私は悪妻でした。
「限界だ、リリアンナ、、、」
首を絞められ、薄れゆく意識の中、ジルベールの瞳から流れた涙が頬に降り注ぐ。
それはキラキラと瞬いて、まるで天使の祝福のようだと思った。
* * *
眩しい――
瞼に光を感じながら柔らかな温もりを感じる。
「神様は慈悲を下さったのね」
首を絞められたはずが、喉に違和感もなく声も出るし痛みもない。
「どんな夢を見たんです?」
「あら、懐かしいエマの声がするわ。ここは天国かしら」
「ベッドから落ちて頭でも打ちました?」
「いえ、ちょっと首を絞められて」
「なんですって!? 誰にです!?」
「ジルベールに」
「なんてこと!! 旦那様アァァ!! 奥様アァァ!! 大変ですぅーー!! お嬢様がーーーー!!」
微睡みから醒めて、リリアンナは目を開いた。
見えたのは懐かしい実家のベッドの天蓋で、レースのカーテンが小さく揺れていた。
「私……生きている?」
思わず首をさすってみたけれど、やはり痛みは感じない。痣にはなっているかも知れないけれど痛みがないのであれば病院には行かずに済むだろう。
良かった。
生きているということはジルベールを人殺しにしなくて済んだということ。それならば、リリアンナさえ騒がなければ大ごとにはならないだろう。
ジルベールの醜聞になるようなことは絶対に避けなければ。
リリアンナがジルベール・グレンジャーと結婚して18年が経っていた。
次期侯爵であるジルベールを支えるべく自分にも周りにも厳しく過ごしてきたけれど、いつしかそれが彼を追い詰めてしまっていたらしい。
ジルベールには貴婦人の真似事などしなくていいと何度も言われたが、それは無理な相談だった。
弱小子爵家の次女という微妙な存在だったリリアンナが、美貌と才能で人を惹きつけて止まないジルベールと釣り合うためには、侯爵夫人としての責務ーー嫡男を立派に育て、侯爵家を盛り上げていかなくてはならなかった。子育ても社交も、女主人として手を抜くことなど出来なかった。厳しく息子のイアンに接するのは辛かったが、それも仕方のないこと。そう思っていたけれど。
徐々に笑顔が減り、勇気を振り絞ってようやく口にした言葉はすれ違い、触れ合うどころか顔を合わせることも無くなっていった。
心から愛していたのに、そんな気持ちすら思い出せなくなってーーーー
ジルベールの、日に透けると橙色になる髪が綺麗で。
夕日みたいでとても好きだった。
意識を奪われていく中、目の前にある薄茶色の髪が朝日を浴びて橙色に煌めいてーーそうして漸く思い出したのだ――ジルベールを愛していたことを。
包まれると幸せを感じずにはいられない、あの胸に抱かれることはなくなったけれど。
それでも確かに愛していた。
最期に思い出せて、嬉しかった。
冷え切った結婚生活に耐えられなくなったジルベールは外泊が増えていて……それも当然だった。
独りきりの味のしない食事をしていたら、全寮制の王立学園へ入学してしまったイアンの不在を嫌というほど思い知るから。
イアンが居ることによる使用人の声や騒めきが、どれほど心を安定させていたか。
それはきっとジルベールも同じだったはず。
むしろ仕事から疲れて帰るぶん、邸内の冷たさに、なおいっそう心をすり減らされただろう。
静かに、ただ淡々と過ぎゆく日々。
どうしたらジルベールと、もう一度やり直せるのだろう――そんなことを考えるのにも疲れ果てたころ、ジルベールとアネット・フランツの噂を耳にした。
僅かに残っていた砂の地面は、サラサラと跡形もなく消えてしまった。
波の音さえ聞こえないただの静寂が、凍えるような寒さに取り残されていたリリアンナの心を打ちのめした。
蓋をして開けないようにして、大事に守っていた箱に、何も入っていないのだとーー気付いてしまった。
安らぎも、温もりも、心を動かす何もかも。
だから。
首を絞められたとき、この静寂から解放されるのだと、浅ましくも喜んでしまった。
疲れ果てながらも守り続けていた心の奥底で、死を望んでいたから。
そんな最後の決断までジルベールに押しつけてしまった。
なんて悪妻だろう。
ジルベールを苦しめ、イアンを苦しめ、笑顔を失っただけの18年に、自分で決着をつけるべきだった。
心はもうずっと前から悲鳴をあげていたのに、澄まし顔で夫の愛人を許せる侯爵夫人を演じていたのだから滑稽だ。
ジルベールとイアンの醜聞にならぬようにと形ばかりの結婚を続けてきたけれど、こうなってしまっては離婚は避けられないだろう。醜聞という言葉に逃げていただけなのだから、それで良いと思う。
もっと早く、ジルベールのこともイアンのことも解放してあげるべきだった。
実家には迷惑をかけるが、暫くは居させてもらうしかない。裁縫は得意だから、どこかでお針子の仕事でもしよう。独りなら食べていくぐらいは何とかなるだろう。
真面目なジルベールは慰謝料を払うと申し入れてくるだろうけれど、それは断るつもりだ。
リリアンナに非があり離婚に至るのだと、そう強く印象付けなければならない。何としても。
それがリリアンナにできる、最後の仕事だと思う。
「リリアンナ!! 首を絞められたとは本当かっ!?」
「お父様、ノックぐらいして下さいまし」
慌ただしく入ってきた両親を見て、溜息を吐きながら体を起こすと、その軽さに驚いてしまった。いったい何時間眠っていたのだろう?
「あなた、落ち着いて」
「まぁ。お母様、ずいぶんと若返って。高い化粧品でも買われました? 駄目ですよ無駄遣いは」
全く、お金のないシャノン子爵家でそんな贅沢をするなんて――溜息を吐いたリリアンナの顔を食い入るように父のアレクシスと、母のコートニーが見つめていた。
「どうかなさいましたか?」
「お前、本当にリリアンナか?」
「何を寝ぼけてらっしゃるのです? それよりお父様までよからぬサプリメントに手を出してます? 駄目ですよ、若返りの謳い文句は詐欺と決まってます。後でどのような副作用があるとも知れないのです。お気をつけなさいませ」
「ねぇ、リリィ。あなた、何歳になったのかしら?」
「お母様も娘の年齢ぐらい覚えておいてくださいませ。もう35歳になりましたわ」
リリアンナの高い声が35歳と告げたところで、息を切らせたエマが顔を出した。顔をしわくちゃにして、泣きそうな顔をしている。
「お嬢様はずいぶんと意識が混濁してるんですねぇ。お可哀そうに。だからアタシは反対したんですよ。侯爵家の嫡男様なんて大層な御仁じゃ、何をされたって文句のひとつも言えやしませんて! 旦那様! 婚約を考え直してみてはどうです?」
エマはリリアンナに近付くと、幼い頃よくしてくれたようにリリアンナの頭を撫でてくれた。
皺の深く刻まれた厚みのある温かい手の感触に目を閉じかけたけれど、違和感を感じて目を見開く。
「エマ、あなた体調は!?」
「何ともありませんよ、アタシは風邪ひとつひいたことありません」
豊かな身体を反らせて自慢げに言うエマの腕を掴んでリリアンナは立ち上がった。
「今から病院へ行くわよ!!」
嫌がるエマと訝しがる両親を連れて病院に行った。血液検査の結果は思った通り酷いもので、即入院となった。入院なんて嫌だと言って駄々をこねるエマを説得し終えたところで、リリアンナは自分が若返っていることにようやく気付いた。
病室に備えられていた鏡を見て驚いたのだ。
よくよく考えてみれば、エマはリリアンナが婚約した半年後に病に倒れ、そのまま儚くなってしまったのだ。本来ならばジルベールの卒業と同時の、リリアンナが16歳の時に結婚式を挙げる予定だったのを17歳まで延期したのはエマのことがあったから。
リリアンナが、いま35歳なら会えるはずがない。
両親は言動のおかしいリリアンナのことも入院させたがったが、頑としてそれは拒否した。
「つまり私は婚約直前の15歳ということ……?」
子爵邸に帰ってからコートニーが淹れてくれたミルクティは、幼かったリリアンナがよく飲んでいた甘くて優しい味がした。
貧乏子爵家の我が家では、住み込みの使用人は先代の頃から仕えてくれているエマと、エマの夫で料理長のマーカスしかいない。他は通いの使用人のみで数も最低限だ。
当然のようにコートニーはお茶ぐらい自分で淹れるし、リリアンナも姉のクローディアも身の回りのことは一通りこなす。
カップを持つ自分の皺ひとつない綺麗な手に驚きながら、リリアンナはそれを優雅におろした。
そんな昨日までの彼女ではありえない所作を、両親は黙って見つめていた。
「つまり、ジルベール君に首を絞められて時が戻ったと、そういうことか。健康そのものにしか見えないエマの病気を知っていたことといい、昨日とは別人のようなリリアンナを見れば疑う余地はない」
そう結論付けたアレクシスは腕を組んだまま目を瞑ってしまった。
幼い頃、クローディアがボール投げをして窓ガラスを割ったときより難しい顔をしている。
「私が悪いのです。しなくていいと言われていた社交に勤しみ、息子を必要以上に厳しく躾け、ジルベールがそれをどう思っているのかも顧みなかったのです。絵にかいたような侯爵夫人であろうと、自分のプライドだけを守っていました。殺したいほど憎まれていたことには傷つきましたが、それも自分のせいです。きっと私はジルベールと結婚すべきではなかったのでしょう。ですからお父様、婚約は無かったことにして下さいませ」
「駄目よ、リリィ」
「お母様……」
コートニーは綺麗に結い上げた金髪をそっと撫でたあと、顎に手を当てて首を傾げた。
「昨日までのあなたは、ようやくジルベール君と婚約できるとスキップして喜んでいたのよ」
「でも、これから疎まれ浮気されるとわかっているのに結婚するなんて辛すぎます」
「それは未来の話なのでしょう? そうとわかっているのなら変えることも可能だわ」
「無理よ! 無理なのっ、もう疲れたの、頑張れない」
思えばアネット・フランツの名はこの頃から耳にしていたのだ。美しさから男爵家に引き取られた令嬢の名を。男が放っておかない――おけないほどの美少女だと。
アネットとの関係は、知らなかっただけでこの頃からなのかも知れない。
一度疑ってしまえば、心はたやすくそのことに支配されてしまうのだ。
「未来の私は間違えたのです。反省はしていますが、もう一度、今度は間違わないようにと頑張るほどの気力がわかないのです。お願いです。まだ婚約の顔合わせをしただけ。正式な書類はこれからのはずです」
「あら、本当に未来から来たのね。昨日まで浮かれてばかりで書類のことなんて気付きもしなかったのに。口調まですっかり侯爵夫人みたいだわ」
侯爵家嫡男のジルベールと男爵家の養女であるアネットが、この頃から想い合っているのに身分差から結ばれないのだとしたら悲しいことだ。
子爵家のリリアンナだって下位貴族だ。力もなければ財力もない。羽振りのいい男爵家や商家より劣るぐらいだ。
そのせいでリリアンナは、クローディアが通っている王立学園にもジルベールが通っている貴族学園にも通えなかったのだから。
「コートニー、もう止めなさい。リリアンナ、泣かなくていい。すれ違いがあったにせよ、妻の首を絞めるような男との婚約に、私はサインしない」
立ち上がったアレクシスが、ボロボロと涙をこぼすリリアンナの肩を抱いた。
「戻ってきてくれてありがとう。おかげでエマを失わずに済んだよ。お前は優しい子だ。きっとそのために戻ってきてくれたのだろう」