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#18

ワインの香りがほのかに残る空気のなかで、ナターシャは頬杖をつきながら、じっとカイルを見つめていた。

 笑っているわけでも、怒っているわけでもない。ただ――困ったように、それでもどこか期待を宿した、柔らかな瞳。


「……本当はね、こうして来るのも、ちょっと緊張してたのよ?」


「お前が?」


 意外そうに眉を上げたカイルの表情に、ナターシャはふふっと小さく笑った。ギルドでの喧騒が起ころうといつも涼しい顔の彼女が、緊張するとは思ってもいなかったのだ。

 以前、彼女がしつこくせがんで教えた“ここ”の存在。秘密の隠れ家。表向きは倉庫の裏に過ぎないが、その奥には、カイルと数名しか知らぬ静かな中庭と一室が広がっている。


 そして、いまは不在とはいえ、この場所の共同管理者であるアズレインに知られたら……まず間違いなく文句や小言が飛んでくるだろう。だがカイルは、それをひとまず頭の隅に追いやった。


「信じられない? でも……こういう場所って、特別じゃない? 冒険者様にとっては見慣れた光景でも、私には初めてなのよ」


 ナターシャの視線は、中庭へと向けられていた。

 魔石灯の日が差し込む静謐な空間――誰にも知られず、そっと息をひそめるように佇む“秘密の庭”。その柔らかな光が、彼女の横顔を美しく照らしていた。


 カイルは、そんな彼女を眺めながらぽつりと言った。


「仕事してる時より、今の顔のほうがいいな」


「なにそれ……急にそういうこと言うの、ずるいわ」


 ナターシャが目をそらす。頬に、そして耳に、かすかな紅が差していた。ギルドで仮面のように毅然とした彼女が見せる、初々しい照れ。それを見て、カイルは思わず口元を緩めた。


「こうしてると、思うの。ただ笑って、食べて、話して――そんな時間があること自体、すごく贅沢なんだって」


「光栄だな」


 からかうような軽い口調に、ナターシャはわざとらしく頬を膨らませた。


「またそうやって軽口を……ほんと、もう知らない」


 ぷいと顔を背けながらも、彼女の指先はそっとテーブルの上、カイルの手に触れた。震えるようなその動きがいじらしくて、カイルは優しく指を絡め返す。


「お前、意外と甘えん坊だよな」


「ちがっ……。……ほんの、ちょっとだけよ」


 その声がかすかに震えたのは、怒りでも照れでもなく、本人すら気づいていない、小さな勇気の揺れ。


「ナターシャ」


「……なに?」


「悪いな。いつも、構ってやれなくて」


 まっすぐな言葉に、ナターシャの肩がわずかに揺れた。

 しばらくの沈黙のあと、彼女ははにかむように微笑んだ。


「……じゃあ、今は遠慮なく甘えさせてもらうわね。きゃっ」


 言葉が終わる前に、カイルに引き寄せられる。突然のことに軽く悲鳴を上げたが、その笑顔はやわらかく、どこか安心しきっていた。

 緊張感はなく、ただ、くすぐったくなるような空気がふたりのあいだを満たしていた。


「ねえ、カイル。今だけは、仕事のこと全部忘れていい?」


「ああ。今はお互い冒険者でもギルドの受付嬢でもない」


「……よかった」


 ナターシャは静かに目を閉じ、そっとカイルの肩に頭を預けた。カイルはその肩を抱き寄せ、額に優しく口づけを落とす。

 夜の静寂が、ふたりをそっと包み込んだ。


「……ねえ、カイル?」


「ん?」


「また来ても、いい?」


「いつでも。ただし、口うるさい爺さんがいない時にな」


 その答えに、ナターシャはぱっと花が咲くような笑顔を浮かべた。

 仮面の下に隠れていた“普通の女の子”――そんな素顔を知る者は、いったいどれほどいるだろうか。


「じゃあ……あなたの冒険譚を聞かせてよ。いつものやつ」


「そうだな、じゃあこの前の……」


 ふたりの会話は、そのまま夜の帳のなかへと溶けていった。

 笑い合い、冗談を交わしながら――互いの距離を少しずつ埋めてゆく。

 その夜、静かなぬくもりの中で、ふたりだけの時間が、確かに育っていた。

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