ラストチャンス
アリシア・オルコットにとって、目に〈視える〉ものは全て恐ろしかった。
肺が酷く痛み、呼吸もままならない。はぁはぁと酷く耳障りな、淑女であれと教えられてきた自分から吐き出されているとは思えない音だけが、静かな廊下に響いている。
ああ、なんでこんなことに。
皴一つない制服のスカートが翻るのも、編み込んでもらったばかりの髪が乱れていくのも、何もかも煩わしい。だけど走ることはやめられない。やめた瞬間、アリシアはきっと自分自身を許せなくなってしまう。
全ては忌々しい母親のせいだ。お人よしで、自分のことは二の次で、他人ばかりを気遣う、アリシアを置いて遠くへ行ってしまった母親の——「アリシア、貴方もその力で誰かを救ってね」——ああ! 本当に忌々しい。
一掬い程しかない交わした言葉の数々が、脳内で騒ぎ立てる。
わかっている。こんなの八つ当たりだ。
力の及ばない自分が惨めで、情けなくて、でも認めたくないだけだ。
本当は赤の他人のことなんて放って、自分を見てほしかった。
〈視え〉ないようにその温かい手で、そっと目隠しをしてほしかった。
怖いものなんてないって教えてほしかった。
「っ、あ!」
ドシャッ。冷たいタイルの床に崩れ落ちる。ジンと足首が熱を持ち始めた。
全身から汗が吹き出し、俯いた顎先を伝って継ぎ目のない白いタイルに零れ落ちていく。霞んで不安定な視界でも、体を支えた両腕が酷く震えているのがわかった。
吐く息が、冷たい。
ゆっくりと振り向いた先。細く長い、憎らしいくらい均整の取れた廊下の真ん中で、ソレはゆらゆらと揺れていた。墨で塗りつぶしたような、背の高い人影。
まだ昼間のはずなのに、とっぷりと沈み込んだ夕日が、最後の抵抗のようにガラス窓から廊下へ差し込む。影はそんな光を煩わしそうに、小刻みに左右へ体をくねらせた。
これは非日常であり、日常だ。
アリシアにとって、当たり前に隣にある景色。でも、普通の人間には理解できない世界。
聖女の力なんて嘘ばっかりの、ただ見たくないものばかりが〈視える〉この目が、憎らしかった。
影はアリシアが動かないことをいいことに、牛の歩みで近づいてくる。嘲笑うような行為に、アリシアはグッと唇をかんだ。
立て。立つの! こんなところで終わってたまるものか‼
震える体に鞭を打ち、全身に力を込めたところで、嗅ぎなれた陽だまりのような匂いがアリシアを包み込んだ。
ジンッと目の奥が痺れる。
「アリシア、もう少しだ! 走れッ!」
見上げれば、赤い、釣りあがった猫目と視線が絡まる。普段の飄々とした雰囲気はなりを潜め、今はただ焦燥だけが瞳に映りこんでいた。
勢いよく体を持ち上げられ、蹈鞴を踏んでその長躯に倒れ込んでしまう。
アリシアを支える体は酷く熱かった。両肩を包み込む掌。抱え込むように支えているせいで、彼の波打った黒髪がアリシアの頬を擽る。
「走れるか?」
「……っ! うん‼」
「上出来だ」
アリシアの答えに、彼——ライはニッと口角を上げ走り出した。アリシアの身体が、まるで今まで水中にいたかのように、軽やかに動き出す。するりと繋がった掌が、アリシアの顔を自然と上向かせた。
少し前を走るライの横顔は、こんな時でも相変わらず、何を考えているかよく分からない。でもその視線の先が、常にアリシアにとっての最良を見つめていることだけは知っていた。
ほら今も——。
「アリシア! ライ! こっちだッ‼」
数メートル先。均等に並べられた扉の一つから、ひょっこりと緑色の頭が覗く。眼鏡では隠しきれない怯えが彼の瞳に膜を張っているのに、決して顔を背けることはしない。
ダリルの勇気が、またアリシアの足を強く踏み出させる。
伸ばされたダリルの腕に縋りつくように、繋いでいないほうの手をアリシアは伸ばした。
ライと一緒に教室へと転がりこむ。
素早く扉を閉め、聖典の一節を唱えたダリルの額には大量の汗が噴き出ていた。
ドンッ、ドンッ。ドンドンドンドンッ‼
扉の小窓に影が映り、こじ開けようとするようにガタガタと扉が揺れる。引掻く音や、叩く音、揺する音に混じって、形容しがたい影の声が漏れ聞こえてきた。
そんな状況の中で、ダリルはそっと安堵の息を溢す。
「とりあえず簡易的な結界を張った。僕の実力じゃ持って五分だろう」
顎先で切り揃えられた緑の髪を耳にかけ、ダリルは「で、どうする?」とアリシアへ問いかけた。何か策があるんだろう? と雄弁にその瞳が語りかけてくる。
正直な話、アリシアに考えなんてなかった。
いつも何も考えず、ただ殴って解決してきたアリシアにとって、こんなイレギュラーな事態、対処しきれるものではない。縋るようにライを見上げるも、ライはただ肩を竦めるだけで、アリシアに助言をくれる様子はなかった。
アリシアは何か良い考えがないかと室内を見回す。その視線がある一点で止まる。
ここって、例の——。
「ライ、ダリル。協力してくれる?」
いつもの不敵な笑みを浮かべたアリシアに、ライもダリルも何も聞き返すことはない。
ただ信じて頷いた。
「それじゃあ、ちゃっちゃと祓って戻りましょう。ミスロンドの特製クロックムッシュを食べ逃す前にね」
そうしてアリシアは髑髏の並んだガラスケースに手を伸ばした。