二つの黒が額を突き合わす
女子寮の最上階。無言で自室の扉を開けたナサリーは、乱暴に中へとアリシアを放り投げた。素早く鍵を閉め、遮光カーテンを引いたナサリーの口から、少女とは思えない低い声が漏れ出る。
「あぁ~~やってらんねぇ。あのクソ王子、ネチネチネチネチ小姑かよ」
ナサリーに与えられた個室は、隣室のアリシアの部屋とは違い、物が異様に少ない。
備え付けの木枠のベッドに、数冊だけ本が乗ったシリンダーデスク。装飾が極端に削られたチェストオンキャビネット。まるで誰も入寮していないような、生活感のなさ。
ナサリーは大股でキャビネットに近づくと、軋むほどの勢いで引き戸を開ける。
「……おい、いつまで見てんだよ」
そう言って振り返った彼女——いや、彼はずるりと長髪の鬘を取り払った。
現れたアリシアと同じ黒髪。だが彼の短い髪は、少し癖でうねっていた。猫目が呆れたように細められ「着替えんだけど」ベッドへと鬘が放り投げられる。
「……ライ」
「お嬢は男の着替えを見るのが趣味なのか?」
「そんなわけないでしょっ‼」
一般枠の生徒とは違い、白地に金の刺繡が施されたセーラー服を捲りながら、ライがニヤリと嫌な笑みを見せる。
アリシアは慌ててライから背を向け、持っている瓶を床に下ろした。
まったくと言っていい程物がないせいで、水瓶は部屋の中で浮いていた。
背後でライが着替える音を聞きながら、アリシアは腕組をし「それで」と問いかける。
「本当の用事は何なのよ」
「助けてやったのにそれかよ」
「……助けてもらったのはありがたいけど、あんた、様子見してたでしょ」
シリル王子が現れた時には、既にライが人混みに紛れていたことにアリシアは気づいていた。
「へぇ、よくわかったな」
「ライの周りはマガイが避けていくから。視界からマガイが消えた時点で気づくわ」
ライの隣を歩くとよく分かる。
アリシアひとりの時、マガイたちは素知らぬ顔で通り過ぎていくのに、ライを前にすると一瞬で海を割るかの如く道が開ける。
その光景は何度見ても圧巻だ。
「……ほんと、この体は厄介だな。これじゃあ、お嬢を驚かすことができねぇ」
「なんで驚かそうとしてんのよ」
ライもアリシア同様〈視る〉力を持っている。
オルコット家の血縁ではないが、同じ能力を持つライを、オルコット家は孤児院から引き取り、アリシアの従者として側に置いた。
そのためライとアリシアは幼少期からの付き合いになる。
部屋に備え付けられた簡易洗面台で化粧を落としたライが「もういいぞ」と声をかける。
振り返れば、見慣れた姿に戻ったライが袖のボタンを留めながら立っていた。
カッターシャツに黒いベスト。同色のズボンを長い脚で着こなしたライは、どこからどう見ても良家の執事だ。幼い頃からライと一緒に過ごしてきたアリシアでも、たまにライの美しさに目を奪われる。
ん? と首を傾げるライに「なんでもない」と視線を落としながら、アリシアは机の側に置かれたラダーバッグの椅子へと腰かけた。
「なに落ち込んでんだよ。久々にあのポンコツ王子に会ったからか?」
「……別に落ち込んでないわよ。少し疲れただけ」
アリシアは自身の長髪に指を這わせながら溜息をつく。
別に落ち込んではいない。あの傲慢な婚約者になんと思われたところで、アリシアにとってはどうでもいいことなのに——。
(綺麗な銀髪だった)
ユーリアがシリルの側に現れた時から、その容姿の美しさは伝え聞いていたが、目の当たりにすると感慨深かった。アリシアはこの国では珍しい黒髪に黒い瞳。他国の人間のような色調を、シリルは嫌悪していた。その点ユーリアはシリルが好みそうな容姿だ。
(望んだ婚姻じゃないとはいえ、ここまで嫌われているとくるものがあるわね……)
ヴィルフェバーデュ国で神託とは、国王の発令する国命よりも尊重されるものである。
唯一神であるフォルス神のお告げを、王家専属の神父が聞き取り、国民へと伝える。それは国政に関わるものであったり、民衆の些細な諍いの解決だったり、多種多様だ。
アリシアが十歳の時。春にしては蒸し暑い夜。
オルコット家に、王家の使者が慌てた様子で駆け付けた。
——「貴殿、アリシア・オルコットとヴィルフェバーデュ国第二王子であらせられるシリル・シモンズ様の婚姻が神託により決定いたしました」
これにはオルコット家も、シモンズ王家も慌てふためいた。
オルコット家にとっては願ってもいない話だが、シモンズ王家にとっては、いくら相手が聖女の末裔の侯爵家令嬢でも貧乏クジだ。
既に王政に干渉しいている次期国王の第一王子ではなく、第二王子なのがまだ救いだが、それでもオルコット家との婚約など前代未聞だった。
神託により婚約が決まった当初、アリシアはこの能力のことをシリルに打ち明けるつもりだった。神託が選らんだ人間なのだから、きっとアリシアのことを理解してくれるはず。
そんな希望が粉々に砕け散った日を、アリシアは今でも鮮明に思い出せる。
「こんな女が俺の婚約者だと? この醜い女が?」
そう言ってシリルはアリシアを睨みつけた。初めて言われた言葉に、アリシアは間抜けにも笑みを浮かべたまま固まってしまった。そんな様子に気づかず、シリルはつらつらと言葉を並べ立てる。
「本当にこの国の女か? こんな暗い色の女は見たことがないぞ。聖女の末裔だなんて、ただの噂にすぎなかったか」
十歳だ。同い年の少年の粗暴な言葉を、気に留めるなんて馬鹿げている。でも、その言葉は今でもアリシアの胸を刺して、時折酷く痛む。
母のような美しく波打つ金髪だったらまた違ったのだろうか。思ったところで仕方がないのだが、アリシアはその日から自身の髪が酷く疎ましくなった。
ライもその出来事を覚えているのか、仕方ないなと言いたげに肩を竦めるとアリシアに近づき、その背後に立った。ライの骨ばった指先が、アリシアの髪を梳く。
「あんまり自分を卑下すんなよ。俺も同じ髪色なんだから」
「ライは綺麗な赤い瞳だからいいじゃない。私は目も黒いし……」
気にすることなんてないとライは思うのだが、本人の中では相当根深いトラウマになってしまったらしい。不可思議な行動のせいで周囲から煙たがられてはいるが、本来それさえなければアリシアはユーリア・カルヴァンに引けを取らない美少女だ。
手入れの行き届いた濡れ羽色の髪は、羨ましいほどまっすぐで、その白すぎる肌によく映えている。瞳だって確かに黒いが、たまに緑色の光彩がちらつき、まるで宝石のよう。
それにマガイを視認しているときのアリシアの瞳は、満月のような黄金色に変化する。知っているのは同じように〈視える〉ライと亡き彼女の母親だけ。
ライは自分だけがアリシアの美しさを知っていればいいと、あえて彼女の勘違いを訂正することはなかった。
アリシアは何も言わず、ただ髪を撫でるライを「どうしたの?」と見上げる。
金色の瞳が輝くのを横目に、ライは「なんでもねぇ」と無理矢理首を前に向かせた。
「いだッ⁉ ちょっと優しくしなさいよ!」
「へいへい。お嬢は我儘だなぁ」
「……一応、私、あなたの雇い主なんだけど……」
二人の気安い関係に、今更主従なんて不要か。アリシアは思い至り、文句を飲みこむ。
するするとアリシアの長い髪を編み込み始めたライは「それで呼んだ理由だけど……」と唐突に語りだした。
「本当に用事があったのね……」
「当たり前だろ。お嬢が学園にいるマガイを片っ端から祓いたいって言うから、いろいろ情報収集してたんだぞ。それなのにお嬢はクソ王子に絡まれてるし……ぶふっ、いや、あれは傑作だったな! ッ、まさか何も知らずユーリア・カルヴァンに水をぶっかけるなんてッ‼ また周囲に気性の粗い女だって勘違いされたなっ!」
「……はぁ。勘違いなんて今更だけど、流石に今回は困ったわ」
学園内でマガイを見つければ、迷いなく祓い始めるアリシアは、自身の行動が周囲に勘違いされる要因であることは自覚していた。が、こればっかりは説明なんてできない。
私、霊が視えるので祓ってまわっているんです!
なんて言ったところで更に変人扱いされるだけだ。
「で、聖水はどうだったんだよ。まぁ、どうせ偽の情報だろうけど——」
「それが成功したみたいなの。私もまさか本当に作れるなんて思わなかったのに……」
アリシアが盛大に水を撒き散らした瞬間、ジュッとまるで蒸発するようにマガイ達は消えてしまった。そしてユーリア・カルヴァンが現れたのだ。
「…………へぇ、効果がねぇ」
ライの手がピタリと止まる。
何か思案するように宙を見上げたライは「まさかなぁ」と呟く。
「どうしたの?」
「いや、なんでもねぇ。杞憂だろ」
本当に申し訳ないことをしたとアリシアは思い返す。アリシアの視界では、マガイも人間も見分けがつきにくいばかりか、マガイの向こう側が全く見えなくなる。
マガイ越しに誰かに話しかけられても、アリシアは気づけないのだ。
せめてマガイが、人々に語られる幽霊のように透けていればよかったのに……。
「ほら、できたぞ。にしてもユーリア・カルヴァンもすげぇな。普通の人間なら、あんだけのマガイ
に囲まれた時点で体調不良を起こしても可笑しくないのに」
「……彼女が本物の聖女だって言われるのも、あながち間違いじゃないかもね」
シリル王子を筆頭にユーリア・カルヴァンこそ本物の聖女に違いないと支持する生徒が一握りだが存在する。聖女の力がオルコット家の人間にないことを知っているアリシアにとって、その噂には生きた心地がしない。
オルコット家の真実を知られれば、間違いなく侯爵の地位は剥奪される。そんなことになれば、あの父親は黙っていない。アリシアは自身の父を思い浮かべ溜息をついた。
オリエルウィンドウに背を預けたライも、同じように苦々しい表情を浮かべている。
「あくまで学園内の噂だしな。大事にはならないはずだが……。それよりマガイのことだ」
ライはシリンダーデスクの引き出しを開けるよう促す。中を見れば、数枚のメモ用紙が乱雑に重ねられていた。手に取れば、ライのミミズのような走り書きが白を埋め尽くしている。
「あなたの字、癖が強くて読めないのよ」
「あ? 普通だろ。……分かった、説明するよ」
ライは頬を掻きながら「慌ててメモしたから読めないだけだ」と独りごちた。
「前に言ってただろ。この学園は異様にマガイが多いって」
入学当初からアリシア達はこの学園の異常性に警戒していた。
「病院や学校、役所や商会、酒場のような人の集まる場所には、元々マガイが発生しやすい。そして、そういう場所で生まれたマガイは人間に強い影響を及ぼすヤツがほとんどだ。……そこまではお嬢も知ってるな」
アリシアは静かに頷く。体調不良で済むのは低級のマガイで、人間の側に長くいることで力をつけたマガイは簡単に人を殺せる。
マガイは人々の語りが生み出した産物。作られ、噂され、伝染し、実態を持つ。
単純な話、噂が集まりやすいところには、その分多くのマガイが発生し続けるのだ。だから学園でマガイを大量に見るのは可笑しくはないのだけど……。
「お嬢は七不思議って知ってるか?」
唐突に尋ねてきたライに、アリシアはムッと唇を突き出し「それくらい知ってるわよ」と人差し指を立てた。
「学校を題材にした怪談でしょ? マガイになりやすいって記録があったわ」
オルコット邸の書庫に入っている本の大半は、歴代の〈視える〉人間がまとめたマガイに関しての記録だ。暇さえあればアリシアは読み漁っているので、もちろん七不思議のマガイについても履修済みだ。
「学校ごとに内容は違うけど、基本的に七つの怪談で構成されていて、たいてい七つ目は知ることができないのよね。知ったら死ぬとか、消えちゃうとか」
得意げに胸を張ったアリシアは「どうせこの学園にもあるんでしょ?」と催促した。
今度はライが不満そうに「……自分で集められないくせに偉そうにすんな」と溜息を吐く。そして指を折りながら、とつとつと語りだした。
一つ、グレイ・レディの首吊死体
二つ、ライラック・イゼルの頭蓋
三つ、歴代校長の首なし婦人図
四つ、名前のない部屋の怪物
五つ、薔薇迷宮のワイルドハント
六つ、死を呼ぶヒュース・ミー人形
七つ、ディス・マン
「あの男?」
「この七つ目がどうもきな臭せぇ。普通の七不思議と同じように、名前以外詳細は掴めなかった」
「それなら他の七不思議と大して変わらないわよ。名前がついているか、ついていないかの話でしょ?」
「だと思うだろ。——去年の夏、バッケリー家の娘が失踪したの覚えているか?」
逆光がライの顔に濃い影を落とす。
女子寮からは学校の裏手にある、丘陵が見渡せる。穏やかな午後だ。生徒の笑い声が響いてきてもおかしくないのに、嫌に静かだった。
凄い騒ぎだったので、噂話が回ってこないアリシアでもその出来事は知っていた。
王家の遠縁であるバッケリー公爵家の次女が突如失踪したのは、去年のことだ。アリシア達が無事に一年目の学生生活を終えようとした夏季休暇前。
蒸し暑い夏だったこともあり、学園内の庭園にある巨大な湖の中まで虱潰しに探された。が、彼女は結局見つからず、バッケリー家の使用人と駆け落ちしたのだと、新学期が始まる頃には、いつの間にか忘れ去られていた。
「マガイが発生しそうな話を集めてる途中、バッケリーと仲の良かった女子生徒から声をかけられたんだ」
——「七不思議に深入りするのはやめなさい。あの娘と同じになりたくなければ」
「バッケリー先輩は七不思議のせいで失踪したってこと?」
「ああ。その女が言うにはディスマンにバッケリーは連れ去られたんだと。なんでもバッケリーはその手の話に執心していて、特に七不思議を熱心に調べてたらしい」
アリシアはそこまで聞いて「ん?」と首を傾げた。
「ちょっと待って。ディスマンについては何も分からないんじゃなかったの? それなのにバッケリー先輩を連れ去ったのがディスマンなんて断定できるわけ? 聞いた限りじゃ、他の怪談の可能性も十分あるわよね」
アリシアの問いに満足気に頷いたライは「な、きな臭せぇだろ」と不敵な笑みを浮かべた。
「きな臭いもなにも、そのバッケリー先輩の友人に聞けばいいじゃない」
「聞いたさ。でも逃げられた」
「逃げられた?」
何やってるんだと呆れた表情で訴えれば、ライは気まずそうに「タイミング悪く囲まれたんだよ」と視線を逸らした。
いつものアレが最悪なタイミングで発生したらしい。
アリシアはいつの日かみた、女子生徒に囲まれるライを思い出していた。
完璧なナサリー姿なのに、ライは異様に女子生徒からモテる。ライを「騎士姫様」と慕う女の子たちは数知れず。彼女たちは女だと誤認しながらも、淡い恋心を抱いているのだ。
共学なのに、そこらの男子生徒よりも遥かに好意を寄せられている姿に、男子生徒は悔し涙を流している。
流石にアリシアと一緒に居る時は遠目で眺めるに留めているようだが、一人になった瞬間、ハイエナの如く群れをなし、ライは標的になっていた。
ちなみに、そんなミーハーな彼女らがライの大事な情報源だったりする。
ぐしゃりと前髪をかき混ぜたライは「一応探したんだけど、結局影さえ見つからねぇ」と肩を落とした。
「ライが探しても見つからないとなると、存在していない可能性もあるわね」
生きている人間なのかも怪しい。
いや、ライの体質上、それはあり得ないかと心の中ですぐさま否定しながらも、アリシアは友人を名乗る女子生徒へ漠然とした、言い知れない不安を抱いた。
そんな不安を振り落とすように「どっちにしろやることは一つね」と立ち上がる。
「片っ端から殴って祓う。それしか私にはできないもの」
マガイが発生している可能性がある以上、アリシアは七不思議を単なる噂話で片づけるつもりはなかった。
「お嬢ならそう言うと思ったよ」
ライは満足そうに頷いたが、動く気配はない。
「……行かないの?」
「馬鹿だなぁ、お嬢。たいていの怪談話は夜が舞台なんだよ」
「それを早く言いなさいよ‼」
アリシアは乱暴に座りなおす。勢いあまって、近くに置いていた水瓶が転がった。
夜まではまだ長い。