第98話 真宵アリスの育て方①_side雨宮ひかり
七夕ですね。
――ザクサクザクサク。
口の中でほどけて消えるちんすこう。
味に迷いのある戸惑いバター味だ。
味に迷いはあっても豊かなバターの風味と程よい甘さが美味しい。
ただ難点が一つあるとすれば、口の中の水分が奪われることだ。
そこで活躍するのが渡されていた台湾茶。
台湾茶は濃い烏龍茶ベースに砂糖や果実の風味を加えたものが多いが、今回はちんすこうとの相性を考えて後味すっきりな無糖のタイプだ。
スタジオを出ると桜色セツナがまだソファーで待ってくれていた。
その横に座りながら現在は糖分の補給中だ。
真宵アリスの一人全役アフレコを聞いていたのは一時間足らず。
けれど疲れた。
かなり疲れた。
それだけ濃厚な時間だったのだ。
脳が甘味を求めている。それを見越してちんすこうが用意されていたに違いない。
話題の中心はもちろん真宵アリスだ。
「アリスさん曰く『アニメを見ていたらストーリー展開。演出。キャラの相関図。このときの登場人物の感情。なぜこの演技をするのか。色々と考察するよね』と」
「……で?」
「『引きこもり期間の私はかなりの本数のアニメを見ていたからね。アニメ見ながら一人全役アフレコして遊んでいたらなんとなくできるようになってた!』らしいです。アリスさんできる子かわいい」
「――できる子かわいいじゃない! できすぎだから! 一人全役アフレコが遊び感覚なことから理解できない! 普通の人は決め台詞を真似るくらいが限度だから! アニメを見ているだけで演技や演出や構成を学べるなら日本は演劇大国になれるから!」
「日本はアニメ大国ですよ?」
「そうだけど違う!」
「ひかりさん。落ち着いてください。私に怒られても困ります」
「そうね……私が悪かったわ」
真宵アリスは演技の下積みなどをしていたのか。
その回答が理不尽すぎた。
納得できない。けれど残念なことに理屈はわかる。
視聴して、憧れて、模倣する。
人間にとって視聴という行為は全ての根幹だ。
完成品から自分の中に全てを落とし込むことが可能であれば、特別な訓練を必要とせずとも高みに至れるかもしれない。
そもそも昔は気軽に演技などを習える環境などなかったのだから。
芸事は元来目で見て盗めの世界だ。
アニメ界隈や特撮界隈には神のように崇められる名監督がいる。
そんな彼らにもオタクと呼ばれる若き日があった。
若き日の彼らは自由に動き回る空想の世界の産物に惚れこんだ。
今のように作品が飽和している時代じゃない。
数少ない映像作品が教材だった。
同じ作品を何度も視聴した。
何度も何度も繰り返し繰り返し視聴したのだ。
そしてあらゆることを考察した。まだ見ぬ展開を妄想した。自分で創ることを夢見た。
まだ見たことがない世界をどう創る。どのような演出が効果的だ。なにが心に刺さったのか。面白いと思ったことを徹底的に分析した。
そんな彼らが作り手となって文化として発展させて今がある。
笑い話として語られる逸話一つ一つが偉人伝として伝説になっている。
(アリスさんが行っているのはそれに近いのかもしれない。記憶力任せで対象の作品数が膨大。一人全役アフレコでも全てのキャラクターの感情の動きまで想定。そのうえ一度見た作品はセリフ一つ忘れない、もう……人かどうか怪しい。いやメイドロボだけど)
現在は作品が飽和している。
過去の名作は山のように積み上がり、毎年の季節ごとに作品は供給されてくる。
まさに大量生産消費の時代。
その多くが消化物として流れていく。
あまりに作品が多すぎてあらゆる世界が未知ではなく驚きも少ない。
このような時代ではよほどの話題作でない限り、一つの作品に執着して徹底的に分析することは珍しい。
作品数を消化するために倍速視聴してしまう時代なのだから。
そんな大量生産時代で視聴した作品全てで一人全役アフレコをしていれば、演技力も構成能力も身につくのかもしれない。
(……それを為すために必要な能力が理不尽過ぎて、やっぱり納得できない)
落ち着くためほんのり塩味のある雪塩ちんすこうに手を伸ばす。
少しの塩気が身体に沁みる。
たまには塩気もいい。
個人的に黒糖の癖のある甘みが一番好きだ。
「そういえばひかりさん。キャスト全員にアリスさんについて緘口令が出される話を聞いてますか?」
「緘口令? 公式が発表していない内部情報を外部に漏らしたら契約違反。業界人失格だと思うけど。わざわざ緘口令が出るってなにかあるの?」
「どうもエンディングクレジットに声優として『真宵アリス』の名前は記載されないらしいです。プレシア教官役は新人声優の天依スイになると」
「はぁ? 役が交代……なわけがないよね」
あの気に入りようだ。そんな暴挙を石館監督が許すはずがない。
もちろん私も許さないし、目の前の桜色セツナが怒らないはずがない。
理不尽な理由で真宵アリスが役を降ろされれば『私も降ります』と現場から去るだろう。
でも桜色セツナの口調は穏やかだ。
つまり真宵アリスが別名義を名乗るということだろう。
「アマヨリスイ……真宵アリスのアナグラムね。どうしてわざわざ別名義なんて」
「虹色ボイス事務所はアリスさんをアーティスト路線で推してます。声優活動は別名義。アリスさんも最近思うところがあったのか、顔を隠したまま別人として活動するのも面白いと了承したらしいです。ずっと隠すわけではなく、プレシア教官がなくなる回で明かす予定だとか。『面白い演出だよね』とアリスさんも言ってました。それが表向きの理由です」
「表向き……というとやっぱり裏があるわけね」
あまりわざわざ勿体ぶっている。
いい話ではないのだろう。
桜色セツナもあまり納得しているようには見えない。
「私とひかりさん双方の事務所の意向と制作委員会の方針です。宣伝のための広報活動の軸が元子役コンビの私とひかりさんだからですよ。顔出し不可で一般的な認知度が低いアリスさんが話題になっても宣伝効果が薄い。私は声優デビュー作。ひかりさんは初主演作。それが『真宵アリスの作品』になっては困るらしいです。あとで『実は真宵アリスが声優として別名義でやっていた』とサプライズ発表する方が話題性も出ますし、虹色ボイス事務所としては配信のネタにできますから」
「なによそれ……つまりまだ収録してもいないのに私たち二人がアリスさんより演者として下だとでも?」
確かに演技プランでは負けた。
でも演技力では負けていない。
たとえ真宵アリスがこちらを圧倒するような演技を見せたとしても万全を期して応えてみせる。
作品を盛り上げてみせる。
最高の演技を魅せてみせると気合を入れ直していたところなのに。
プライドを傷つけられて憤りを隠せない。
そんな私に対して、同じ立場のはずの桜色セツナが呆れた視線を向けてきた。
「なによ? セツナは悔しくないの!?」
「ひかりさん……もしかして本当に忘れてます? 主題歌を歌うのはアリスさんですよ」
「主題歌……あっ!」
演技者としての真宵アリスを意識しすぎていた。
真宵アリスは主題歌を歌うのだ。
歌手デビューしてすぐに主題歌に抜擢されて、あの演技力で声優デビューすればどうなるか。
いくら私たちがいい演技しても注目を集めるのは真宵アリスになるだろう。
目立ち過ぎるのも扱いにくい。
「ちなみに緘口令の話はアリスさんがちゃんとした演技を見せる前に決定してます。まだ完成品ではないですけど、主題歌の音源を聞いてみますか? オープニングアニメーション作成用のモノを同じ事務所特権でもらったんです。流出させたらダメなのでコピーはあげられませんけど」
「聞かせてもらうわ!」
差し出された真新しいイヤホンを受け取る。
音漏れがしないお高めのタイプ。
今日の桜色セツナはずっとイヤホンでなにかを聞いていた。
どうやら真宵アリスの新曲だったみたいだ。
私も歌には自信がある。
キャラソンやアイドルモノの仕事なども是非してみたい。
それでもアーティストとしての真宵アリスに勝てる気がしない。
デビュー曲を聞いたときに出だしですでに打ち負かされたあの感覚は忘れられない。
その真宵アリスの未発表の新曲だ。
演者として自分が奥に引っ込む。
今はただのファンとしてとにかく聞いてみたい。
それにしても同じ事務所特権はズルくないだろうか。
恩恵にあずからせていただく身として口に出さないが。
イヤホンを装着し、桜色セツナがスマートフォンを操作する。
そして音楽が流れ始めて――
「――えっ!? これって」
「感想は聞き終えてからでいいですよ」
桜色セツナに制されて黙って聞くことにする。
出だしから想定外。想定以上ではない。
本当に予想もしていない方向から頭をガツンと殴られた気分だ。
(どうしてイタリア語でオペラを歌えるのよ!?)
お読みいただきありがとうございます。
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