酷く穏やかな記憶の断片
ライはアリシアにダリルのことを任せ、目的の部屋へ迷うことなく足を進める。意図したようにアリシアの部屋とは真逆の位置にある寝室。ダークブラウンのダッチドアを押し開けば、埃っぽい空気が鼻を刺激した。
「やっぱ掃除してねぇよな」
ライは文句を溢し、まっすぐフランス窓を開け放った。窓の外はバルコニーになっているが、見えるのは森ばかりで、そこに綺麗な庭園は一つもない。
日に焼けクリーム色になってしまったカーテンが、心地よい夏の風に揺れた。
土汚れのついた手摺に腰かけ、部屋を眺めれば、昔の記憶が蘇る。
今はお情け程度にかけられた埃避けの布の下、天蓋のベッドの上で彼女が静かに本を捲っていた。ライはいつも手持ち無沙汰に面白みのない景色を見つめる。
——「ライ、これ見て。隣の国には海と呼ばれる大きな湖があるらしいわ」
——「馬鹿か。海は湖じゃねぇ」
——「そうなの? いつか見てみたいわ」
日に照らされて輝く金色の髪が、何よりも眩しくて愛おしかった。みえる世界全てが美しいと語り掛けてくる瞳が、ライをいつも救い上げた。
少女が女性になり、ライに娘を頼むまで。ライはずっと彼女の側に在り続け、今もなお、安っぽい口約束を守り続けている。
「お前が呆気なく死んだせいで、お嬢は迷子のままだ。俺に頼むくらい大切なら化けてでも出て来いよ」
——「ライ、私も死んだら、あなたみたいになるのかしら?」
いつの日か、頬を紅潮させながら言われた言葉。
「なるかもな」と適当に返事をしたライに対し、彼女は「それは素敵ね」と両手を合わせた。
「それならずっとライと一緒に居れるもの!」
「……俺とそんなにいたいのかよ」
「当たり前でしょ! だってライは私の——」
「勝手にいなくなんなよ、ジゼル」
酷く穏やかな声に乗せられて呟かれた名前は、誰にも届くことなく、じんわりと部屋の空気に溶けて行った。