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よみつきみ  作者: 吉永
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空気製の化生


 あの子は、透明な猫を飼っている。

姿を見たことはない。いつの間にかやって来て、いなくなるのだそうだ。

 楽しそうにそう言うところへ無粋ではあるが、それはただの気のせいだと思った。硬く扉を閉じたこの部屋に入れるのは玄関から繋がった階段からだけ。窓を開け放ったとしてもこの二階の高窓に手をかけるようなものも足掛かりもない。

 難攻不落、堅固鉄壁。湯池鉄城のこの部屋に入ることができるのは、わたしだけだ。

この部屋には親はおろか、遊び仲間の類いも入ったことはない。だというのに、凄惨なまでに整然としたこの部屋はあまりにも静かで。まるで誰もいない、過ごした生活感を真似て筆記具を戯れに机に転がしたモデルルームのようだ。主によく似た体裁の部屋だと思った。

 部屋の片隅にある水皿の水を一飲みして、愛想悪く、顔も見せずいなくなる。随分飼い主不孝な猫がいたものだ、と笑えば。そうだね、と息で笑った君が嫌いだった。

あの子は透明な猫を飼っている。






 少年というには、少しばかり歳を重ねた頃。公園のベンチに座り込んで俯くのにも慣れた時分。くびのぐるりの半分を占めたそれを触った。皮膚ではない、医療行為に用いられる治療用の消耗品だ。

あの驚いた顔で謝罪をしてきた教師は何を思っていたのだろうか。己に非がないということを理解していない時点で何も考えていない人間だということが理解できてしまった。かわいそうな人だ、そう思ってガーゼをはがした。

固定するためにガーゼと皮膚を股にかけていたテープが不格好にくしゃくしゃになっていた。ガーゼには血の跡。それとちょっとの肉。ほくろが取れてしまったようだ。その事実だけは面白い。だが母に話せば甲高い声を上げて否定するのだろう。他人の感性を否定できるほどの見識の広さも啓蒙の高まりも無いくせに。そう言って他人を見下す才能も素養も己には無いくせに。

何も無い者同士、お似合いじゃないか、それこそ家族だろう。不足であるという点で似通った、そっくりな母子だ。




 数学教諭に呼ばれた。自分が一番テストの点数が低かったからだ。数学というのは、どうも楽しくないのでいけない。

公式に基づいて解いていけば、自ずと正解は導き出される。それなら、自分がやる必要はないはずだ、と考えてしまう。それはまったくもっていらぬ手間だ。しかしそういう話ではないことは分かっている、だがそう気づいてしまった時からどうにもやる気が起きなくなった。

証明は公式やπやらでことごとく省略して円滑に進めてきた今までを覆してきて意味が分からなかった。まったくもって合理的でない。今の今まで省略、以下略、切り捨て切り上げ等してきたというのに今さら説明をしろというのはなかなか傍若無人だ。遺憾である。

等々無駄なことを考えながら教諭の話を聞いていた。今まで述べていたことは全部無駄なあがきだ、つまりでっちあげだ。自分は普通に数学が苦手なだけだ、自分でも不思議に思う。

目の前で教諭はしかめ面で書類に何かしらを記入している。ボールペンをノックしながらこちらに疑問提起をしてくる。

内容は言われる前から把握している、「なぜできないのか」ということだ。

なぜできないのかと面と向かって問われたとしても答えは出ない。自分でもなぜできないのかわかっていないのだから当然のことだ。だが、それを糞真面目に言えるほど愚直でもない。そんなことを目の前のもう少しで苛立ち始める人間に対して言ってみろ。飛んでくるのは槍か矛かペンかという話だ。

成績的にどうだ。統計すればなんとか、もう少し頑張れないか。

すべて胸の内を吐露すれば「私の成績的に」、「他の生徒と統計すればなんとか」、「私のためにもう少し頑張れないか」。

全部己の欲絡み。つまらない、全部を上げるのではなく小さい者を矯正する。それがなぜ小さくあるのかも思い出せずに。


 くどい話ほど長く続く。長いと言っても五分と経っていないだろうが体感的には長いものだ。

 だがどうしても話が頭に入らない。つまらない、不愉快、退屈、かゆい、かゆい。

どうしても。くびのうしろの、大きくでっぱっただいきらいなほくろの近くがかゆかった。

ぽりぽり、ぽりぽり。ぽり。とたまらずに掻いた。


「きみ、聞いてる?」

ふと見上げて、教諭は問いかける。

「はい、聞いてます」


ぽりぽり、ぽり。がりり。爪を立てた。


「本当に聞いてる?」

今度は訝しげに、もう一度問うた。ぽりぽり、ぼり。

「はい、ちゃんと聞いてます」


ぽり、ぼりぼりぼり。ぼり、ぼりぽり。皮膚だったものが垢になり爪の隙に溜まる。


「■■さん」

ぽりぼり、ぼりぼり。ばりり、ぼり。名前を呼んだ。

「はい」

ぼりぼりぼりぼり。ポリポリ。ぼりり。返事を返した。

ぼりぼり、ぼりぼりぼり、ぼりぼり、ぼり。ばりばり。ばりばり、ばり、ば「■■さん」りりぼり。自分の名前が聞こえた。がり、がりりばりぼり。何度も呼ぶなと僅かばかりのほの暗い怒りが香り立つ。ぼりぼりかりかり「はい」がりがり、がりばりばり、がりりっぼりぼりばり、ばりばり、ばりばりばり。かゆい。ぼりぼりぼりぼり。ばりばりばり、ぼりぐちり。がりばりぼりばり、かりかりがりがりり。ぶちっ






 ちりちり、と金属が擦れたという割に涼やかな音。

鈴の音が聞こえた。

 音は風に乗るように遠ざかっていった。

でも本当は風なんて吹いていなかった。だから、きっといまのは、猫なんだろう。

 今時首輪に鈴を付けた猫なんて珍しい。あわよくば動物愛護を発症した人に息巻いて断罪されるだろうに。

きっと誰の目にも触れられないほど大事に家で可愛がられている猫なんだろうな。

 一息にそう考えて、手にした木の枝をゴミ箱に投げ入れた。空のゴミ箱の底に落下したそれは真っ二つに折れて、カラカラ軽い音を立てて転がった。


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