一般生徒の青年は、今日も彼女と話したい
星を見るのが好きだった。決して裕福とは言えない家で、兄弟と身を寄せ合い、罅割れたガラス越しに見る星が、何よりも好きだった。
オルフェス学園に特待生枠で入学することが決まり、惜しむ家族と別れて一年が経とうとしている。幼い兄弟と母を残していくのは忍びなく、学園からの申し出を辞退しようとした俺に、母は「オルフェス学園なら最高峰の天文学を学ぶことができるわ」と自分のことのように喜んでくれた。その言葉通り、学園での生活は充実し、新たな発見の連続だ。
(あ、まただ……)
望遠鏡の中で、黒髪が光る。
貴族たちとは違い、庶民出身の特待生は四人で一部屋を使っている。両壁に二段ベッドが配置されていて、俺は必死に頼み込んで窓際の下段をゲットした。学園支給の望遠鏡で、毎晩星を観察するためだ。
夏間近とは言え、夜はまだ肌寒い。前に窓を開けて観察していたら、同居人たちから苦情が絶えなかったので、仕方なく今では窓ガラス越しに観察している。
望遠鏡から窓を通して星を見る。当たり前だが、まともに観測することは出来ない。それでも続けるのは、時たま彼女が現れるからだ。
闇夜と同じ色なのに、同化することなく輝く長い髪。ぼんやりと浮かび上がる白い肌のせいで、まるでこの世の者ではないように感じる。
外出時間のとっくに過ぎた、寮から出てはいけない時間。それでも彼女は気にせず、むしろ昼間よりも生き生きと歩き回っている。
——アリシア・オルコット。学園一の変わり者。
そんな彼女に、僕は恋をしているんだと思う。
彼女と会話したのは一度きり。入学して半年ほど経った、まだ冬が終わりを告げない二月半ば。あまりの寒さに体調を崩す生徒が後を絶えず、貴族様たちよりも寒さに慣れている一般生徒さえ倒れ始めた最中だった。
「大丈夫か?」
「……これが大丈夫に見えるかよ」
ゴホゴホと痰の混じった重い咳を溢しながら、同室者が睨みつける。上段に登る梯子に足を掛けながら、僕はベッドの中を覗き込み肩を竦めた。
「大丈夫じゃなさそう」
「分かってるなら食堂から何か貰ってきてくれ……」
貴族の生徒にも食って掛かるような勝気な同室が項垂れている。珍しい光景だ。
「何か消化のいいもの貰ってくるよ」
同室の額から乾ききったタオルを取り、急いで部屋を後にする。
貴族様御用達のレストランの他に、僕たち一般生徒には技術棟に食堂が用意されている。
一般生徒もレストランを使用できるが、僕らが行くことは滅多にない。
あそこは地獄だ。
テーブルマナーなんて腹の足しにならない事、僕ら一般生徒が知っているはずもなく、レストランで食事すると決まって馬鹿にしたような視線と囁きを受ける。
入学したての頃はそんなこと知りもせず、嬉々として利用してしまった。今でも苦い思い出だ。そんなことがあってから、僕も同室者たちもレストランには足を運んでいない。
食堂でも十分美味しい食事が出来るので不満はないのだが——。
(でも、寮から技術棟は遠いんだよなぁ……)
技術棟へ向かう外廊下を、凍っているから慎重に、それでも急ぎ足で渡る。足元にばかり視線を向けていた僕の前にふと影がかかった。
(やばい! ぶつかる!)
慌てて顔を上げたが、ずるりと体が傾く。あれだけ慎重に歩いていたのに、タイミング悪く凍った地面に足を取られた。
固く目を瞑り、全身を襲う痛みに身構える。でも痛みは来なくて……。
「大丈夫?」
つい数分前に同室へかけた言葉が、僕にかけられる。凛と澄み切った声は冬空によく似あっていた。じんわりとした熱が制服越しに伝わってくる。
恐る恐る目を開ければ、夜空のような黒い瞳と視線が絡まった。
どうやら僕は彼女に助けられたらしい。僕の身体を支えるように、彼女の腕が僕の背に回っている。密着する体。近い顔。頬を刺す風は痛い程冷たいのに、互いの息は頬が色づく程熱かった。
彼女の長く繊細な睫毛が、白い頬に影を作っている。大きな瞳も、筋の通った綺麗な鼻も、血の気の少ない薄ピンクの唇も。何もかも初めて間近で見るものだった。
(綺麗だ……)
幼馴染の少女とは違う、日焼けを一度もしたことがない、陶磁器のような肌を眺めながら、僕はただ見惚れていた。つっと彼女の視線が、再度僕に向けられる。
「そろそろ、自分で立ってほしいんだけど」
「うぇっ⁉ あ、ご、ごめんッ‼」
ブルブルと震えだした彼女の腕に、僕は慌ててしっかりと足を地面につけた。熱が、離れていく。名残惜しさを感じながら、僕は改めて彼女の全身をみた。サッと顔が青ざめていく。
黒いカーディガンの下から、白地のセーラー服が見えていて。僕たちとは違う色の制服。貴族出身の生徒だ。少し考えれば、こんな綺麗な子が一般生徒のはずないことに気づいたはずなのに、貴族の生徒が僕を助けるはずがないと思い込んでいたせいで、反応が遅れた。
ああ、どうしよう。罵倒か、蔑みか。
貴族生徒と一般生徒の確執は深い。貴族出身は庶民出の一般生徒を堂々と馬鹿にするし、一般生徒は貴族を毛嫌いしている。だから互いに関わることがないよう気をつけているのに——。
(なんでこんなことに……)
涙目で、脳内の同室へ文句を並べていれば、彼女は「無事ならいいわ」と僕の隣を通り過ぎてしまった。あまりにあっさりとした態度に僕は思わず呼び止めてしまう。
「……なに?」
振り向いた彼女の長い黒髪が、ゆるく弧を描いた。
(本当に綺麗な子だな)
この国ではあまり見ない色彩だけど、それが彼女の独特な雰囲気を引き立てている。
呼び止めておいて何も言葉を発しない僕に、彼女は怪訝な表情をしながら首を傾げた。
(お礼だけは言わないと!)
「あ、あの、助けてくれてありがとう」
情けない……。しどろもどろになりながら何とか告げた言葉は、少し震えていた。段々と視線が俯いてくる。同室のように、ハッキリとモノが言える性格だったら、ついでに彼女に名前を聞いて、後日お礼をすることだって出来るのだろう。
名前も知らない彼女との縁を、これで終わりにしたくないと思いながら、続く言葉は見つからなかった。
(もう行っちゃったかな……)
何も言葉は返ってこない。僕は溜息をつき、ゆっくりと顔を上げ——また黒い瞳と視線が絡まった。
「おわっ⁉」
驚き数歩下がる。石造りの壁に背中が触れた。彼女は僕が下がた分、距離を詰めてくる。
心音が嫌な音を立てはじめ、顔が熱が集まる。
トンっと彼女の左手が、僕を囲うように壁に添えられる。
カーディガン越しにでもわかる彼女の豊満な胸が、僕の胸板に押し付けられたところで「こういうことはお付き合いしてからッ‼」と思わず叫んだ。
ダァァアアンッッ‼
「へっ?」
僕の顔面すれすれに、壁へと突き出された右手。掠ったのか左耳がジンジンと痛み始める。シュウウと壁から鳴る筈のない音が聞こえた気がした。彼女を見下ろせば、そこには氷の女王に引けを取らない、絶対零度の視線で壁を睨みつける彼女がいた。
「え、あ、え……」
(今、僕は何をされているんだ……)
フリーズ状態に移行する僕を尻目に、彼女は用は済んだとでも言いたげに、あっさり体を離す。そして説明することなく、歩き始めてしまった。
(だ、駄目だ! このままじゃ!)
あれだけ綺麗な子だ。四桁にも上る生徒数を誇るこの学園でも、見つけることは簡単だろう。でも、それでも僕は——。
「な、名前は!」
彼女が立ち止まる。
ああ、彼女は一般生徒が相手なのに無視はしないんだな、なんてどうでもいいことが頭に浮かぶ。どうしても自分で聞きたかった。彼女のことを一つでもいいから、知りたかった。
「名前は、なんですか」
彼女は応えない。思案するように体を揺らした彼女は、やがて首を振り歩き出した。
「知らないほうがいいわ」
それだけ残して。
僕は彼女のいなくなった廊下を、ぼうっとただ眺めた。なかなか帰ってこない僕を心配して、もう一人の同室者が探しに来てくれるまでずっと、ただ見つめていた。
——「へぇ、で、お前も風邪を引いたと」
雪も解け、春の草木が元気よく顔を出し始めた三月。
僕と同室は他愛のない会話をしながら、次の講義へと向かっていた。
次は特別棟の最上階だ。この学園に入学する決め手となった天文学の講義。遅れるわけにはいかない。少し早足になりながら廊下を歩く僕と対照的に、同室者は長い脚でのんびりと闊歩する。……相変わらず体格が良くて羨ましい。
嫉妬の視線を向ける僕を意にも介さず、同室者は考え込むように「にしても、黒髪黒目ねぇ」と顎を摩った。
「まさか、アイツじゃないよな……」
「知ってるのかッ⁉」
思わず飛びつくように身を寄せた僕に、同室者は引き気味に距離を取る。そして「黒髪の綺麗な女なんてアイツしかいないけど、でも、アイツはなぁ」と憐れんだような視線で僕を見下ろした。
「今のうち言っとく。やめとけ、諦めろ」
諭すように僕の肩に両手を置いた同室者は「あの権力重視の貴族たちでさえ距離を置くようなヤバい女だぞ」と耳打ちしてくる。
確かに彼女は不思議な雰囲気だったが、そこまで警戒されるほど危険な子ではないと思う。真冬の邂逅を想起し「それでも知りたいんだ」と同室を見つめた。
同室者はグッと言葉に詰まったように喉を鳴らすと、逡巡した後、諦めたように溜息をついた。
「まぁ、お前も変わってるしな」
「……僕は結構マトモだと思うけど」
「毎日、馬鹿みたいに星ばかり眺めてるヤツのどこがマトモなんだよ」
コツンと頭を小突かれ、体が揺れる。摩りながら睨みつける僕を一笑し、同室者は「その女はたぶん——」と待ち望んだ言葉をくれようとした。その瞬間、前方、天文学室から出てくる人影に、廊下が騒めき始める。
「アレって」「第二王子の」「騎士姫様だわ!」「暴れて手が付けられないって」「家からも見放されて」「王子も婚約解消をしようと」「怖いわ」「目を合わせたら殴られるわよ」「なんであんな子が騎士姫様と」
洪水のように言葉が渦を巻く。その大半が出てきた人物へ向けての畏怖や嘲笑で、不快感から思わず顔を顰めた。本当に貴族は意地が悪い。
そんな僕の様子に、同室者は心配げに眉を寄せ、前方を指さした。
「お前が言ってるのはあの女じゃないか?」
つっと促された先を見れば、確かにあの日であった彼女が歩いていた。天文学の講義だったのだろうか。星座の由来がまとめられた分厚い指定教科書と、巻かれた羊皮紙を抱えている。険しい表情の彼女は、廊下にいる全員から視線を向けられながらも、ピンッと曲がることない背筋で歩みを進めた。
「アイツはアリシア・オルコット。第二王子の婚約者だ」
「こんやっ⁉ そんな……」
婚約者がいたなんて。しかも第二王子。庶民の僕には勝ち目なんかあるわけがない。肩を落とす僕に「やめろって言ったのはそれが理由じゃねぇよ」と同室者は彼——アリシアを睨みつける。
「アイツ、貴族も庶民も関係なく喧嘩を売って回っているらしい。殴られたり、罵声を浴びせられた生徒は少なくないって噂だ」
(そんな……)
確かに、彼女と初めて会ったとき、壁を思い切り殴っていた。けど、それは僕を脅すためというよりは、他に何か、理由があるような——。
「そんな女だから婚約者からも嫌われているらしい。まぁ、自業自得だよな」
同室者はアリシアのことを良く思っていないようだ。そんな噂があれば当然か。僕も噂を知っていたらああして彼女に関わろうとしなかっただろう。
(ああ、そうか……)
彼女が名前を教えてくれなかったのは、自分の名前があまりにも悪評にまみれていたからなのかもしれない。その名前を聞けば、すぐに態度を変える人間も少なくないだろう。
視線や囁きを受けつつ、彼女は去って行く。
なぜだか僕はその背を見ていたら、今すぐ駆け寄って「あの時はありがとう」とお礼を言いたくなった。そうすれば彼女の勘違いも少しは軽くなるんじゃないか。
あの強張った表情が、春の雪解けのように柔らかくなったら、僕は嬉しいのだ。
(この気持ちはたぶん)
罅の入ったガラス窓。いくら拭いても、塗装されていない道から巻き上がる砂ですぐに曇ってしまう。それでも、隣で眠る弟のいびきが煩くても、母が寝言で僕たちに謝っていても、僕は一心に空を見つめていた。
空を見上げていれば、僕は何も考えずに済んだ。空腹も、寒さも、手の痛みも。何もかも。
だから星を知りたかった。僕を救い上げる星が、いったい何なのか。どうして、そうあるのか。何も言わずにただ輝くのか。
「あっ、おい!」
彼女に向かって走り出した僕を慌てて止めようと同室者が声を上げる。
ただ一言。彼女にお礼を言うだけ。早鐘を打つ心臓を、服の上からギュッと握りしめながら僕はアリシアの背を目指す。怪訝そうな顔で周囲が僕を振り返る。いつもなら貴族たちの視線に体を竦ませるのに、何もかもどうでもよくて。こんな開放的な気分は、学園に来て初めてだった。
もうすぐ彼女に追いつく。
「あのッ!」
上擦った声。乱れた息と一緒に吐き出された掠れ声は、静かだが重みのある声に遮られてしまった。
「アリシア、急ぎましょう。次の授業に遅れるわ」
そっと彼女の腰に手を回した長身の女。
「……ナサリ―。もう話はいいの?」
「ええ、アリシアのほうが大事だから」
アリシアは僕の声に気づかず、促されるまま足を速める。思わず固まった僕へ視線をむけたのはナサリーと呼ばれた少女だった。冷え切った視線。そこで僕は彼女がワザと僕を遮ったのだと気づいた。
ナサリーと視線が僕を射抜く。嘲るよう上がった口角に、僕の足は自然と止まった。
「おい! 急に走り出すなよ!」
追いかけてきてくれた同室者が、腹いせに僕の背を思い切り叩く。だけど痛みなんて感じなくて、無反応な僕を怪訝に思った同室者がアリシア達を盗み見て「ああ」と納得したような声を出した。
「騎士姫様か。残念だったな」
「騎士姫様?」
「オルフェス商会の娘。アイツとは親戚で、いつも騎士のように側で世話焼いてるから騎士姫って呼ばれてんだよ」
「いつも一緒に……」
じゃあ僕に会ったときは偶然側に居なかったのか。視線の鋭さを思い出し、身震いする僕に「つーかお前意外と行動力あんのな」と同室者は笑った。
「応援はできねぇけど見直したぜ」
「……協力はしてくれないんだね」
「庶民と貴族の恋なんて、物語の中だけだ。アイツはアレでも王子の婚約者だしな。……ほら、行くぞ。お待ちかねの講義に遅れる」
無理矢理教室へ放り込まれる。彼女の背はとっくに見えなくなっていたのに、僕は名残惜しむように席に着いてからも廊下へ視線を向けた。
彼女の名前はアリシア・オルコット。
第二王子の婚約者で、悪評が絶えない変人で、騎士姫様に守られている女の子。
そして、僕の初恋の人だ。