第94話 塗り替えられていく収録現場①_side雨宮ひかり
引き続き怒涛の他者視点回。
またの名を真宵アリスに周りが振り回される回。
「急な呼び出し。……大丈夫よね?」
第一回の収録日はまだ先だ。
それなのに制作陣からの呼び出しだ。
嫌な予感しかしない。
現場で見た真宵アリスの幼い容姿に気弱な性格。晒し者と捉えられかねないリテイクの連発に耐えられるだろうか。
配信で引きこもりでコミュ障の男性恐怖症とも語られている。
最悪の結末が頭の中を駆け巡った。
先日の件で虹色ボイス事務所と揉めて、監督のハラスメントにまで発展したのだとすれば大問題だ。
昨今の世情を鑑みれば『アームズ・ナイトギア』の制作が流れてしまう。
せっかく待望していた初の主役アニメ。
人間関係トラブルで中止なんてやめてほしい。
桜色セツナはあのリテイクは問題ないと言っていた。
けれど、その言葉を信じられるほどに私は真宵アリスについて深く知っているわけではない。
実はこの数日の間ずっと不安だった。
呼び出された場所は顔合わせに使われた収録スタジオ。
合流したマネージャーの顔は明るい。
最悪の事態はなさそうなので胸をなでおろす。
「ごめんね急な呼び出しで。私にはよくわからないんだけどね。ひかりにだけは事前に聞かせておいた方がいいって言われて」
「制作中止ではないんですよね」
「制作中止? ないない。むしろ虹色ボイスさんがいい仕事してくれたみたいで制作サイドに気合が入っている感じね」
「いい仕事?」
「私の口から説明しても伝わらないと思うわ。中に入りましょう。ひかりの大好きなさくらちゃんも待っているし。今は桜色セツナちゃんか」
「大好きなんかじゃないわよ! あんなヤツ!」
移動中に許しがたい誤解を解こうとするが相手にしてもらえない。
どうもマネージャーとはじっくり話し合わなければいけないようだ。
まあマネージャーは次の機会でいい。
今日は桜色セツナが待っている。
別に会いたかったわけでは断じてない。
今回の呼び出しの方が重要なだけだ。
虹色ボイス事務所が絡んでいるならば、桜色セツナから話を聞けるだろう。
桜色セツナは収録ブース前のソファーに座っていた。
スマートフォンを操作しながら無線イヤホンでなにかを聞いているようだ。
その様子に違和感を覚える。
(あのセツナが余裕を失っている? でも楽しそうだから悪いことは起っていない)
いつもより表情が柔らかい。感情が読みやすくなっている。
桜色セツナは昔からなにを考えているのか読めないところがある。
それなのに今日は心のうちが表に出ているようだ。
わかるのは喜びと少しの焦り。
期限付きでなにかに熱中している人の感情だ。こんなにわかりやすい桜色セツナを見るのは初めてで少し戸惑う。
普段なら発熱や体調不良を疑った。病院に行って頭を見てもらえと言っただろう。
でも今日の急な呼び出しを考えれば間違いなく『アームズ・ナイトギア』が関連した出来事が起因していると考えていい。
(セツナがこの様子ってことは今回の発端はやっぱり『アリスさん』か)
桜色セツナが感情をかき乱される理由なんて、真宵アリス以外に思いつかない。
だとすると真宵アリスの姿が近くに見えないのが気になる。
スタジオに来ていないのだろうか。
周囲を確認しながら近づくと、桜色セツナは無線イヤホンを外して立ち上がり、とても丁寧に深くお辞儀してくる。
「本日は遠路はるばるご足労いただき、誠にありがとうございます」
「いえいえどうもご丁寧に……って都内移動よ!」
「お近づきの印にこちらのちんすこうをお納めください」
「え? ここは沖縄だった!?」
「うちの真宵アリスの手作りです」
「待って! 情報量がすでに多い! アリスさんって沖縄出身なの?」
「いえ違いますけど」
「ではなぜちんすこう!?」
どうしよう。
色とりどりの手作りちんすこうが詰められた缶を渡されてしまった。
出会い頭にカオスだ。
こんなことは氷室さくら時代にはなかった。
さっきまで余裕がなさそうだったのにすでに表情が読めなくなっている。
「なぜちんすこうか。話せば長くなるなるのですが」
「長くなるならいいわよ。それより今日は――」
「――ぜひ聞いてください! アリスさんがとても可愛いです!」
「軌道修正不可!?」
「時間は顔合わせの日の直後まで遡ります。アリスさんは絶賛スランプ中でした。気を紛らわすために宿命のライバルとの死闘を興じ、山という敵地に呼び出され、小さな悪魔に追い回され、全てから逃げ出すために天の道を切り開き、自然と一体化し……まあ色々合ってスランプから脱出したのです」
「本当に色々あり過ぎた! アリスさん本当にこの地球の人なの? 一人だけ異世界に行ってない? 所々わからなかったけどたぶんつい先日のグランピングオフコラボ配信の話だよね?」
「あっ! 見てくださったんですね。ありがとうございます」
「いえ。こちらこそ楽しく拝見させていただきました」
お互いお辞儀して仕切り直す。
いつ何時も動画を見たファンへの感謝を忘れない。
桜色セツナはもう立派な配信者になったようだ。
……違う。そうじゃない。
今は真宵アリスがなぜちんすこうを手作りするに至ったか、その経緯を……ってこれも違う!
「スランプを脱出したアリスさんは初心に返ることにしました。まず家を大掃除です」
「人が混乱している間に話が……もういいわよ」
「一日かけて掃除を終えたアリスさんは『次は料理! 今回は世界に挑戦だ』と奮起しました」
「……初心に返ると家事に熱中するのかメイドロボ」
「さっそく地球儀を取り出します」
「なぜ地球儀!?」
「磁石が引っ付くタイプです」
「そんなことは聞いてない!」
「アリスさんは『ていっ!』と地球儀を高速回転させます。そして平たい円型の強力磁石を『とりゃあー!』と投げました。名付けて『地球回転磁石の旅。味めぐりツアー』らしいです。磁石が張り付いた国の料理に挑戦です」
「また聞いたことがあるようなないような企画を。……ねえこれってアリスさんの配信の話? 聞いたことはないけど」
「いえ完全にプライベートです。電話で教えてもらいました」
「そ……そうなんだ。日常からぶっ飛んでいるのね」
できれば配信のネタであってほしかった。
真宵アリスの日常が謎に満ちている。
桜色セツナの配信でアリスさんのトークが尽きない原因はこれか。
「激辛が苦手で、虫食は無理なアリスさん。どうかその辺りの国には止まらないように、とお祈りします」
「激辛はともかく虫食!? そこまでリスクを背負ったの!」
「そして地球が静止する日。磁石はちゃんとついていました」
「地球が静止する日って……まあいいわ。それが沖縄だったわけね」
「いえ海だったらしいです。太平洋の西側でした」
「ではなぜちんすこう!?」
「そこでアリスさんの名言が飛び出します。『地球は割と海!』と」
「海よ! 表面積の約七割が海よ! できれば地球儀を見たときに気づいて! もう発言がダメダメ過ぎて宇宙飛行士なら宇宙ステーション出禁だからね!」
「アリスさんはこのままだと企画倒れの予感に悩みます。思い付きで始めたこの挑戦。高確率で海産物になるのは面白くない」
「企画に穴がありすぎる!」
「もう一度磁石がついた位置を確認します。沖縄本島と台湾の間から南下した辺りの海域。石垣島の南部です。『よし! じゃあもうこの辺りで』と範囲に余裕を持たせて円で囲むと沖縄と台湾が円の中に入りました。そうして手始めに作られたのがこのちんすこうです。アリスさんは現在沖縄台湾フェア実施中です」
「……なんてアバウトな」
そしてなんて自由な人なんだろう。
無駄に楽しそうなのが伝わってくる。
ただスランプも脱出できたと言っているし、この様子なら降板などなさそうなのは安心できた。
「ちなみにちんすこうの味は定番のほんのり塩味のある雪塩。黒糖。紅茶。抹茶。コーヒー。そして味に迷いのある戸惑いバター味です」
「最後! なにか最後に変な味が混じってる!?」
「変な味とは失礼な! 戸惑いバター味にはアリスさんの可愛さが詰まっているんですよ!」
「また話が長くなるの?」
「ひかりさんはちんすこうの作り方は知っていますか?」
「……私の質問には答えないのね。知ってた。ちんすこうの作り方は知らないけど」
「実はスコットランド産の伝統銘菓ショートブレッドと作り方が同じらしいんです。私も知りませんでした。材料の油が違うだけ。ショートブレッドはバター。ちんすこうは沖縄でよく用いられるラードです」
「つまりバター味のちんすこうって」
「はい。ラードの代わりにバターで作ったのでショートブレッドです。でもバター味のちんすこうと言い張れないこともない。果たして今作っているのはちんすこうなのか、ショートブレッドなのか。そんな味に迷いのある戸惑いバター味ちんすこうです」
「凄くどっちでもいいことで迷ってた!?」
「ちなみ缶の中には迷いのないバター味のショートブレッドも入ってます」
「結局ショートブレッドも作ったんだ。……ん? 作り方も材料も一緒なら別のモノを作ったわけではなく、ただの気持ちの問題では?」
「見た目も味も同じなので表面上部にひらがなで『ちんすこうばたーあじ』と書かれているのがちんすこう。『しょーとぶれっど』と書かれているのがショートブレッドです」
「表面だけで取り繕われた!?」
「あっ! ちんすこうは口の中の水分も奪うのでちゃんと飲み物も用意してます」
「……えーと、ありがとうございます?」
「さっき買ってきた台湾茶です」
「ここは沖縄のさんぴん茶じゃないの!?」
「……すみません。これは私の不備です。最寄りのコンビニには台湾茶しか売ってなくて」
「ごめん! せっかく用意してもらった飲み物にクレームをつけた私が全面的に悪い。だからそんなしょんぼりしないで」
「いえ! アリスさんならこんな手抜きはしなかったはずです! 私もまだまだ修行が足りません」
一体どんな修行なのだろうか。
配信者の世界が過酷だ。
疑問はつきないがちょうど名前が出たので確認しよう。
「そういえば今日は急な呼び出しだったけど真宵アリスさんはいないの?」
そう尋ねると気まずげに視線をそらされた。
悲しみの込められた声音。今にも泣きそうな表情。
たぶん演技だ。でも素人なら騙せるほどに真に迫っている。
「……本当はアリスさんも今日来る予定だったんです」
「予定だった。つまり今日は来てないの?」
「急な体調不良でダウンしてます」
「体調不良って大丈夫なの!?」
「一日安静にしていればおそらく。長引くようなら病院にいくとも」
「本当に大丈夫なのよね?」
「はい。手作りのサーターアンダギーの食べ過ぎで気分が悪くなっただけなので」
「……そう。サーターアンダギーの食べ過ぎで……ってサーターアンダギーの食べ過ぎ!?」
「一個で限界だったのに、作り過ぎたからと二個目に手を伸ばしたのがダメだったみたいです」
「ま……まあ小柄だったからね。そういうこともあるのかな?」
「ちなみに今日はサーターアンダギーも差し入れに持ってきたんですけど、すでに制作陣に配られて雨宮ひかりさんの分がなくなってしまったんです。申し訳ありません」
「……それは別にいいけど」
頭が痛くなってきた。
先ほどとは違う嫌な予感がする。
虹色ボイス事務所と制作陣に軋轢や遺恨がないのはいいのだが。
「まさかと思うけど、沖縄のお菓子を配るために呼び出したとかじゃないわよね?」
「…………」
「本当にそうなの!?」
「いえ。呼び出しの理由は今回のアニメ。真剣なお仕事の呼び出しですよ。そういえばひかりさんを呼び出したのは石館監督です。今も収録スタジオ内で首を長くしながら、ずっとひかりさんを待っているはずですよ」
「待たせているの!? じゃあなんだったの今のこの会話は!」
「アリスさんが可愛い」
「可愛かったよ! 可愛かったけど! 気付いたら私は目上の人を雑談で待たせているダメな人じゃん!」
「そこは大丈夫だと思いますよ。石館監督は上機嫌だったので」
「上機嫌? 待たせていい理由にはならないけど大丈夫なのかな?」
「かなりドヤ顔でドヤってましたから大丈夫です」
「……ドヤ顔」
会いに行きたくないな。
それにしてもドヤ顔。
無表情だった顔合わせの日から一体なにがあったのだろう。
制作現場の空気が変化しすぎていて戸惑う。
「そういえば私からもひかりさんに話したいことがあったんですよね。ちゃんと真剣な内容で。でも先にドヤ顔の石館監督との用事を済ませてからの方がいいと思います」
「……真剣な話もあったのね」
「アリスさんを語る方が優先順位が上だったので私としては大満足です!」
「そりゃあセツナは満足でしょうね。じゃあ私はスタジオの方に行くから」
「はい行ってきてください」
まだ来たばかりでなにもしていないはずなのにかなり疲労感がある。
桜色セツナに振り回されたせいだ。
こんなことは氷室さくら時代にはなかった。
いや氷室さくらとは仕事の内容以外であまり会話をしたことがなかったか。
少なくともこんな無駄話を長々とする関係ではない。
そのことを楽しんでしまった私がいる。
石館監督に怒られたら素直に反省しよう。
ちんすこうの缶詰と台湾茶のペットボトルをマネージャーに渡して、桜色セツナの横を通り過ぎる。
「……ひかりさん」
「なによ。まだなにかあるの?」
スタジオに入る直前で呼び止められた。
「顔合わせの日に私が言ったことを覚えていますか?」
「セツナに言われたこと? どの話よ」
「最後に言ったことです」
「……真宵アリスの暴走に巻き込まれて踏みつぶされるな。だったかしら?」
覚えている。
あんな意味深な発言を忘れられるはずがない。
私の返事に桜色セツナが笑った。
演技の笑みでもない。能天気な天真爛漫な笑みでもない。もちろんこちらをバカにする笑みでもない。
自然と零れたかのような優しい笑み。
見たことがない充実した笑顔だ。
「覚えているならいいです。今日呼び出されたキャストはひかりさんだけです。他のキャストは潰れる可能性があるので呼ばれてません。では監督との話が終わったらまた」
「……また最後に意味深な」
そう言い放った桜色セツナは再び無線イヤホンを挿してなにかを聞き始まる。
今伝えるべきことは伝え終わったと言ったところか。
脅し。ではなく忠告か。
ここで逃げ出すという選択肢は最初からない。
スタジオに入るしかないわけだが。
「一体なにが待っているのやら」
スタジオの扉を開ける。
手には力が入って、いつもよりも勢いよく開け放たれた。
足は淀みなく進む。
中には笑みを浮かべた石館監督がいた。
……それは確かにドヤ顔だった。
お読みいただきありがとうございます。
毎日1話 朝7時頃更新です。




