「黒の魔女」
エスタシオン王国に建国譚に出てくる四人の『魔女』。
王国の北方に領地を持つ貧乏貴族の次男坊、十歳になったばかりのアルマ=カヴァリエですらその存在はしっかりと認知している。
(魔女……。この国を守っている、魔女……)
なにせ、この国の子供たちは『建国譚』をうんと幼い頃から繰り返し読み聞かされ、『建国譚』を音読し、『建国譚』で文字の読み書きの練習をさせられるのだ。本が嫌いなアルマですら何も見なくたって唱えることができる。
それくらいこの国の子供たちには馴染みある物語に登場する、魔女である。
王国の東西南北に一人ずつ置かれる魔女は、それぞれ象徴する色で呼ばれる。
東の地域に住まう、青の魔女。
西の地域に住まう、赤の魔女。
南の地域に住まう、白の魔女。
北の地域に住まう、黒の魔女。
歴代の魔女も本当の名前は明かされておらず、ただ、魔女とだけ呼ばれている。
姿だって、一介の貧乏貴族や平民は見ることはほとんどない。強いて言えば、国を挙げて行われる祭典で、ほんの少し姿が望めるくらいだろうか。
とある絵本では絶世の美女として描かれ、とある教本では勇猛な武人として紹介される、魔女。
摩訶不思議な力を操り、この国の守りの要を務める、魔女。
その四人の魔女の一人が、今、アルマの屋敷で、アルマの目の前に立っていた。
(これが、魔女……?)
隣で父親がペラペラと忙しなく何かを話している声が右から左へと抜けていくくらいには、アルマの身体の全てが目の前にいる存在に向けられていた。
黒の魔女、と呼ばれるにふさわしい黒髪と黒目。
服装も伝承に合わせた漆黒で、ときおり上等な布が風に吹かれて白い腕が覗いている。
顔つきはこの国の者よりも涼しげで、異国の血が混ざっていることがありありと見て取れた。
しかしアルマにはそんなことよりも、もっと気になることがあった。
つむじ。黒髪に囲まれたその隙間が、十歳のアルマの視線の下にあることに彼はひどく驚いた。
だから、つい思わず口から言葉が出てしまったのだ。
「______……小っっさ!」
「え、」
アルマの不意にあげた声に、それまで何やら難しい話をしていた大人たちの会話が止まる。次いで空気がびしりと凍る。
そんな寒々しい屋敷で黒の魔女と紹介された『少女』は、突然大きな声を出したアルマをぽかんと口を開けて、ただただ見つめるだけだった。
○○○
「あっはっは!」
カヴァリエ家の屋敷の二階。その一部屋に笑い声が響く。
「アルマ、そりゃ、お前が悪いよ! 父さんに殴られても仕方ないだろ、はは!」
「兄貴うるさい! 笑うな!」
未だに痛む頭を押さえながら、アルマは笑い声の主である兄をギッと睨みつけた。
笑い声が頭に響くのだ。自分の声でさえ反響してしまい。ひどく心地が悪い。
アルマの兄、フォルリ―=カヴァリエは年の離れた弟に、とりあえず「悪い悪い」と口だけで謝った。
もちろん、形ばかりの謝罪でアルマの機嫌が直ることは無い。丸い頬をさらに丸く膨れさせて、兄に怒りを全力で伝えていた。
「だってお前なぁ、レディに対して小さいは無いだろう、小さいは」
そんな弟の頬をフォルリ―は呆れたように指でつつく。
国の守りの要である、魔女。
想像していたよりも年若い彼女に対して、アルマが小さいと言ってしまってから、彼の父はすぐさまアルマを別室へと移動させ、鮮やかに脳天へと一撃を食らわせた。
そして、
『アルマ! お前は魔女様がいらっしゃる間は、一切屋敷から出るなッ!!』
顔を赤くしたり青くしたりしながら、アルマに言い放ったのだ。その時の父の顔は、王国のいち貴族とは思えないほど悲壮感にあふれていたのをよく覚えている。
おかげでアルマは午後の外出の予定がなくなってしまい、せめてもの暇つぶしに兄の部屋に来たのだ。
「レディって……。俺より年下だろ」
「こら、お若くても偉大な魔女様なんだぞ。先の賊討伐にも御出でなさって、俺たちと一緒に戦ってくださったんだ」
「えぇ、あんな小さいのが?」
「アルマ……」
懲りない弟にフォルリ―はため息を吐く。国で王族と同様に祀り上げられている現人神にも等しい魔女に対して、随分な態度をとる弟だ。
しかし、アルマには兄の話がどうも信じられない。
アルマの父親と兄は、国王から爵位を賜る領主であり騎士である。そんな彼らはつい最近まで王命により、王国近隣に現れた野盗や賊の対応に追われていた。
その際に百を超える騎士や兵を率いたのが、先ほどアルマが初めて会った『黒の魔女』なのである。
他の魔女に比べ戦闘能力に長けていると言われる黒の魔女は、建国時より代々、国内外で武力を行使する際に指揮を執り、国を守る役割を担っているとアルマは父親や母親から聞いていた。
だからアルマは、黒の魔女はもちろんほかの魔女のことだって、大人で、賢くて、強い存在なのだと信じて疑ってこなかったのだ。
つい先日の賊討伐までは、であるが。
「魔女が偉大だなんて嘘だ」
自分よりも小さな背丈の少女を思い出して、アルマは顔を歪める。
発言を諫めるようなフォルリ―の視線を感じたが構わずに言葉が出てきてしまう。
「だって、本当にあの魔女が偉大だったなら兄貴の脚は無くならなかっただろ……!!」
ベッドに寝ているフォルリ―の身体が、アルマの声でピクリと揺れた。
下半身が隠れている薄いシーツはフォルリ―の形に膨らんでいるが、途中で右側が不自然に沈んでいた。
去年騎士の爵位を賜ったばかりだった兄。同年代の中でもとりわけ剣技に優れており、領主の息子ながら一目置かれた存在であった。
アルマはそんな兄を誇りに思うと同時に、身近な目標としていた。いずれは自分も兄のように騎士の爵位を賜り、父や兄とともに領地を守ろうと幼いころからずっと考えていた。
それなのに。
賊討伐から帰った兄は、もう二度と自分の脚で立てなくなっていた。
その時のアルマの絶望は今でも語りきれない。もちろん兄や父が無事に帰ってきたことには心から安堵した。だが、同時に自分の目標が崩れていく恐怖と、兄をこんな目に合わせた世界への怨恨があった。
それらは今でもしっかりとアルマの胸の内にくすぶっている。
フォルリ―は無くなった右足を撫でながら厳しい表情で弟の名前を呼ぶ。
「アルマ」
低い声がアルマの頭に響いた。視線を向ければ、表情の割には優しい目をした兄がいた。
「こうなったのは、俺の不注意だって言っただろう」
「……けど、」
「俺の鍛錬が足りなかったんだ。魔女様のせいにするつもりはない。俺はエスタシオンの騎士だ。自分の責任は自分で持つ。いいな」
強く言われてしぶしぶ「わかったよ……」と答えたアルマの頭を、フォルリ―が撫でた。
日々の鍛錬で固くなった手のひらが細い髪の毛をかき混ぜる。ときたま髪が絡まるが、お構いなしに強引に引っ張られるものだから、たぶん何本かは抜けていると思う。
「それで、お前は魔女様に謝ったのか?」
いいかげん首が疲れてきた頃、フォルリ―はふとアルマに問う。
「……まだ」
「まったく、さっさと謝罪してこい。魔女様は寛大な方だからきっと許してくださるさ」
「でも……」
騎士としても、領主の息子としても、してしまった無礼はちゃんと謝れ。
フォルリ―の言いたいことはアルマには痛いほど伝わっている。相手が魔女であろうとなかろうと、無礼を働いたこともちゃんと理解している。
しかし、そうは言えども賊討伐のこともあり彼女への不信感はぬぐえない。見るからに未熟で頼りない魔女へ、心からの謝罪など出来そうにもなかった。
フォルリ―はため息を吐きながら、未だに納得していないような弟の頭をもう一度撫でてやった。