第2話(厳しい境遇)
この日の夜明け前にアイルシアへと転生した海帝。
一眠りだけして起きてから、転生直後に思わずシてしまったことを少し後悔していた。
『あ~あ、やっちゃった。 俺がロベール・ルテス子爵だった時の、みんなの憧れの存在だったアイルシア・グドール。 だから、アノ時にどんな声を上げるのか、どんな表情をするのか、それを見てみたいという欲望に負けて思わず一人エッチしてみちゃったけど......これからは俺がアイルシアなんだよな〜。 何だか穢しちゃった感じがするなあ』
そんな後悔をしていたので、
「アイルシア、ゴメン」
と呟いてみたが、返事がある筈も無い。
転生とは、海帝のそれまでの経験や記憶・人格等をアイルシアが新たに抱えたというだけであり、それまでのアイルシアの人格や記憶が消えた訳でも、2つの存在がアイルシアの中で共存するものでもない。
これからは、海帝の人生を含んだもの全てが、アイルシア・グドール本人であるのだから......
「不思議な感じだね。 男の人格が女性の中に存在するっていうのは」
学校に登校すべく着替えをする時、小さな鏡に映る自身の裸体を改めて見詰めて、そんな感想をふと漏らす。
部屋の照明はオンボロなので非常に暗かったのだが、朝になって明るくなったことで、アイルシアの身体に幾つもの青黒い痣が有ることに気付いてしまう。
「せっかくの美しい容貌と均整の取れた肉体なのに...... いや〜、これは酷いなあ〜」
まるで他人事のように独り言を呟くと、アイルシアの記憶を辿ってみる。
『伯爵やその娘のマイカ付きの執事と侍女達による、幼少期の虐待が原因で、消えない痣や傷が出来てしまったのか......』
前に経験したロベール・ルテスの人生の後半でアイルシアと知り合って以後、主にエウレアから一定程度の話は聞いていたが、いざ自身がアイルシアとなってみると、その酷い状況に同情を禁じ得ない。
特に最近では、伯爵の双子の姉のマイカが何かに託つけて、アイルシアや気に入らない侍女達に電気鞭で折檻していることも知るのだった。
「火傷の様な新し目の傷跡は、そのせいなのね......」
海帝はそれを知り、悔しさで思わず壁に拳を向けてしまう。
薄い壁が『ゴン』と低い音を立てたが、所詮女子高生アイルシアの一撃であり、壁に穴が空くようなことは無い。
「痛〜〜。 つい、死んだばかりのルテス子爵のつもりで拳を振り上げたけど、アイルシアであることを忘れていたわ」
言葉遣いが徐々に女性っぽくなってきている。
漸く、この不思議な転生によるアイルシアと海帝の一体化が完全な状態になったという証左であった。
着替えが終わると、下人用宿舎の台所に向かう。
すると、ヒロコオバチャンが朝食の準備をしてくれていた。
「おはよう〜、ヒロコさん」
「おはよう、アイルシア」
朝の挨拶を交わすと、いつも通りテーブルに置いてあるレタスチーズサンドイッチを頬張る。
「どう?」
「美味しいです。 毎朝ありがとうございます」
朝は皆忙しい。
大貴族の家だと、下働きの者達の朝は特に早い。
異世界とは言っても、現代の貴族で領主としてだけの生活をしている者はごく少数派だ。
大半の当主やその家族にも、毎朝仕事や学校に行く準備が有るので、それらに仕える者達は日の出前の早朝には出勤して、完璧な準備をしておかないと叱られてしまう。
その点、学校の登校日については、伯爵家に仕える者としての仕事が免除されているアイルシア。
夕方以降の時間帯に手が空いていれば、侍女達の手伝いに入ることもあるが、それは月に数回程度。
その代わり、土日や祭日は、平日勤務がメインの侍女達に休みを取らせる分、1日じゅう屋敷で働いているのだ。
それが幼い頃に伯爵とアイルシア(&実父のショーウ)との間で交わされた、18歳までの養育に関する契約であった。
短時間で朝食を摂り終えると、ヒロコオバチャンが作ってくれていた、学校で食べる昼食用のサンドイッチを手に取る。
すると、海帝が苦手なピクルス入りのベジタブルサンドイッチだったのだ。
「げっ、キュウリが入ってる〜」
思わず、本音を漏らしてしまうアイルシア。
「あれ? アイルシアに食べ物の好き嫌い有ったんだっけ」
首を傾げながら、手を止めてアイルシアの方を振り返ったヒロコオバチャン。
「え~っと、ちょっと苦手なだけよ。 作って貰っているのに好き嫌い言っちゃってゴメンなさい、ヒロコさん」
ひとまず誤魔化しながら謝るも、ヒロコオバチャンは、じっ〜とアイルシアの方を見たまま。
そして、
「どうも様子がおかしいわね〜。 何か変なモノでも食べた?」
「そう言われてみれば、お腹が痛いような気が......トイレ行って来るね〜」
ヒロコオバチャンの怪訝そうな視線に気付き、上手く会話の流れに乗ることで、一旦その場を離れようと海帝は画策。
愛想笑いをしながら、台所を出る。
その後ろ姿を見ながら、
「うーん、初めてあの子の食べ物の好き嫌いを聞いたわ」
少しおかしいなと感じたものの、確かにアイルシア本人であることに異なりは無いのだから、
『今まで我慢していたのかな?』
とだけ考えたヒロコオバチャンなのだった。
一方の海帝。
『オバチャン、もしかして違和感に気付いちゃった?』
と思いつつ、アイルシアに転生して、初めてトイレに入る。
そして思わず、自身の用足しの様子をじ~っと見詰めてしまう。
『ヤバい......これから、毎回美少女のこんな姿を見ることになるんだよね。 どうしよう......』
男である海帝としての意識が無くなっていない以上、潜在意識に残っている男の性との戦いに耐えられるかどうか、自信が無くなってしまう。
「あまりにもムラムラしちゃった時は、仕方ないよね、アイルシア」
そんな呟きで、今後も独りでシてしまうだろうことをアイルシアに先に謝罪しておく海帝であった。
部屋に戻って、身だしなみをキチンと整えた海帝。
この習慣は、ロベール・ルテスの時に貴族として過ごしていたことにより身に付いたもので、実は元々のアイルシアは、自身の容姿に無頓着で、寝癖を付けたまま登校する日もあるぐらい意外とズボラだったのだが、転生したばかりの海帝はそのことに気付いていなかった。
高校に行く準備を完璧に整え終えると、簡易宿舎の玄関へと移動する。
大富豪の伯爵家に仕える者として、普段から身だしなみは極めて重要であるという考えから、オンボロ簡易宿舎と雖も玄関に設置されている大きな姿見の鏡に映った自身の姿に、
「やっぱり、超可憐だな〜」
と、ルテス子爵時代に海帝がアイルシアに対して抱いていた感想を改めて実感。
しかも、子爵時代には見たことが無い、高校1年生のアイルシアは、少し幼さが残っていて、その雰囲気がまさに海帝好みであったのだ。
『ヤバ過ぎる。 超俺好みの女子だよ〜』
鏡を見詰め、自分自身の姿に少しうっとりしてしまう程。
海帝が、現代の日本で生きて来た時に見たことが無い位の、制服姿のアイルシアの美少女ぶりだったのだ。
「アイルシア、随分準備に時間が掛かっているね〜、遅刻するよ」
玄関の直ぐ横の台所から声を掛けられて、ビクッとした海帝。
「そうですね。 ヒロコさん、行ってきます」
「いってらっしゃい、アイルシア」
いつものように挨拶を終えると、勢い良く玄関を出る。
確かに、余り時間が無かったからだ。
「登校する時に身だしなみを気にする子じゃなかった筈だけど......年頃だし、急に大人びたのかな?」
見送りを終えたヒロコオバチャンは、そんな風に呟き首をひねりながら、アイルシアを登校させたことで、伯爵家における自身の仕事に取り掛かり始めるのだった。
「おはよう、アイルシア」
「おはよう〜」
校門を抜けると、知り合いが声を掛けて来る。
それに対して挨拶をしながら、教室に向かう。
席に座ると、何だか異様に視線を感じる海帝。
『アイルシアって、いつもこんな感じで学校生活をしていたのかしら......』
疑問を持ったので記憶を辿るも、答えは見つからない......
『とにかく目立たない様にっていう記憶しか残っていないなあ〜。 人の視線や他人にどう思われているとかを、あまり気にする子じゃなかったのかもね』
そんな風に考えていると、暫くするとクラスメイトの女の子が声を掛けて来たのだ。
「ねえ、アイルシア」
「うん、どうしたの?」
「その髪型、凄く似合っているよ」
「そう......ありがとう〜」
「だから、今日は男の子達の視線が熱いでしょ?」
「ハハハ......そうかも。 でも、ロングヘアーをとかしてから、後ろで束ねただけよ?」
そんなやり取りをしながら、漸く理由がわかったのだ。
『ルテス子爵時代に普段見慣れたアイルシアの髪型に合わせてみたんだけど......これって、エウレア様の家に入ってから以降の姿だったんだ。 そうだよね、エウレア様が色々と試して、一番似合う髪型を探してくれたんだよね』
実は、海帝が日本で人生を送っていた時には、ポニーテールと言われている髪型に近い姿を、シェラス公爵家の一族扱いとなって以後のアイルシアはしていることが多かった。
だから、特別なものだという認識がない海帝であったが、この異世界ではそれ程一般的な髪型では無かったのだ。
理由がわかり、ひとまず視線を無視することに決めた海帝。
やがて授業が始まったが、29年間生きて来た海帝にとっては、既に学んだことの繰り返しでしか無かったのでロクに聞いておらず、ほぼ上の空。
今までのアイルシアの学業成績は、中位レベルの高校で中の上といったところであったが、ロベール・ルテスは最難関校の、しかも最上位グループに位置する非常に優秀な学生であった。
もはや授業を真面目に聞かなくても、試験でキチンと解答したら、いきなりトップになってしまうぐらいの学力を保持していた。
『転生しても、頭の良さは維持したままなのね。 ロベールに感謝だわ、本当に』
そんなことを考えていると、ふと大きな疑問を抱いたのだ。
『今の私って、18歳からロベールが亡くなるまでの未来の出来事を知っているってことになるけど......もし、今後アイルシアがあの時の人生と異なることをしてしまったら、行く末が変わってしまうのかな......』
それを考えると、だいぶ心配になってしまう。
『もし、エウレア様と知り合わなかったら、今後も大変な人生が続くってことになるわね。 なるべく余計なことをしないようにした方が良いのかも......』
そして記憶を遡りながら、ハッとする。
『転生前のアイルシアって......一人でシたことが無かったのか〜。 それぐらいのことでも、それまでのアイルシアの人生と違ってしまうのは、ちょっと不味いかなあ......』
真剣な表情で考え込む海帝が転生したアイルシア。
すると、女性教師がいきなりアイルシアを当てたのだ。
「グドールさん。 この数式の答えは?」
全く授業を聞いていなかったのだが、反射的に正解を答えてしまう。
ザワつく教室内。
「あんな難しい問題、まさかグドールが答えちゃうとはな〜」
「美人嫌いな先生の嫌がらせだったのに。 難問を答えられちゃって、唖然としていたぞ、先生」
「でも、グドールって、成績良かったっけ?」
「グドールさんの成績って、目立たないぐらいの筈だよね......」
そんな会話が聞こえてきて、
『しまった〜』
と思う海帝だが、後の祭り。
ひとまず、ヘラヘラ恥ずかしそうに笑うことで乗り切ろうと考えたのだった。
放課後。
流石に、ヒロコオバチャンが作ってくれたサンドイッチだけではお腹が空いたと感じ、学生カバンの中からアイルシアの財布を取り出して、中身を確認。
「いち、にー......嘘。 たったこれだけ?」
僅か約2000通貨単位(二千円くらいの価値)の小銭しか入っていなかったのだ。
『そうよ。 アイルシアはナイトー伯爵と幼い頃に結ばされた契約で、無給の奉仕状態になっているんだったわ。 高校まで出させて貰う代わりに......』
現状、海帝が転生前のアイルシアの収入というのは、来客時に良い対応をした際、貴族から貰うチップぐらいしかなく、お小遣いも無い状態だった。
『これは、アルバイトでもするしかなさそうね。 でも、本来のアイルシアって、アルバイトしていたのかな......』
その質問の答えは見つからない。
ルテス子爵に転生していた時の記憶で、アイルシアのことで分かるのは、あくまで18歳以降のこと。
当然アイルシアの記憶は、15歳時点までのことしか存在しない。
だから、15歳〜18歳の時のことは、全くわからないし、調べようもないのだ。
『くよくよ悩んでも仕方ないわ。 これからは俺らしいアイルシアとして生きて行こう。 それで人生が大きく変わってしまっても、後悔しないわ......だって、大人しく生きてみた結果が、逆にエウレア様と知り合わなかったら、その方がよっぽど後悔することになるから......』
授業そっちのけで、1日中ずっと考え続けた結果、海帝が出した結論。
それが出たことで、漸く心のモヤモヤが晴れたのだ。
「思い立ったら吉日ね。 早速アルバイト先を探そうっと」
生徒が少なくなった教室で、アイルシアが座っていた椅子から立ち上がると、そのタイミングを見計らったかのように、廊下に屯していた男子生徒達が色めき立つ。
そのままアイルシアが教室の外に出ると、男子生徒達に囲まれてしまったのだ。
「......」
困った表情を浮かべるアイルシア。
既に、この生徒達が何をしようとしているのか、予想がついていた。
「グドールさん、時間有りますか?」
ある生徒が真っ先に声を掛けたことで、他の男子生徒達も、
「短時間でイイんです、話を聞いて貰えませんか?」
とか、
「俺の話を聞いて欲しいです」
等と、口々に話し出す。
それに対し、一旦立ち止まり、集まっていた十数人の生徒達を一瞥したアイルシア。
そして一言、
「ゴメンなさい。 伯爵様の許可が無い方と、お付き合いすることは出来ません。 それに今の私は伯爵様のおうちでお仕えすることだけで、手一杯なので......」
とだけ答えると、足早に廊下を歩いて行く。
纏めてお断りの返事をされるとは、予想だにしていない。
その勢いに圧倒された生徒達。
告白しようとタイミングを狙っていたのだが、アイルシアの素早い行動に機戦を制され、何も出来ないまま、立ち去るのを見送るしか無かった。
「やっぱり、ダメか〜」
「今日は、目茶苦茶可愛いかったな〜」
「交際したいのなら、大富豪伯爵様の許可を貰えってことか〜」
「そりゃ無理だ。 俺達みんな貴族じゃないのだから......」
ガックリ肩を落とす男子生徒達。
アイルシアが、ナイトー伯爵家の家門に連なる身分にあることぐらいは、この高校に通う生徒達は皆が貴族に仕える家の子弟であるので知っている。
ただ、一族扱いしてもらえず、下女と侍女を兼ねた存在となっていることも知っているからこそ、一縷の望みを掛けて告白しに集まったのだ。
やがて、学校内の喧騒は静まり、放課後らしい雰囲気に。
ただ、そんなチヤホヤされる様子を一部の女子生徒達が冷ややかに見ていたことに、この時のアイルシアは気付いていないのだった......