苦幸
放課後、教室を出た僕は、いつものように街をさまよい始める。
別に行きたい場所があるわけじゃない。ただ、教室のあの閉塞感から逃れたくて、足の向くまま歩いている。
街は、相変わらず慌ただしい。
駅前では急ぎ足のスーツ姿の男たち、買い物袋を抱えた主婦、携帯画面を見つめながら笑う若者たち。いろんな人間が、いろんな思いを抱えて行き交っている。その様子を眺めていると、ふと笑ってしまう。
人間って、本当に忙しい生き物だ。
仕事、恋愛、家庭、夢……みんな何かに追われている。
目の前に立ちはだかる課題に追われ、手が届きそうな希望に追われ、いつか来る終わりに怯えて追われている。
「そんなもの、全部どうでもいいじゃないか」
心の中でそう呟いた瞬間、胸が少し痛んだ。
どうでもいいと言いながら、僕自身も追われているからだ。
でも、その追われているものが何なのか、僕にはよくわからない。
まるで形のない影のようなもの。それはいつも僕の背後にいて、時々振り返ると、そこに何もないことに気づく。その繰り返しだ。
夕暮れの街は、オレンジ色の光で包まれている。
商店街のアーケードを歩きながら、僕は足を止めた。小さな雑貨屋のショーウィンドウに映った自分の姿が目に入る。
どこにでもいる普通の高校生だ。
制服のシワ、少し伸びた髪、何の特徴もない顔。僕を知っている人が見れば、「ああ、陽香留だ」と気づくかもしれない。でも、それ以上の何かを言う人はいないだろう。
僕がどんな人間なのか、僕自身でさえよくわかっていないのだから。
「……不幸、か」
窓ガラスに映る自分に向かって、そっと呟いてみる。
僕が「不幸」だと言える理由はいくつもある。たとえば、友達がいないこと。家族との関係がうまくいっていないこと。そして、自分という存在が、誰かを傷つけていることに薄々気づいていること。
でも、それらを悲しいと思ったことはない。むしろ、その「不幸」さえ、どこか愛おしく思えてしまう。
通りを歩きながら、目の前の人々を観察する。
腕を組んで歩くカップル。スマートフォンをいじりながら笑う少年たち。疲れた表情で仕事帰りの道を急ぐサラリーマン。みんな、自分の「幸せ」や「目標」を追い求めている。
だけど、僕から見れば、その様子はどこか滑稽だった。
必死になって手を伸ばしても、掴んだ瞬間にそれは消えてしまうことを、彼らは知らないのだろうか?それとも、知っていてもそれを信じたくないだけなのだろうか?
自分の「不幸」を愛している僕には、彼らの「幸せ」が遠いものに思えた。
僕にとっての「幸せ」は何なのだろうか?
気づけば、夜の帳が降りていた。
僕は深呼吸をする。街の喧騒が遠ざかり、冷たい空気が肺に染み込むようだ。
「結局、僕も追われているんだよな……」
自分の声が静かに響く。
追われているもの。それが何なのかは、いまだにはっきりしない。ただ一つわかるのは、それが僕のすべてを支配しているということ。
僕はたぶん、この「不幸」という名の影から逃げることができない。
そして、それを望んでもいない。なぜなら、僕の中で唯一確かなものが、この「不幸」だからだ。
街はまだ眠らない。人々はまだ追いかけ続けている。僕もその中にいる一人だ。
でも、僕はそのことに苛立つことも、嫌悪感を抱くこともない。ただ、自分が壊れながらも歩き続けることが、今は正しいように思えるのだ。
追われるのをやめた瞬間、人はきっと「死ぬ」のだろう。
だから僕は、これからも走り続ける。自分が何に追われているのか、その答えを探しながら。