【3手目】ノー・データ
振田みのる 3手目:▲6八飛
――はらはら、桜散る。
たったそれだけの自然の営為に、ヒトは古来より何らかを見出し、気の向くままに、至極勝手に弄んできた……と言うのは、やや嫌味が過ぎるか。
しかしそれが……桜ごときが、今朝はなんだか、本当になんだか……意味ありげに映るのはなぜだろう。ゼロに等しい花びらの質量が、1キロにも、1トンにも、無限に増幅されていく。そんな鈍痛が、胸の奥でくすぶっている。
桜は音もなく落ちるというのに、まるで何かが、がらがらと音を立てて崩れ去っていくような――
「……のる、みのる」
「ふぁっ」
「お前の番だぞ。早く、取りに来なさい」
昨年度末に行われた模試の成績表だった。
「ん……要らないんで、捨てちゃっていいっすよぉ」
「あのなぁ……みのるが成績いいのはみんな分かってるけど、模試だって、タダじゃないんだぞ。ちゃんと確認して、次に活かしなさい」
「うっせぇなー。いーじゃん、国語以外、満点なんだから」
「……」
さわさわ、笑い声。
新学期だからか、皆まだ緊張しているらしい。もっと、どっと笑ってもいいところなのに。
それに先生も、みんなの前で「成績良い」とか、なんだかなぁ。
つまんない。
「……はぁ」
すこん、軽い音。
半ば諦めたようなため息とともに、一枚、やや厚めの紙を教卓の中に放り込むのを横目で観測した。
また、はらり桜散る。
ざわざわ、私の席に群がるお利口さんたち――もとい、有象無象。
がらり、椅子を引く音、音。
(ねーねー、振田さん、数学の勉強法教えて……!?)
(みのるん凄いよ。日本史も世界史もどっちも満点とか、信じられない……)
「……」
はらり桜散る。
淡い初恋がここで散る。
がらり、シャッターが閉まる音。
(うう……俺らにはまるで興味を示さず、頬杖をつき窓の外を眺めるあの儚げな横顔、たまんねぇ……)
(な、なぁ。俺、今回の国語、お前より高かったぜ! だから、つ、付き合ってくれよ! 前約束したよな!?)
「……チッ」
モブは黙ってろ。あたしは今考え事で忙しいんだ。そんぐらい解れよ。
**********
ぐるぐる、思考が行ったり来たり。
こんなに難しい問題は久しぶりだ。
模試の結果はどうでもいい。もはや抽象代数学まで習得した私にとっては、授業の内容もどうでもいい。わからないのは、せいぜいABC予想くらいだと思っていた――いや、ABC予想がわからないんじゃなくて、その最新の証明がまだよく掴めないんだが。
穴熊堅太郎――。
「――くそっ!!」
両の拳でばーんと机を叩いたので、前の方の席の数人がこちらを振り返った。
(ギリギリギリギリ……)
気付けば、歯ぎしりまでしている。そんなに悔しいのか、振田みのる?
(あたしが――)
あたしがこれまで学んだすべては、何だったというんだ?
あの一瞬、あの一言で、すべてが灰燼と化すほど、虚しい努力だったというのか。
これだけやって、まだ何が足りないんだ?
ABC予想の証明により、世界の解像度は一気に上がるという。もしかすると、もう一歩なのかもしれないな。ABC予想の向こうにある宇宙の彼方に、あるいは遠い過去のどこかに。次元を超越した世界の片隅に、その「真理」が眠っているのかもしれない……。
……ンな訳あるか!
穴熊ごとき、穴熊堅太郎ごときの心の中が、そんな超次元的な真理とやらで説明されるわけないだろ!
ただの将棋オタクをッ、この振田みのるがッ、解らないッ、だとッ!
(――あンの、野郎……)
入学してすぐに告白されるってだけでも、すごいことだってのを、あいつは……。
居ても立ってもいられない。今すぐにでもあいつをひっぱたいてやりたい。でもあたしのポリシーに反するので、やらない。
「……はぁ」
結局、何がいけないんだろう。
穴熊堅太郎にとって、あたしは――さっきあたしに何かを問おうとしていた女と、何も変わらないのか。あたしは、何の魅力もない女だったのかな。
いいさ。
あいつが学校にいる限り、あたしには行動の余地がある。
鳴かぬなら許さないぞホトトギス。
あたしは投げないと誓った。どんな手段を使っても、あいつを振り向かせてやる。面と向かってハッキリ言ってやる、あたしは負けず嫌いなんだと。あいつの守勢が途切れるその時まで、あたしは攻め続けてやる。
「みのるん、次、体育だよ」
そうと決まれば、行動開始だ。やることは決まっている。
(あたしは知ってる)
調べは済んでいる。彼は今「魔窟」で奮戦していることを、あたしは知っている。
そして――あたしの予想が正しければ。
(間違いなく、あいつは来る。間違いなく)
あたしの棲みか、振亜那高校将棋部に。
「ねぇ、そろそろ着替えないと……みのるん?」
「よし……さっさと焼いて喰ってやる……姿焼きだ」
「はぁ?」
投了しないコラム:穴熊とは?①
将棋の囲いの一つ。最も頑丈な囲いであり、かつ最も脱出が難しい囲いともいえよう。香車をひとつ上げてできた空間に玉を入城させ、銀でフタをし、金で壁を作る。居飛車のものと振り飛車のものがありどちらも有力。組むのには手数を要するが、組み上がれば反発覚悟の過激な攻めも敢行できてしまう。ちなみに、穴熊を組むのに手数を掛け過ぎて攻撃陣がボロボロになってしまい、穴熊だけが残った状態を「姿焼き」という。




