濡れネズミ
少し昔の話をしよう。
侯爵家の一人娘として産まれたアリシアは、五歳の時、自分が他の人には見えないナニカを〈視る〉力があることを知った。
例えば廊下の隅。例えば庭先の木陰。例えば母親が寝ているベッドの側。
ナニカは常にゆらゆらと、アリシアの視界で蠢いていた。
ナニカはいろんな姿をしていた。生物図鑑には載っていない奇怪な姿をした生き物の時もあれば、人間と見分けのつかないものもいた。
屋敷で働く人は皆ナニカの上や横、下を平気な顔をして通っていく。
メイドのユリスが、俯き立ったままの農民姿の男の中へ吸い込まれていった時は、思わず叫んでしまった。
農民姿の男は微動だにせず、ユリスは狼狽えながら男の胸元から顔を出した。そこで初めて、男が生きている人間じゃないことを知った。
試しにアリシアも恐る恐るナニカに触れてみると、ナニカはたちまち姿を消してしまう。
「まぁ、アリシアにも同じ力があるのね」
ベッドに座り、クッションに背を預けた母は、両手を合わせ嬉しそうにアリシアへ言った。
「でも、駄目よ。無理矢理祓ってはいけないわ。彼らの言葉をよく聞いて、導いてあげるの」
アリシアの生家であるオルコット家は、王族と血を分けているわけでも、国家へ尽力したわけでもない。それなのに他を差し置いて侯爵としての地位を得ているのは、ひとえに聖典に記された聖女の子孫と言われているからだ。
——天から降り立った聖女は、精霊の力を借り、人々を不治の病から救ってみせた。
それは少々どころではない語弊——脚色がされていて、聖女の力の正体はこのナニカを〈視て〉〈祓う〉力だと母は言った。
「母さんのお母さんは、アリシアの言うナニカのことをマガイと呼んでいたわ」
マガイとは人々の語る恐怖が具現化したものだ。
先祖代々、オルコット家にはこのマガイを〈視て〉〈祓う〉ことの出来る女児が産まれる。
人々の想像力によって生み出されたマガイは、姿は様々だが、決まって人間へ悪影響を及ぼす。マガイの側に居ると病気になったり、精神を病んでしまったり。果てには魂を奪われる。だから祓うのだけれど——。
そこまで説明して、母は困ったように頬に手を当てた。
「マガイという言葉は、遠い島国の言葉で〈偽物〉を意味するらしいわ。でも、彼らだって私達から生み出されたものよ。彼らに耳を傾けて、導いてあげることは出来るはず。アリシアもマガイと呼ばずに彼らのことを——」
そうして母は死んだ。救おうとしたマガイに、憑き殺されて死んだ。
アリシアは思ったのだ。きっと祖母の言うことは正しくて、母の考えはどこまでも甘かったのだと。救おうとして殺されるなんて、アリシアはまっぴらごめんだ。だから片っ端から祓っていこうと決めた。それがどれだけ他人から奇異な行為に見られたとしても——。
(でもこれはちょっと予想外だわ)
アリシアの腕の中には、侯爵令嬢に不似合いな、両手で抱えるのがやっとの大きさの水瓶。
表面には水滴がいくつも筋を作り、つい数秒前まで並々と水が注がれていたのがわかる。
(さて、どうしましょう)
アリシアは思案しながら、目の前の少女に一歩近づいた。濡れネズミの少女に。