水瓶から溢れた、覚えのない記憶
外廊下で四角く切り取られた中庭から、夏の焼ききれそうな程の眩しい光が二人を照らす。切り石積みの柱とアーチが交互に組まれた、ギャラリー状の廊下には他に人はいない。
「あー、その、ごめんなさい。大丈夫?」
制服のポケットからハンカチを取り出し少女へと差し出しながら、アリシアはおや? と内心首を捻った。
たおやかな銀髪に、零れんばかりのアイスブルーの瞳。茶色のセーラー服から覗く細腕は青白い。この子は——。
「アリシア・オルコットッ‼」
ドンッと突然背後から衝撃を受け、アリシアは思わず座り込む。危うく制服を濡らすところだった。何事かと見上げれば、金髪の青年が少女の肩を抱いていた。
「ユーリア! 大丈夫か⁉ 」
焦りに満ちた声に、深い慈愛を湛えた新緑が少女を労わっている。そこでようやく、ずぶ濡れで震えている少女があのユーリア・カルヴァンだとアリシアは気づいた。
「シリル様……」
弱弱しい、今にも倒れてしまいそうなか細い声で応えたユーリア。労わるように細い体を抱きしめた青年——シリルの鋭い眼光がアリシアへと向いた。
「アリシア。貴様、またユーリアをいじめていたのか」
(また? 会ったのは初めてだと思うけど……?)
アリシアは立ち上がり、スカートの裾を払うと、見事なカーテシーで頭を下げる。
「ごきげんよう。シリル様」
「はッ! お前に名前を呼ばれるなんて虫唾が走る」
アリシアの挨拶に嫌悪を露わにしたシリルは「この悪女め」と吐き捨てた。
「婚約者の自分を差し置いて、ユーリアが愛されているのがそんなに憎いか?」
「……? はあ?」
アリシアは思わず間の抜けた返事をしてしまった。いったい何を言いたいのか、いまいち分からず首を傾げる。水をかけてしまったのだって、ユーリア・カルヴァンだと知っていたからではない。たまたまアリシアからユーリアが見えなかったのだ。
事の発端はこうだ。
昼休み、アリシアは学園内の最北にある教会に足を運んでいた。
教会の裏手。湿った木々が密集し、生徒たちは誰も立ち入らない場所。そこにアリシアは水瓶を三つ、勝手に配置していた。
並々と水が注がれた瓶。月光に水面が当たるように調整する。
アリシアは除霊に有効な聖水を作ろうとしていた。
聖水作成の手法を知ったのは三日前。オルコット邸に帰省した時のことだ。
オルコット邸の書庫には膨大な書物が積み重なっている。書棚に入れていたのは疾うの昔の話で、文字通り床から天井まで。一本の柱のように積み重なっている本の山から、アリシアは『これでもあなたも悪霊退散☆』という、なんともチープな本を探し当てていた。
嬉々として読み始めたアリシアを、専属の従者であるライは鼻で笑った。
「そんなんで、本当に祓えるわけねぇだろ」
「やってみなきゃ分かんないでしょ!」
売り言葉に買い言葉。アリシアだって、最初からこんな方法で聖水が作れるとは思っていない。けれど売られた喧嘩は買えるだけ買う、捻くれた性格が邪魔をした。
アリシアはさっそく学園に戻ると、瓶を水で満たし、満月に一晩晒した。
そうして完成したと思われる聖水を、汗水たらし持ち帰っている途中。アリシアはマガイが密集しているのを〈視て〉しまったのだ。
異形のマガイが一塊になって蠢いていた。この学園に来てから頻繁に〈視る〉光景なため、アリシアは特に疑問に思わず、瓶とマガイへ交互に視線を向ける。
ついでに周囲へ目を配れば、昼休みも終盤のためか、廊下に人はいなかった。
都合のいい条件が揃った中で、試そうと思わない人間がいるだろか。アリシアは欲望を抑えることが出来ず、気づけばマガイたちに持っていた水を浴びせていた。
まさか、その中心に人間がいるだなんて——。
閑話休題。
兎に角、アリシアは故意でやったわけでなく、ましてやシリルの言うような「またいじめていた」なんて言葉に心当たりは全くなかった。
なのにシリルは、未だにアリシアを射殺さんばかりに睨みつけている。
「……カルヴァンさんとは初対面のはずですが?」
「嘘をつくな! 近頃ユーリアは怪我をしたり、今みたいに濡れて帰ってくることがあった。理由を聞いても、何も言ってはくれなかったが……今、分かったぞ! 婚約者であるお前が相手じゃ、ユーリアも口を噤むしかないからな!」
「うーん……?」
全く心当たりがない。何も言わないのに、否定はしてくれないのねと、抱きしめられたままのユーリアへと視線を向ければ、彼女はただ顔を俯けるばかりで。
(困ったわ。まったく心当たりのないことを謝るのは癪だけど、水をかけてしまったことは事実だし……)
ただ、場所が悪すぎる。段々と集まってきたギャラリーに、アリシアは内心舌を打った。
アリシア・オルコットはこの国の第二王子であるシリル・シモンズの婚約者である。
それは周知の事実であり、学園の誰もが暗黙の了解としてシリルやアリシアと一線を引いた。が、庶民出身の外部生であるユーリアはその事を知らず、あろうことか婚約者を差し置いてシリルとの仲を深め始めた。
これには本人たちよりも、周囲の人間が慌てふためいた。
なんせ、あのアリシア・オルコットが婚約者なのだ。
聖女の子孫であるオルコット家の一人娘で、見目麗しく、誰もが見惚れる令嬢——であり、奇人変人ヤバい人。
ある時は廊下に塩を撒き。またある時は教室の壁を無言で殴る。
謎の助言をされた人間は数知れず。彼女は学園内で危険人物認定されていたのだ。
そんな彼女の婚約者を寝取ろうなんて……正気か?
周囲の善良な人間はユーリアに対し、アリシア・オルコットがいかにマトモじゃない人間か、そもそも婚約者のいる男性に近づくのはタブーだと言い聞かせた。が、ユーリアは近づくのをやめず、その果てに第二王子であるシリルのハートを見事射止めてしまったのだ。
これは修羅場になる。ついにアリシア・オルコットが人を殺す。
そう噂されて三ヶ月。なぜかアリシアは全くユーリアに興味を示さず、シリルに文句を言うことすらなかった。
(結局、神託に従った婚約だし。破棄されるなら破棄されるでいいのよね)
アリシアはどこまでもドライだった。
アリシアの興味のあることといえば、悪霊退散、除霊強行ばかりで、婚約なんて——それも神託なんて馬鹿げたしきたりで決められたものなんて——破棄されても困ることは一つもなかった。
(まぁ、そもそも神を重んじるこのヴィルフェバーデュ国で、神託を蔑ろになんて絶対にできないから、婚約解消の神託が再度告げられない限りは破棄なんて出来ないのだけれど)
周囲の「ついに修羅場か!」と期待に満ちた視線に、アリシアは辟易した。
寮生活を強いられているお貴族様達の娯楽に、アリシアはなってやるつもりはなかった。
そう、全くなかったので——。
「申し訳ありませんが、残りの水瓶も運ばないといけないので、これにて失礼いたしますわ」
そう言って、再度見事なカーテシーを披露し、踵を返そうとした。
そんな都合よくいくはずもなく。
「逃がすと思うなよ、アリシア。今日という今日はユーリアに謝ってもらう」
「……カルヴァンさん。水をかけてしまって申し訳ないわ。わざとかけたわけじゃなくて、私の不注意だったの。許してくださる?」
「そんなので済むと思っているのかっ!」
握られた細腕が嫌な音を立てる。これは痣になるなと、アリシアは右腕を眺めた。
「……シリル様。離してください」
「離したら逃げるだろうが。お前はいつもそうだ。煙に巻いて、お茶を濁す」
「……そんなこと、ありません。それにカルヴァンさんには先ほど謝りましたよ」
「あんなのは謝罪と認めない」
(本当に困ったわ)
暖簾に腕押し。頑固な態度は、彼の父親である国王譲りか。
自分と押し問答するよりも、背後に放置されてしまっているユーリアを気にかけた方がいいだろうに。
よそ見をすれば、更に力が籠った。本当に腕を折る気じゃないでしょうね……?
さぁ、どうしようかとアリシアが困り顔で唇に指を這わせた瞬間、背後の人混みが小さく騒めいた。次いで正面の人混みも割れ始める。
「アリシア!」
「シリル! ユーリア!」
真っ先に視界に入ったのは、深緑の髪を顎先で切り揃えた青年だった。
理知的な瞳が、眼鏡の奥で鋭く光っている。
付き人のようにいつでもシリルの側にいる彼は、確か宰相の息子の——。
「ダリル、遅いぞ」
そう、ダリル・オドゥワン。国の宰相を務めるガリル・オドゥワンの息子だ。
ダリルはユーリアに駆け寄ると、自身の着ていた白いブレザーをそっと羽織らせた。その光景をみて、そういえばユーリアはダリルからも好意を持たれていたなと思い出す。
ダリルだけではない。
シリルと仲のいい学友たち(しかも地位の高い子息たちばかり!)から、ユーリアは好意を向けられていた。まるで、巷で流行っている安っぽい恋愛小説だ。
自分に一切関係のないところでやってくれればいいのに……。
(なんで私がシリルの婚約者なのよ)
アリシアは婚約してから何百回と唱えた言葉を、また脳裏に浮かべた。
(そんなこと考えている場合じゃないわ! シリルの意識が二人に向いている今なら逃げられるかも!)
そう思ったのはアリシアだけではなかったらしい。背後に現れたもう一人の人物がアリシアの肩に手を置き、無理矢理シリルと距離を取らせた。
「ラっ……ナサリー」
「遅いから迎えに来ちゃった」
振り向けば、栗色の長髪に朱色の猫目が特徴的な少女が微笑んでいた。
アリシアよりも高い背に、すらりとした四肢。
周囲の、特に女子生徒から「騎士姫様だわ!」と黄色い悲鳴が上がった。
ナサリー・オルフェス。奇特なアリシアの、唯一の友人だ。
ナサリーはアリシアを引き連れ、念を押すようにシリルと再度距離を取る。
それを見たシリルが、忌々しそうに「……オルフェス商会の娘か」と呟いた。
「お久しぶりです、シリル様。先月の品評会以来で」
「オルフェス。悪いがアリシアは置いて行ってもらう」
「それは無理ですわ。アリシアにはこれから、試作品をたくさん試してもらう約束なんです」
「はッ、周囲に頓着しないアリシアに、物を見る目があるとは思えないが?」
「まぁ、シリルさまは自分の婚約者を、少し過小評価しすぎでは? アリシアはとっても〈視る〉のが得意なんですよ」
(ああ、肩にまで痣ができる……)
食い込んでいく指先から、ナサリーの苛立ちが伝わってくる。アリシアの隣で火花を散らす両者。終わらない口論に嫌気がさしたのは、アリシアだけではなかった。
「おい、シリル! このままではユーリアが風邪をひく。僕たちは先に戻らせてもらうぞ」
「ッ! …………アリシア、またユーリアに手を出してみろ。次はないからな」
「……ええ、承知しました」
ダリルに呼ばれ、小物のような捨て台詞を吐いたシリル。去って行くその背に中指を立てたいのを我慢し、アリシアは「で?」とナサリーを見上げた。
「試作品の話なんて聞いてないけど?」
「やだ! アリシアったら忘れちゃったの? 私の部屋でやるって言ったじゃない!」
集まっていた生徒達も解散し始め、人通りがなくなっていく廊下。ナサリーはいつもの調子を崩さず、可憐に微笑み「さぁ、行きましょう」とアリシアの襟首を掴んだ。
授業を理由に断ろうにも、今日は生憎、午後からの講義がない。
ナサリーがアリシアの予定を知らないはずがないので、適当に用事をでっちあげる訳にもいかず、アリシアは空の水瓶を抱えたまま、ずるずると部屋まで引きずられていった