#100
気がつくと、天井が見えた。
ぼんやりとした光がカーテン越しに差し込み、見慣れた木目が視界を満たす。
――“竜のまどろみ”の自室だった。
カイルは眉をひそめながら上体を起こそうとしたが、全身に鈍い脱力感が残っていた。筋肉に力が入らず、まるで鉛を抱えたように重い。
「起きたんですね、カイルさん」
やわらかい声に顔を向けると、エリカが椅子に腰掛けていた。エプロン姿で、髪を一つにまとめている。寝間着ではないことから察するに、ずっと看病していてくれたらしい。
「……迷惑かけたな」
「本当にもう……。リーファさんに連れられてきたとき、どれだけ驚いたか分かってます? 酒場の入り口で倒れてるんですもん。最初は飲み過ぎたのかと思って――」
その言葉とは裏腹に、彼女の表情には心配の色がにじんでいた。
「……リーファに血を吸われただけだ」
「ええ!? だ、大丈夫なんですか!? 吸血鬼になったりしないんですか!?」
エリカが立ち上がって身を乗り出す。
「吸血鬼の血を飲まなければ問題ないらしい……まったく、冗談じゃない」
そう言いながら、差し出された水を受け取り、ゆっくりと喉を潤す。
ようやく呼吸が整い、体に感覚が戻ってくる。
「エリカ、悪いが腹が減った。賄いでもなんでもいい。飯の用意、頼めるか?」
「分かりました。……まったく、もう」
小さくため息をつきつつも、彼女は笑みを浮かべて部屋を出ていった。
「うん、美味いな。相変わらず」
「お口に合ったのなら何よりですが……さすがに食べ過ぎじゃないですか?」
エリカが苦笑混じりに皿を片付けながら言う。パスタにサラダ、スープまで、彼女が階下から次々と運んできた料理をカイルは文字通り、平らげた。
腹も落ち着いたところで、カイルは椅子に背を預け、軽く肩を回す。
「……おい、リーファ」
影がゆらぎ、そこから黒いメイド服の少女が静かに姿を現した。姿勢はいつも通り端正だが、その雰囲気はどこか柔らかくなったようにも見える。
「カイル様。お加減はいかがですか?」
「その前に言っておくことがある」
カイルの声が少しだけ鋭さを帯びた。
「いくら空腹だったとはいえ、許可を待て。……あんなふうに倒れたくはない」
リーファは深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。あの時は、理性の閾値を越えてしまいました。以後、必ず制御いたします」
「頼む。俺の身体が保たん」
「……では今後は節度をもって吸わせていただきます」
「“吸う前提”やめろ」
思わずため息が漏れる。横で見ていたエリカが、呆れ気味にリーファを見やる。
「なんでも、血が美味かったらしいが…どうだろうな」
リーファは無言で視線を逸らした。元々リーファに感情がないわけではないが、人間だったころからの性分なのだろう。
「感情の芽生え……というほどではありません。ただ、カイル様の血には、今まで感じたことのない――快楽や、満ち足りた感覚に近いものがありました」
「もうやめておけ。ややこしくなる」
カイルが片手を上げて遮る。
「とにかく、次からは必ず相談しろ。あと、街中では吸うな。見られたら厄介だ」
「了解しました」
再び頭を下げると、リーファは音もなく影へと戻っていった。
時計の針は正午を回っていた。ようやく体を動かせるようになったカイルは、エリカを連れて街へと出た。日差しは強いが、風が心地よい。
「それで……話って?」
隣を歩くエリカが顔を向けてくる。
「前に言った通り、近いうちに夜の国へ向かう」
その言葉に、エリカの表情が一気に引き締まる。
「一緒に行きます」
「危険だぞ」
「ええ。でも、これは私自身の願いでもあるんです。カイルさんに全部任せて、安全な場所にいるなんてできません」
その声には、確かな覚悟が宿っていた。もう、守られるだけの少女ではいられないという意思がそこにあった。
カイルはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「どうかな。お前のため、というよりは、放っておけば看過できない事態になりそうだから致し方なく、ってところかもしれん」
「いいえ。そんなことないって、私には分かります」
エリカはまっすぐに言った。
その瞳に嘘はなかった。
カイルは苦笑を漏らし、肩をすくめた。
「……好きにしろ。ただし、お前はまだ弱い。誰かに守ってもらえよ」
「え!? 守ってくれないんですか!」
エリカが小さく肩を揺らし、驚いた声を上げた。
「場合によっては無理な時もある。しっかりマリーやフィオナを口説いておくんだな」
カイルは軽く笑って歩き出す。エリカが、呆れ半分・笑い半分の顔でその背を追った。




