ存在として。
だが、彼は感じていた。
この静かな日常の奥に、何かがうごめいていることを。
(……最近、街の周囲で獣の姿が減ってきている。様子がおかしい)
ちぎったパンを口に運びながら、彼の脳裏には昨日届いた依頼書の内容が蘇る。
街外れの古い墓地で、未確認の影が目撃された。屍人が地中から這い出てきたという証言。報酬は銀貨五十枚。危険度は中程度――だが、カイルの直感は別の警鐘を鳴らしていた。
(小さな異変は、大きな災厄の前触れだ)
それはかつて、彼が何度も戦場で体感してきたことだった。
敵の気配。血の気配。そして、死を孕んだ風。
「ルイナ、俺が戻るまで、あまり外に出るな」
「え……? な、なんでよ。いつも通りの依頼でしょ?」
カイルはそれ以上言わず、剣の柄にそっと手をかけた。
彼の背には、あの日の戦場の記憶が今も焼き付いている。剣が折れ、仲間が死に、希望が塵となったあの場所。あの絶望を、もう誰にも味わわせたくはなかった。
――せめて目の届く人間くらいは助けたいもんだが。
彼は静かに立ち上がった。