春にしては暑い夏の夜に
ダリル・オドゥワンには決して忘れられない夜がある。
それは十歳の時、春にしては暑い夜のことだ。ダリルは宰相である父親の帰りを今か今かと待っていた。エントランスの長椅子に座り、足をぶらぶらと揺らす姿に、メイド長であるサリアが笑みをこぼす。
「坊ちゃま、こんなところに居ては風邪をひきますよ。待つなら談話室に行きましょう」
「今日は暑いくらいだから大丈夫さ! それより父上はまだだろうか」
「ふふ、すぐにお戻りになりますよ。神託も既に告げられているはずです」
サリアの言葉に頷きながら、ダリルはそわそわと体を揺らした。
事の始まりは昼間。家庭教師による午前中の授業も終わり、サリアの用意してくれていた昼食を不器用な手つきで食べていた時のことだ。慌てた様子で王宮から帰ってきた父が、ダリルを抱き上げた。
「やったぞダリル! 神託に選ばれたッ‼」
突然の出来事に、ダリルはフォークを落としてしまう。気にすることなくダリルを持ち上げながらくるくると回る父。慌てて止めに入ったサリアによって、ダリルはようやく地面に下ろされた。
「もう! いったいなんだと言うのですか!」
目尻を吊り上げたサリアが「とりあえずお茶でも飲んで落ち着きなさい!」と父の前に紅茶を置く。父は礼を言うと一気に飲み干した。
「まぁ! なんてはしたない!」
ぷりぷりと怒るサリアを気にも留めず、父はダリルに微笑む。いつもの紳士然とした父の姿はなく、まるで無邪気な子供のようだった。
「ダリル、よく聞け。まだ詳しいことは言えないが、今夜、神父様によって神託が告げられる」
神託。この国を司るオルフェス神のお告げ。
敬虔な信者である父は、何よりも神託を重要視していたが、ここまでの喜びようは初めてだ。一体何が告げられるのだろうか。
普段見ることのない父の姿に、ダリルも段々と嬉しい気持ちになってきた。もしかしたらまた豊穣祭を開催しろというお告げかもしれない。半年前に神託によって開催された豊穣祭は、ダリルの心を掴んで離さない。あの時食べた果汁氷をまた食べられるかもしれない。それはダリルにとってとてつもなく素晴らしいことだった。
「私たちにとってこれほど光栄なことはない。私は今からまた王宮に行かなければいけないが、正式に発表されたら迎えに来るから正装して待っているんだぞ」
「それってつまり!」
側で聞いていたサリアが驚いたように呟く。サリアの言葉に頷いた父は、涙ぐむサリアに「頼んだぞ」と直ぐに出立してしまった。
宰相である父は忙しい。改革派の父のおかげで国に蔓延っている様々な因習が廃止されたが、それでも父は足りないと顔を顰める。そんな父が仕事の合間に態々家に帰ってきたのだ。相当、素晴らしいことに違いない。
食事の途中なのも忘れて、ダリルは「どんなのかな」とサリアを見上げる。
サリアは丸い頬を持ち上げながら「きっと素敵なことですよ」と新しいフォークをダリルに差し出した。
「さぁ、準備をしないといけませんからね。食事を摂ってしまいましょう」
——夕飯の時間を過ぎても父は帰ってこない。
滑らかな膝が出た半ズボンをいじりながらダリルは「まだかなぁ」と隣で一緒に待ってくれたサリアを見上げた。サリアも不安そうに、扉へと視線を向けている。
「もう帰ってきても可笑しくないのですが……。あっ、馬車の音が聞こえますよ!」
サリアの言う通り、ダリルの耳にも車輪の音がハッキリと聞こえた。ダリルは待ちきれず、扉を押し開く。丁度馬車から降りるところだっただろう。父が驚いたようにダリルを見下ろしていた。
「……ダリル」
「父上! 神託は——」
ギュッと父の長躯がダリルを抱きしめる。上等なスーツが汚れるのも構わず、父は膝をつき、ダリルの肩を力いっぱい包み込んだ。
「ちち、うえ?」
家を出る時とは正反対の、憔悴しきった姿にダリルは戸惑う。今から王宮に行くのではないのだろうか。素敵な神託が告げられるのではないのだろうか。
混乱するダリルに、父が震えた声で謝罪した。
「すまない、すまないダリルッ」
父は、一体何に驚き、怯えているのだろうか。
縋るように抱き着く父は謝罪しかしてくれない。ダリルは何も聞けなかった。
「ッ! こんなこと、あっていいはずがない……。あってはいけないんだ」
蒸し暑い春の夜だった。ダリルは結局、自分に関係する神託が何だったのかを知ることはできなかった。後味の悪い思い出。
父の憔悴した姿を見たのはアレが最初で最後だ。その姿をみて、ダリルは自身も宰相になることを決意した。二度と父の謝る姿を見ないように。自分も国を変えようと。そういえばあの後、アリシアとシリルの婚約についての神託が——。
——「ル! ダリル! 聞いてる?」
ハッと意識を戻したダリルに、アリシアが大げさに溜息をつく。
「大丈夫? ちょっと休憩しようか?」
周囲を見渡し、そういえばオルコット邸に来ていたんだとダリルは背筋を伸ばした。
「いや、大丈夫だ。マガイについてもう一度教えてくれ」
そう手元の手記を捲り始めたダリルに、アリシアは追及することなく再び説明を始める。
(そうだ。確かあの後、シリルとアリシアの婚約が発表されたんだった)
ダリルとは全く無関係の神託が告げられ、結局あの夜は何だったのかと聞けず仕舞いだ。
(帰ってきた父はあってはならないことだと言っていたな。それっきり何か言及することはなかったが)
神託が告げられる度に喜んでいた父が、なぜかアリシアの婚約には一切興味を示さなかったのを思い出す。ふと一つの考えが思い浮かんだ。
(……いや、まさかな)
アリシアの婚約者が実は僕だったなんて、そんなことあり得るはずがないか。
何よりも神託を重要視するのがヴィルフェバーデュ国だ。そんな国で神託を偽造するなんて、それこそあってはならないことに違いない。
意気揚々と説明をするアリシアは、手元の本へ熱心に視線を送っている。その黒い瞳が、昼下がりの湖面のようにきらきらと輝いていた。
でも、もし——。ダリルは思う。
もし、あの時、アリシアの婚約者として告げられたのが自身の名前だったなら。
それはたぶん、ダリルにとってこの上ない幸運なことだろう。
互いに〈視え〉てしまうマガイを、手を取り合って克服する。そんなもしもの未来が、とても甘美なものに思えた。
「ダリルぅ? ほんとに聞いてるの?」
「ああ、聞いているよ」
意志の強い瞳に魅入られれるように、ダリルはアリシアを見つめ返す。
ダリルは〈もしも〉を振り払うように、眼鏡を取った。
大丈夫。今はもう〈視えない〉ようにかけた眼鏡も躊躇いなく外すことができる。婚約者じゃなくたって、友人として手を取り合うことも。
ダリルの行動に、アリシアは呆れたように「ねぇ、やっぱり聞いてないでしょ」と腰に手を当てた。そんなアリシアに、ダリルは弾けんばかりの笑みを向ける。
「ああ! もう一度最初からお願いするよ!」
怯えても、手を繋いでくれる友人がいる。忘れられない夜を溶かしてくれる二人の友人が。