第95話 塗り替えられていく収録現場②_side雨宮ひかり
石館監督はコントロールルームの椅子に深く腰掛けていた。
顔合わせの日は寡黙な監督だった。
無駄口を叩かない。演者をよく観察し、必要なことだけを伝え、物事を淡々と進めていく。
そんな仕事人の雰囲気さえ醸し出していた。
だから他の人と比べても上手だった真宵アリスの演技へのリテイクが意外だったのだ。
けれど今日は違った。
正直に言って逃げたい。
監督は無精ひげを生やして瞳を爛々と輝かせている。生気に満ち溢れた目だ。
夢を抱く少年のような眼差しなどではない。
もっと幼い。
お気に入りの玩具を見つけた分別のない子供のような無垢さが怖い。
この人は作品のためならどんな犠牲もいとわない。
簡単に壊してしまう。
映画界の古き名監督ならば聞いたことがある性質だ。
どうやらアニメ業界にも先鋭化された芸術家気質の監督は多いらしい。
私だって妥協した作品は好きではない。
自分の信念を曲げない性質の監督は好ましい。だが今日みたいな不意打ちでの遭遇はやめてほしい。相対するのに覚悟がいるのだ。
「今日はよく来てくれたな。待っていたよ」
「遅れて申し訳ありません」
「いやいや演者同士のコミュニケーションが息の合った演技を生む。しかも主役と言ってもいい二人だ。仲良きことは良きかな」
「うぐっ……本当に申し訳ありません」
どうやらスタジオ前で桜色セツナと話していたところを見られていたらしい。
本当に怒った様子はない。嫌味ではなく本音だろう。
からかうためにあえて言ったようだ。
「それに雨宮ひかり君と桜色セツナ君の二人には無理させる。俺としては現場を楽しんでほしい。そのために必要な時間なら優先されるべきだ。今回の現場は本当に楽しめそうだからね」
「無理ですか?」
「俺は二人にだけ試練を課すのはしのびない。演者全員をふるいにかけるのも一興と思ったんだけどね。今回は折れても困らない。代役はいるからスケジュールに支障がない。しかし大人の事情というのは厄介だ。作品としては折れる演者がいればいるほど面白くさえある。話題性も出て成功だ。でも業界内で悪評を振りまいていいことはない。特にその悪評が虹色ボイス事務所、特に貢献者である真宵アリス君に向かうのは許されない。そう説得されたら中止せざるを得なかったわけだ。なあ竹本?」
「……当たり前ですよ。真宵アリスさんに非難が行くようなことは認められません。それにもう役は決まったんです。気に入らないからと他の演者達を圧迫して使い潰すような真似はさせられません」
「そういうわけだ」
どこまでも作品本位で饒舌な石館監督。
答える竹本制作進行はとても頭が痛そうだ。
先日は人当たり良さそうな明るさがあった。悪く言えば浮ついていた。その竹本制作進行もどこかピリついている。
この制作陣の空気の変化は真宵アリスが原因なのだろう。
なにをしたのかは説明されていない。
だが真宵アリスの配信を見ていれば、一つ可能性が頭に浮かぶ。
ふるいをかける。
演者が折れてもいい。
代役はいる。
それらの言葉から導き出される解答が一つだけある。
あり得ないと思いたい。
真宵アリスにアレができないと思っているわけではない。あり得ないのはこの制作陣の雰囲気だ。
握りしめた拳が痛い。鼓動が早くなる。
まるで真宵アリス一人さえいれば作品が成立するとでも言うのだろうか。
それを肯定するように石館監督が笑った。
「今日呼び出した理由は雨宮ひかり君に聞いてもらいたいモノがあるからだ」
「聞いてもらいたいモノ?」
「記念すべき『アームズ・ナイトギア』第一話の完成された音源だ」
「……完成ってそれは」
「完成と言ってもアニメーションもついてなければエフェクトもないけどね。役の台詞が全て入っている。編集すればこのまま放送しても問題はないだろう。問題ないどころか一人全役だ。公開すれば話題沸騰して――」
「――私はまだ収録していないっ!」
限界だった。
それ以上は聞きたくなかった。
立ち上がって石館監督の言葉を遮る。
私にも演技者としてもプライドがある。むしろプライドが高い自覚がある。
だから許せない。
主役の私が収録していないのに完成品なんて言い分が許されるわけがない。
『ふざけるな!』
そう叫び、怒りのままに立ち去りたいぐらいだ。
そうしないのは表に桜色セツナがいるから。
立ち去ったら本当に真宵アリスに役を奪われかねないから。
明らかに石館監督が私を試しているから。
立ち去るぐらいならニヤリと笑っている監督の顔をぶん殴るのが先だ。
どうせ釣れたとか思っているのだろう。
この人はさっきからわざと私を煽って焚きつけようとしているに違いない。
「そうだ! 幸運なことにまだ収録をしていない。それなのに完成された音源が俺の手元にある。俺が表現したいことが詰まっている。素晴らしいことだろう。ならば、より良い作品作りのためにはどうするか。この音源を超える演技を求めるしかない。この音源を最低合格基準するしかない! 俺はそうしたい。なあ竹本? やっぱり全キャストに聞かせないか?」
「認められるわけないでしょ! 他のキャストが比べられて潰れますよ!」
「やっぱりダメか。このように竹本が反対してな。結局、主役の雨宮ひかり君と桜色セツナ君だけ聞かせることになった。一応言っておくと桜色セツナ君は真宵アリス君の収録現場にいた。だからすでに生で聞いているんだ。彼女も思うところがあったようだったね」
「……本当は雨宮ひかりさんにも聞かせるべきではないんだけどね。劇中にプレシア教官とよく会話するのは主人公のイリアと親友で教え子となるティナだからね。真宵アリスさんの演技を全て聞いた方が合わせやすいと思って。実は真宵アリスさんはすでに収録を終えた扱いなんだ。もう十分声は録れているから。収録日には来ない」
「真宵アリス君は今後も別録りだな。彼女は一人の方がいい。他の人間がその場にいると足かせにしかならない」
「監督! 言い方に気を付けてください!」
足かせ。
つまり他のキャストがいると足を引っ張ると。
もっと言えば顔合わせの日に真宵アリスにリテイクが発生したのは私のせいだと。
私の演技がダメだったから、あの日真宵アリスはちゃんと演技ができなかったと。
そう言いたいのだ。
……冷静になれ。
悪いのは全て監督だ。
この人は性格が悪い。
いい意味でも悪い意味でも……いやほとんど悪い意味で作品のことしか考えていない。
竹本制作進行も怒った目で石館監督を見ている。
思えば桜色セツナも石館監督に辛辣だった気がする。
たぶん真宵アリスも他人を貶めることを望んでいない。
他人の役を奪うことなんか想像すらしていないだろう。
サーターアンダギーでダウンしているぐらいだ。こんなことになっているとは知らないだろう。
この場に私以外が呼ばれていない理由も理解した。
キャスト全員に同じことをすれば役を降りる人が出てくる。
そして悪評のほとんどが虹色ボイス事務所と真宵アリスに向かうのだ。
最悪の監督だ。
だが人としてダメでも、作品に対する熱意だけは本物だ。
話題性のために一人全役、などとは絶対に口に出さない。
大切なのは作品のクオリティ。
演技面で妥協を許すはずがない。
つまり真宵アリスの演技も本物だ。
しかも一人全役で偏狂な監督をここまで狂わせる演技を、すでに提示したのだ。
ならば私も石館監督と話すことはない。
わざわざこの人の話を聞く必要がない。
真宵アリスの演技が監督の求めているものだ。
私は真宵アリスの演技とだけ向き合えばいい。
「茶番はいいから早くその音源を聞かせてもらえますか」
「竹本! 早くヘッドフォンを渡して差し上げろ」
最初からそのつもりで私を煽っていたのだろう。
早く聞け。早く聞け。そして感想を聞かせろ。
同じ演者としてお前はなにを思うんだ。
会話している間もずっとそう言われ続けていた気さえする。
監督に悪意はない。
悪い意味でオタク気質なのだ。
自慢のコレクションを私が自発的に聞くように仕向けたかっただけ。
私が聞く気になれば無駄口は叩かない。
もうそれでいい。監督は勝手に楽しんでいろ。
私も演技の世界にだけ集中する。
雑音はいらない。
だから早く真宵アリスの一人舞台を聞かせなさい。
その結果プライドが粉砕されるならば望むところだ。
私はそう簡単に踏みつぶされたりしない。
自分の至らないところがあるならば直せばいい。
何度でも舞台に這い上がってみせる。
どうやら私も狂っているようだ。ムカついているが楽しんでもいる。面白いものが聞けることを喜んでいる。
笑みがこぼれていることが自分でもわかった。
度し難いほどに胸が高鳴る。
お読みいただきありがとうございます。
毎日1話 朝7時頃更新です。
石館監督のようなタイプとは関わり合いになりたくないですね。
一応周りの言うことは聞いて、本当にまずい一線は越えません。
そのため悲しいかな常識のあるストッパーの竹本制作進行は胃痛に悩まされてます。
バチバチやり合う演者と監督回。
一方その頃サーターアンダギーでダウンしたマスコット(主人公)はネットでタピオカの粉をポチポチしてます。
「タピオカの粉ってどこ産がいいのかまったくわからぬ」
そう呟きながら真剣に頭を悩ませています。




