あなたは特別
フェイズ学園の昼休みは、一般的な学校に比べて長い。というのも貴族ばかりのこの学園では、家のお抱え料理人を呼び昼食を準備させる学生が一定数いるためだ。アリシアは常時解放されている学園のレストランを利用するか、たまにライが気まぐれに作ってくれる食事で事足りているので、やったことはないが——なるほど。こんな感じなのか。
学園自慢の庭園の一角。蓮や水連が浮かぶ湖の畔で、アリシアは困ったように用意された紅茶を流しこんだ。鼻を抜ける香ばしい匂い。初めて飲む味だ。
「気に入ってもらえたか?」
透かし模様の入った白いテラステーブルには、外で食べることを考えられたメニューが並んでいる。分厚いローストビーフが挟まれやサンドウィッチや、鮮やかな色彩のサラダ。見たことのない他国のカットフルーツまである。
向かいで同じように食事を摂るダリルに、アリシアは緊張で震える手を止めるのに必死だった。
「これは、オルフェス商会が取り寄せているナーギバル国の茶葉ですね。独特の香りに、後味にカラメルのような苦み。ナーギバルにしか生息していないカシオの葉でしょう」
「さすがオルフェス商会の娘だな」
和やかなダリルとライの会話に、アリシアは更に胃が痛むのを感じた。
昨晩の唐突すぎる邂逅に、アリシアは思わず逃げ出していた。制止するダリルを振り切り、ライの腕をひっつかみ、ひたすら走った。
視える? えっ? 視える?? お前にも? は???
私室の前まで全力疾走したアリシアは、口をぼんやりと開いた間抜け面のまま、部屋に消えて行ったらしい。全て翌日ライから聞いた話で、アリシアはそのことを一切覚えていなかった。
きっと聞き間違いだろう。アリシアはそう結論付けることにした。まさか自分やライ以外に〈視える〉人間がいるはずがない。しかも相手はあのシリルの友人で、宰相の息子であるダリル・オドゥワンだぞ。いや、ない。ないないない。
——「アリシア・オルコット、お前に話がある。ナサリー・オルフェスもだ」
昼食時間に入り、いつも通りナサリーとレストランへ向かおうとしたアリシアの目の前にダリルが仁王立ちした瞬間、アリシアはもう全てを諦めた。
「……探り合いはここまででにしないか? あまりシリルの側を離れているとうるさいんだ」
ダリルは側で給仕をしていたメイドに下がるように指示を出し、そう切り出した。
テーブルの上に置かれた手が、迷うように何度も組みなおされる。アリシアだけでなく、ダリルも緊張しているのだと、その時初めて気づいた。
「あー、その、オルコット達にもアレが〈視える〉んだよな?」
「………………うん」
祈るように力の込められたダリルの手を見つめながら、アリシアは長い沈黙の末、ただ頷いた。その瞬間、ダリルがハッと息を飲む。何度か口を開けては閉じ、やがて気持ちが溢れ出るのを抑えるように口を掌で塞いだ。
「そう、そうか! 僕だけじゃなかったのかッ……!」
噛みしめるように呟かれた言葉に、アリシアは「ああ、そうだったのか」と今までの不安が吹き流されるのを感じた。
アリシアの周囲には母やライのような、同じ〈視える〉人間がいた。
でも、ダリルはそうじゃないのだ。
震える手で眼鏡を外し「よかった」と目元を抑えたダリルに、アリシアはなんて声をかけていいか分からない。だからテーブルに乗ったままだったダリルの右手を、そっと自身の手で包み込んだ。
「ダリル・オドゥワン。あなた変じゃないわ」
アリシアは自分自身に語り掛けるように、静かに言葉を並べる。ライは何も言わず、とつとつと気持ちを溢していくアリシアの横顔へ視線を向けた。
「あなたは可笑しくない。皆には〈視えない〉けど、私たちは普通よ。ただ少し、目が良いだけなの」
母は、この能力を特別だと言った。特別だから、その力でみんなを救ってねと。
でもアリシアはこんな特別は欲しくなかった。〈視える〉せいで同年代の子の輪には馴染めなかった。屋敷の使用人たちからは気味悪がられた。いつだって視界に入ってくるマガイに気が狂いそうだった。
誰も理解してくれないのに、その力でみんなを助ける? なんのために?
アリシアはマガイと対峙しながらも、ずっと心の中で問い続けている。
—— 一体、お前は何のために、誰のためにマガイを祓っているんだ?
「……ありがとう。オルコット」
「アリシアでいいわ、ダリル」
震えの止まったダリルの手を離し、アリシアは「ちゃんと説明するわ」と続けた。
その雰囲気にダリルは眼鏡を掛けなおし、ピンッと背筋を伸ばす。そしてアリシアはオルコット家のこと、自身の力のことについて語りだした。
——「つまり、アリシア達はマガイと呼ばれるアレを祓っているんだな!」
「まぁ、人に害があるものだしね」
「……僕もアリシアみたいに殴れば祓えるのか?」
ブンブンと拳を振ってみせるダリルに、アリシアは「うーん?」と首を傾げた。
「無理じゃないかしら?」「無理だわ」
アリシアの否定と、今まで静観を決め込んでいたライの声が重なる。
〈視える〉者同士だと分かっても正体は明かさないんだなと、隣で満足気にナプキンで口元を拭ったライを見上げる。ライはアリシアの視線に気づきながらも、素知らぬ顔で「アリシアみたいに殴って祓うなんて、普通はやらないわ」とカップに指をかけた。
「普通は聖典の一節を唱えたり、聖遺物と呼ばれる武器を使って祓うの」
「えッ、そうなの⁉」
「……なぜアリシアも驚いているんだ」
アリシアは初めて知る事実に目を見開いた。ダリルの言うことは最もだったが、アリシアは今まで知らなかったに愕然とした。てっきりみんな、アリシアのように触れて祓っているのだと思い込んでいたのだ。
「……その、ナサリーはただ歩いているだけで祓っちゃうし、ハンナ叔母さんが祓うところは見たことがなかったから……」
「オルフェスは居るだけで祓えるのかっ⁉」
通りでさっきからマガイの姿を全く視ないわけだと納得したダリルは、真剣な表情で「オルフェス結婚しよう」と片手をライに差し出した。
「お断りしますわ」
すげなく断ったライの頬が微かに引きつっているのをみつけ、アリシアは必死に笑いを堪えた。それが気に入らなかったらしい。ライは容赦なくアリシアの足を踏みつける。
「いだっ!」
「いい案だと思ったんだけどな。オルフェスと居れば、アレ……マガイを視なくて済むということだろう?」
「そんなに視たくないの?」
気持ちは痛い程わかる。マガイなんて視えない視えないでいいが、ダリルの動揺は相当だった。初めて好きな物を見つけた少年のように、きらきらと瞳を輝かせている。
「アリシアはマガイが怖くないのか?」
「うーん?」
アリシアの中で、マガイは既に怖い・怖くないの領域から逸脱していた。いうなれば調理場に出てくる虫のようなものだ。現れるたびに駆除するが、見慣れすぎてもはや駆除は作業と化すような。
いまいちピンとこない様子のアリシアに、ダリルはわなわなと震え、勢いよく両手をテーブルへ叩きつけた。
「僕は、ぼくは怖いッ‼ こわくてこわくてこわくて溜まらない! 出来るだけ視界に入れたくない。そのために態々こんな度の強い眼鏡までかけているんだ!」
ああ、その眼鏡伊達なのねと、どうでもいいことを考えながらアリシアは喉を潤す。紅茶は冷めても美味しかった。
ダリルは肩で息をしながら「取り乱してすまない」と頭を振った。
「でも、僕との結婚は頭の片隅でもいいから考えて——」
「絶対にねぇですので他の方法をお考えになって」
思わず本性が出たライは、遠い目をしながらカットフルーツを貪った。ナサリーの姿ではほとんど見ることのない姿に、アリシアは笑みをこぼす。
その表情を見てダリルは「僕は勘違いしていたみたいだ」とアリシアに頭を下げた。
「君のことを他人を虐げて喜ぶ意地の悪い女だと思っていた。すまない」
「私もあなたのことはシリル王子の金魚のフンだと思っていたのだからお互い様よ。……私って私が思っている以上、周りからヤバい女って思われてるの?」
「腰巾着の自覚はあるが、父の命令で仕方なくなんだ……」
互いに互いの言葉で落ち込んだ二人を放って、ライは「それで、オドゥワンはどうしたいの」とフルーツへとフォークを突き刺した。
「〈視える〉人が他にもいるって知って、どうしたいわけ?」
「僕は……」
ライの問いかけに息を飲んだダリルは、迷いの一切ない力強い瞳を返した。
「僕は、君たちのように祓えるようになりたい。もう怯えて視ているだけは嫌なんだ」
「じゃあ、やることは一つだな」
ライはダリルの答えが気にいったようだ。本性を現したライに驚き、硬直したダリル。カチコチに固まったダリルに構わずライは「知識をつける、力をコントロールする、武器を揃える」と指を三本立てた。
「お前らには足りないものが多すぎる」
「えっ、ちょっと待って。お前らって……」
嫌な予感がして冷や汗を垂らすアリシアに向かって、ライは凶悪な表情で「お嬢もだよ」と容赦なく頭を鷲掴んだ。
「いやいやいや、私はマガイのことだって知ってるし、今まで通り殴って祓えば——」
「今回のことでよーく身に染みた。お嬢は早死にする。それじゃあ俺が困るんだよ」
「でも!」
「でもじゃねぇ。いい機会だ。ダリルと一緒に学びなおせ」
ライの脳裏では、迷いなくマガイに飛び込んだアリシアの姿がちらついた。もうあんな思いは懲り懲りだ。ただでさえ、面倒事を頼まれているのに。
——「ライ、アリシアのことをよろしくね」
そう言うんだったら、もう少し無茶しない性格に育てとけよ。
ライは自身を縛る約束と、思い出した女の影に悪態をつきながら掌に力を籠める。アリシアの悲鳴が聞こえたが無視をし、ダリルに「次の日曜に外出許可を取って置け」と告げた。
「オルコット邸に行くぞ」