グレイ・レディの首吊死体
正面、南に位置する通常棟は学園の玄関口。東が特別棟、西が技術棟。そして最奥に位置する北が教員棟なのだが、その更に奥、学園の背後に広がる森の手前に、教会はひっそりと建てられている。
円柱が弧を描くドーム型の協会は、街中で見かける大聖堂とは違いこじんまりとした印象を与える。実際、敷地は広くなく、窓も少ない閉鎖的な教会なのだが、一度中に入れば、建築家によって細部まで計算しつくされた建物だということがよくわかる。
床の大理石は歪みのない円を描き、湾曲した壁面には宗教画が彫刻されている。極限まで壁面の窓を少なくしているのに明るく感じるのは、頭上のステンドグラスのおかげだ。
極彩色のステンドグラスは建物の中点、その真上から月光を透かして見せた。
アリシアは思わず感嘆の息を漏らす。今は使われていない、知る人ぞ知る場所になってしまったことが惜しまれた。
「……あんな事件さえなければ、今もここで礼拝が行われていたのかしら」
「たぶんな。まぁ、特別棟にあるチャペルも悪くないが……ここは別格だな」
あんな事件——怪談話に加えられてしまったグレイ・レディことエリザ・ブリックスの自殺が行われたのは、今から六十年前のことだ。エリザはフェイズ学園のレストランで働く、気前のいい娘だった。夫は職場を共にする料理人。二人の仲睦まじい様子は学園の名物だったらしい。それが変わってしまったのは、エリザが出産してからだ。
「産まれた子供が夫婦どちらにも似ていなかったせいで、姦通罪を疑われるなんて……」
「今の国王になってやっと撤廃された古い因習だよ」
姦通罪とは、既婚もしくは婚約者のいる女が、夫以外と貫通する——つまり浮気したことを裁く法律だ。ヴィルフェバーデュ国は一夫一妻制と法律で定められているが、男性は愛人を作ることはが認められている。対して女性は、姦通罪に該当すれば斬首刑に処される。
不平等な法律が撤廃されたのは、つい最近。シリルの父親である現国王が即位してからだ。
「姦通罪を疑われたエリザは必死に否定したが信じてもらえず、悲しみに暮れ、この教会で首を吊った。……その時着ていたのが灰色のドレスから、グレイ・レディと呼ばれている」
夜になると教会には彼女の死体が揺れる音が響くらしい。
ギィ、ギィ、ギィ——と、彼女の死体が揺れる音が。
「ッ⁉ お嬢‼」
耳元で響いた縄の軋む音に、アリシアは振り向こうとした。だがその前に、アリシアの細首に茶色いロープが絡みつく。咄嗟に指を滑り込ませ、実態のないロープを浄化させた。
ライが駆け寄り、アリシアを庇うように背後へ隠す。咳き込みながらアリシアも襲いかかってきたナニカを睨みつけた。
教会の中央。一筋の月光がスポットライトのように彼女を照らしている。黒いベールで顔を隠した女は、灰色のドレスの裾をゆらゆらと波打たせていた。
「グレイ・レディ!」
まさか本当にいたなんて。本物のマガイであるグレイ・レディの亡霊は、アリシアの数メートル上を、左右に揺れながら浮かんでいた。その様子は首吊り死体そのもので。
「これが噂の正体……」
呆然と見上げるアリシアに変わって、ライが「どうすんだよ」と隠し持っていた警棒を取り出した。折りたたまれた警棒が伸びる。
「どうもこうも殴るしかないんだけど……」
「あの浮かんでるやつをか? さすがの俺でもお嬢を投げ飛ばすことはできねぇぞ」
「そんなこと頼むわけないでしょ!」
「俺が近づいても消えないってことは、かなり強力なマガイだ、っ⁉」
ひゅっと風を切り裂く音が聞こえたかと思えば、すぐ脇を凄い勢いでロープが掠めた。
「おいおい、まじか」
二撃、三撃を警棒でいなし何とか応戦するも、マガイの力で放たれるロープは鉄の鎖のような威力を持って警棒を軋ませる。
「お嬢、ここはいったん——」
そこまで言いかけて、ライは背後にアリシアの姿がないことに気づいた。
「お嬢⁉」
「ライ! そのまま引き付けといて‼」
声のほうへ慌てて視線を向ければ、アリシアはいつの間にかグレイ・レディの背後にある説教台の上へ足をかけていた。
「馬鹿か! 何するつもりで」
「言ったでしょう! 私にはマガイに触るしか方法はないの!」
「あ~~くそっ!」
アリシアのやりたいことが分かったライは、自身に向かってきたロープを警棒に巻きつけ力任せにひっぱった。グレイ・レディの身体が、地面に少し近づく。
「ありがとうライ!」
アリシアはそう叫ぶと思いっきり跳んだ。スカートが宙をひらめき、黒く長いアリシアの髪がふわりと風に靡く。ステンドグラスの光がアリシアの横顔を照らし、金色に染まった瞳はまるで
満月のようで。思わず見惚れたライだったが、慌てて警棒を放り投げた。
アリシアは凶悪な表情で好戦的笑ってみせる。
「さっさと祓われなさい!」
握った拳を、アリシアは迷いなくグレイ・レディへと振り下ろす。驚いたように振り向いたレディのベールが風圧で揺れた。
ハシバミ色の丸い瞳。そばかすの散りばめられた女性の顔が黒の奥から覗く。
「さよなら、グレイ・レディ」
そう言って触れたアリシアに向かって、レディはただ嬉しそうに微笑んでいた。
「ライ!」
金色の粒子になって空気へ溶けたグレイ・レディの奥からアリシアが降ってくる。ライは迷いなく腕を伸ばし、アリシアを抱きとめた。勢いあまり少しよろめいたライだったが、決して倒れることはない。アリシアはライのセーラー服をギュッと握りながら「成功したでしょ」と笑いながら地面に足をついた。
「馬鹿か! 万が一祓えてなかったらどうすんだッ‼」
「その時はライがどうにかしてたでしょ」
「おまえは、ほんとッ……っ~~。無茶はしないでくれよ」
ライはぐしゃぐしゃと長い鬘をかき乱しながら、長い息を吐き出した。心臓がいくつあっても足りないとブツブツ呟くライの肩越しに、アリシアはゴンッと固いものが落ちる音を聞いた。慌てて体を離した二人は、いつの間にか扉の近くに人がいることに気づく。
「なっ、なっ、な」
パクパクと口を必死に動かし、声にならない声を絞り出している青年は、震える指先をアリシア達に向けている。
しまった! ライと抱き合っているところを見られた!
アリシアが咄嗟に「あの、これは」と取り繕うとして、ライが今ナサリーの姿なのを思い出した。危うく婚約者がいるのに男性と深夜に密会していると思われるところだった……。いや、ナサリー姿のライと一緒でも、こんな時間に、こんな場所で何をしているんだって話なのだが……。
アリシアは混乱する頭で、立ち尽くしている青年をまじまじと観察する。深緑色の髪に、眼鏡をかけた彼は——。
「どうしました? ダリル・オドゥワン」
隣のライが嫌に冷静な声で彼の名前を呼んだ。その視線は鋭い。まるで何かを探っているようだった。ダリルは、震える手で眼鏡を押し上げる。ごくりと彼の喉が鳴った。
「お、お前たちも視えるのか」
「へっ?」
「視えるんだろう、アリシア・オルコット。お前にも幽霊が」
「へっ???」