或る日のことでございます
2022年 妻の転勤先へ荷物を運んだ時のお話
或る日のことでございます。
いつものモーニングを食べ終えると、私は妻の転勤先へと妻の仕事道具を運んでおりました。何故私が? いえいえ、良き夫というものはそんな疑問を持ってはいけません。とにかく、妻が職場で片付けをする間の2時間ほど、私は車の中で待機することになったのでございます。
じわりじわりと差し込む日の光を避けながら、私は本を読んで待ちました。本を読むなんて一体どれくらいぶりでしょう。今読んでいるものも、一体いつ購入したのか忘れてしまう程昔の本なのでございます。万が一、今日この時間に読みきれなかったならば、おそらく続きを読む機会は1年は来ないに違いありません。なんとしてもこの時間内に読みきらねば。そんな無謀な戦いを私が挑んでいた時の事でございます。
唐突に、まさに唐突に私は厠へ向かいたくなったのであります。
考えてみればそれは至極当然のことでございました。食べるものを食べれば出るものが出るのは必定、自然の成り行き、世の理と申せましょう。
周りを見回せばそこは閑静な住宅街。その時点で私に取れる行動は3つに絞られたのでございます。
一つ目は、妻の職場に乗り込み厠を借りるというものでございます。しかしながら妻の職場というものはこれがなかなか複雑で、基本的には立ち入り禁止となっております。
二つ目は、民家に乗り込み厠を借りるというものでございます。しかしながら私には少々ハードルが高うございました。なにしろ「大」です。コロナウイルスの危険が叫ばれる中、見知らぬ男がやってきて「大」をしていく。断られることはないでしょうが、一生の内にやりたくないことリスト筆頭に挙げられる事柄でございましょう。臭いなんか残ったら最悪でございます。ましてや詰まったりしたら目も当てられません。
三つ目はコンビニを探して駆け込むことでございます。しかしながら田舎の住宅街、車を走らせなければコンビニはありますまい。
困った私はとりあえず車を出たのでございます。妻の同僚が胡散臭い薬売りでも見るような目で私を見てきましたが、そこは吹けない口笛でも吹いてやり過ごします。そうして少し歩くとそこには大きな公園があったのでございます。やれ助かった、公園ならば厠が有るはずです。この際便器が糞尿まみれだったとしても耐え忍びましょう。下着の中が糞尿まみれになるより遥かにマシです。そんなことになってしまったら私の尊厳まで糞尿まみれです。
厠の中は思ったより清潔に保たれて居りました。個室に入ると壁には一枚の紙が貼り付けてあります。
「水が出にくいのでグッと押し込んでください」
これはいったい何の前振りなのでしょうか。一度水を流すべきか迷いましたが、その時の私には確固たる自信があったのでございます。と、申し上げるのも、便が大きいことにかけては右に出るものがなく、外でするとだいたい詰まる私ですが、ここ最近ときたら「人並サイズ」の便しか出していなかったのでございます。流れないわけがない、そんな過信があったとしても致し方ないことでございましょう。
静かに静かに私は用を足した後、いよいよボタンを押し込みました。
ちょろっ
えっ?
それはあまりにも奥ゆかしく、流れるというよりは零したという程度の水、わずかお猪口1杯程度の水が出るばかりでした。一体どういうことでしょう。初めてエスプレッソを飲んだ時、あまりに小さいカップに詐欺だと感じた、まさにそれと同じ気持ちが、私の心を占めたとしても致し方ないことでございましょう。これでは「小」だったとしても流れるはずもありません。私には壁の貼り紙をもう一度見つめるより他に出来ることはありませんでした。
「水が出にくいのでグッと押し込んでください」
或いは私は知らず/\の内に、自分の中に限界を作り出してしまったのでしょうか。もうここまで! と自分で自分を諦めてしまったのでしょうか。今こそ私の中の殻を打ち破る時が来たようです。私はボタンをグッと押すと、さらにそこから力の限りボタンを押し込みました。
ジャバッ、ンゴォオ
そうでなくてはいけません。汚水が便器一杯に逆流してきました。全く流れる様子がないではありませんか。便器に溜った汚水を前に私は途方にくれたのでございます。そんなはずはありません。私は確かに限界を超えました。自分の殻を破った手ごたえが確かにあったのでございます。なぜ……そんなことは今言っても栓無き事、ただ目の前にあるのは便器一杯の汚水のみ。
このまま逃走するべきか。
ああ、なんとさもしき事でございましょう、その時確かに私の心にはそのような考えが浮かんだのでございます。ふう、と深呼吸を一息、ぐるりと周りを見回せばそこにはなんとラバーカップ(注釈:スッポン)があるではありませんか。数々の厠を攻略し、厠戸皇子とも呼ばれる私ですが、公共の厠でラバーカップが置かれているのは初めて見たのでございます。これはまさに神仏の助け、私は迷わずラバーカップを手に取り便器と相対したのでございます。
ガボッ、ガボッ
私はラバーカップを振るいながら、再度壁の張り紙を読み直しました。
「水が出にくいのでグッと押し込んでください」
押し込むというのは或いは水のボタンではなくラバーカップのことだったのでしょうか。
ガボッ、ガボッ
ラバーカップというものは、配管に詰まった糞尿を吸引し、詰まった部分を引き出すことにより通水させるための道具でございます。然るに引けども引けども詰まりは取れてこず、押し込んだときに僅かに水が流れてゆくのみでございました。といいますか、思えば水はボタンを押した最初から微塵も流れなかったのでございます。つまり詰まりの原因は私の便ではなく、そう、ここが重要な点なのですが私の便ではなく、もっと以前からのナニカだったのでございましょう。
私の無罪が確定した瞬間でございます。
しかしながら今の状態を放置するわけにも行かず、私はその後も30分ほどラバーカップを振るい続けたのでございます。ラバーカップを引けども詰まりは取れず、押し込んでも流れるのは水分ばかりという始末。この便器は元々そういう仕様の便器だったに違いありません、私は自分にそう言い聞かせると、ついに諦めることにしたのでございます。
ああ、この無力感を何と言い表せばよいのでございましょう。私は確かに自分の殻を破ったのでございます。然るにその先にも殻があった。まるでマトリョーシカの中にでもいるかのような気分でございました。
壁の貼り紙を見ると地方自治体の名が書かれておりました。公園の管理者は自治体なのでしょう。では休日のこの日に連絡を入れた方が良いのでしょうか。宿直の方に「公園のトイレを詰まらせました」と懺悔して何になるのでしょうか。その前に定時清掃の者がやって来るのではないでしょうか。そもそも電話番号が書いてありません。
私はそっと厠を後にし、何食わぬ顔で日常の中に戻ったのでございます。
これが私が体験した或る日の出来事でございます。