05 杖術士エミーナ 四
〇前回までのあらすじ
・メイド服ブレイクシステムが実装されました
・道中雑魚敵にメイド服おじさんが実装されました。ナイフ使いです
・1面ボスとしてメイド服お姉さんが実装されました。棒術使いです
生まれも育ちも王都のエミーナ・ユテは、世が世なら旧家のご令嬢だったかもしれない。
実際には家柄だけの落ちぶれた、領地を持たない貴族を父としていたらしい。
らしいというのは、エミーナが生まれる前に母は父と別れていたからだ。エミーナは彼の娘として認知はされていたが、エミーナ自身には父の記憶がない。
父が母を捨てたというより、母が父を捨てたというかたちの別れとなったのだと、母は少し申し訳なさそうな顔で語ったものだった。
「あのひとは甲斐性なしでねえ」母はエミーナにそう聞かせたものだ。「夢見がちにあれこれ語っている横顔が素敵だったんだけど、あんたをおなかに授かってからもいっこうに働く気配がなくてね。あたしの稼ぎをだいたいお高い本に費やしちゃあ、お勉強に打ち込んでるひとだったよ。お酒もやらないし外に女を作るでもなかったんだけど、さすがに大きな子供をもう一人、おなかを大きくした状態で面倒見るってわけにもいかなかったの」
エミーナが物心つく前に風邪をこじらせてなにやら面倒くさい病気を併発させ亡くなったという父には、学院の研究室時代に特に親しくしていた後輩がいた。西部辺境のなんとかいう領主さまで、ずいぶん遅くなってから父の死を知ったのだという。
身寄りのない父の葬儀をなぜか籍を抜いたはずの母が手配せざるをえなかった縁で――ひどい縁もあったものだ――、十年以上経ってから話を聞きに来た面識のないその紳士は――当時はまだ髪の毛がふさふさだった――エミーナと母を王都の有名なレストランに誘った。そして当時の思い出話を行儀よくねだり、また母の苦労を労ってくれた。
「困窮していたのなら連絡をくれればよかったのに」先輩らしい、と寂しそうにつぶやいたおじさんは、父の思い出について持ち合わせがないエミーナに気を遣ってそこで話題を変えた。「エミーナ君は母君譲りの美貌だけれど、学業でも大したものらしいね。父君の影響かな」
「いえ。それほどでは。私自身には素質がないのではと思うほどで。母が勉強に専念できる環境を整えてくれたおかげです」
「ふむ?」
会話のバトンが渡った母におじさんが視線を移すと、母は肩をすくめながら、その実満更でもなさそうに言った。
「こういう子なんです。――エミーナ、こういう時はもう少し子供らしい受け答えをするものよ。あまり如才なくやりすぎると、かえって不自然なの」
「謙遜でもなんでもないわ。同い年の子たちはアルバイトでお小遣いを得ているのに、私はそれも許されなかったくらいなんですもの」
「ひねっくれた口の利き方なんか何処で覚えたのやら」
小気味よく打てば響くような親子の会話に、おじさんは朗らかに笑った。
あの時には既に、ユテ家母子家庭への援助が当主様の中で決まっていたのではないだろうか。今になってみて初めて思い当たることで、当時はただの気のいいおじさんという印象しかなかったのだが。
以降王都へ足を運ぶたびに当主様はユテ家に寄って近況を訊ねるようになった。
エミーナの成績が伸びることを我がことのようにお喜びになり、
エミーナの王立学院進学への推薦を取り付けてくれ、
果ては学費も面倒を見るなどと言い出した。
「エミーナ、あんたには悪いけど、あたしは旦那様にこれ以上施しは受けられないと言うよ」さすがにユテ家にもプライドというものがある、と。エミーナ私塾卒業祝い会食の前夜になってから、エミーナはそのように母から釘を刺された。「あんたはお貴族様の子じゃない。あんたはあたしがおなかを痛めて産んだあたしの子だ。旦那様は裕福なかたなんだろうけど、お貴族様と関わり合いになって普通の暮らしができなくなるのはあたし一人でじゅうぶんだよ」
エミーナは母が当主様の提案に諸手を挙げて受け入れるものだとばかり思っていた。むしろ、こうなるように状況を誘導しているのだとさえ。
だからエミーナもそれに付き合って猫を被っていたつもりだったのに、母の態度が急変したように見えて、エミーナはずいぶん当惑したものだ。
その時は、たしか、「でも、お母さんにこれ以上負担をかけたくないよ」とか月並みなことを言ったように思う。それに対し母はふっと笑って、エミーナの細い手を、齢の割にずいぶんと痩せて血管が太く浮いた両手で包みこんだ。
「心配ない。少しは蓄えもある。あんたの学費はあたしが出してやる。だから、あんたはどこかできちっと本の世界を卒業して、普通よりはちょっといい平民の、ちゃんとした職の男を捕まえなさい。そんで、普通よりはちょっといい家庭を作るの。いい?」心からエミーナを案じていることが一目でわかる、真摯で優しいまなざしだった。「あたしは、それはもうひどく苦労したと思う。後悔しない日なんて一日もなかった。それでもね、あたしはいいんだよ。仕方ない。あたしは馬鹿だったんだから。あたしはあんたのお父さんなんかに入れ込んじゃったんだから」
その言葉にびっくりしたエミーナに、母は穏やかに笑いかけた。勘違いするんでないよ、と言葉を継いで、エミーナの手をさすった。
「あんたが健やかに賢く育ってくれたから、十分すぎるくらい報われたとも思ってる。それでもさ、世の中にはそれ以上の後悔ってのがあるもんなんだよ。あたしが特に悔やんでるのはね、あんたのことさ。あたしとお父さんが普通じゃなかったばかりに、あんたに肩身の狭い思いをさせてるんじゃないかって、ずっと、ずっと、ずっと、気に病んでた」
「そんなことないよ。私、そんなこと言ったの、一度もないでしょ?」
「そうだね。あんたは優しい子に育ってくれた。だから、ずっとがまんしてるんじゃないかって今でも申し訳なく思ってるんだよ」
エミーナは絶句した。四〇になるかならないかという母が一気に老け込んで見えた。底抜けに朗らかで弱ることを知らない母が、自分に向かって懺悔を始めたのだ。
その衝撃に呑まれているエミーナに、母は続けた。
「ひょっとしたら、あんたは言葉通りほんとにあたしのことをちっとも恨んでないかもしれない。あたしもできればそう思いたいし、そう信じて楽になりたい。でもね、そうはならないんだよ、エミーナ」きゅっとエミーナの手を包んで、母は軽く揺さぶり、繰り返した。「そうはならないんだ、エミーナ。こうしている今もずうっと苛まれてる。いつまで続くか、あたしには見当もつかない。聞き分けておいで、エミーナ。あたしみたいに、子供を不幸せにしているんじゃないかってずうっとずうっと悩み苦しむ人生をあんたに歩んでほしくないんだよ。お貴族様と縁を持つっていうのは、そういうことだってあたしは思うんだ……」
その時は、わかった、と答えたように思う。
思う。
つまり、エミーナはよく覚えていない。
何故覚えていないのだろう。
人生の重大な岐路だったのだから、もっと細かく覚えていてもよさそうなものなのに。
母の意外な一面だけが強烈に印象に残って、自分の受け答えなどその人生の重みに較べれば吹けば飛ぶような軽いものでしかなかったから、というのもあろう。
だが、それ以上に、翌日の会食で切り出された話がユテ家の事前に想定していたシナリオとあまりにかけ離れていて、結局当主様の援助を受けることになってしまったからではないか。
当主様は母の考えなどとっくに見透かしていて、断りづらい理由を二重三重に用意していたのでは、と邪推してしまったほどだ。
その会食でユテ家は後に第三の家族と呼べるほど親しい付き合いをすることになる、当時一二歳のシルフィア・スパルティアンと引き合わされ、最終的に彼女の寄宿と教育係を引き受けることになるのだ。
人界から魔界への植民侵攻計画が実行に移される、その直前の年のことである。
いかにエミーナが私塾卒業前から王立学院へ進学内定を勝ち取るような聡明な女であったとしても、まさかその先の人生において全国放送で決闘のまねごとをし、あまつさえ肌を晒すことがあるかもしれないなどとは考えもしなかった。
「かーさんのいったことは、ただしかった……」
なにもかもに絶望したような表情でエミーナはしみじみとうめいた。
お貴族様に関わるもんじゃないと巌に戒めた母の顔を思い出す。もう十年も前の出来事のように思われた――
「なにがです、先生?」
「なんでもない」
シルフィアが横から覗き込んでくるのにエミーナは手を横に振った。さすがに当のシルフィアへ言えたものではない。家庭教師を引き受けたことを後悔しているなどとは。
「ふうん」
シルフィアは上機嫌に見えた。番組のヘアスタイリストを控室から蹴りだして、みずからかいがいしくエミーナの髪を鼻歌交じりに結っている。
エミーナとしては妹分の仕事にこそ不安があるのだが、口に出す勇気はなかった。あとでそれとなくスタッフに謝りつつ状態を見てもらわねばなるまい。
「ご機嫌ですね?」
「まあ先生がかわいい服着てかわいくなってるのを見るのは、私もうれしいよね」
私も。
それはつまりエミーナ自身も喜んでいるという解釈なんだろうかとエミーナは力なく自問した。答のわかりきっている問だったため、口には出さない。せめて自分の胸の内だけほんのわずかでも希望のかぼそいともしびを残しておきたかった。
うめく。
「私、お嬢様と違って切った張ったは得意ではないんですけどね」
「首都の道場ではけっこう筋がいいって褒められてたじゃない」
「そりゃあがんばりましたからね」エミーナはため息を挟んで言った。「それでも、お世辞を言ってくれた師範だって、まさか魔王と殴り合うことを想定して教えてくれたわけではないでしょうし……」
壁に立てかけてある一メートル弱の簡素なロッドを見やる。新品である。
王都にいたころ愛用していたのは、手提げかばんに収まるていどに伸び縮みする機構を備えた金属製のロッドだった。
ここにそれはない。まさか自分の護身術に出番が来るとは思っていなかったので、実家に置きっぱなしにしてある。
取り寄せを待つわけにもいかない。こちらで急遽新調するはめになった。がっしりとした樫の樹から削りだした、文字通り一本の棒である。採寸されたエミーナの体格に合わせて特注で作られた品物だ。
そんなたいそうな扱いを受けるほどの腕前でもないのだが。
エミーナがかじったのは非力な術師が魔導式展開中に接敵されてどう攻撃をしのぐかという技術に過ぎない。魔導の道に進むつもりのなかったエミーナには、そもそもそうした前提すらないので気楽なものだった。
つまり、シルフィアの命を狙う刺客――そんなものがこんな時代にいるなど当時は思っていなかったが――の一の太刀を確実に受けて押し返し、シルフィアがわずかでも逃げおおせる時間を稼いだら自分も武器を放り出して一目散に逃げるつもりで指導を受けていた。
先の見えない難しいことをやろうとするから習熟に苦労するのであって、ゴールの見えている決まった動きをパターン化して覚えたに過ぎない。
「ほかのお嬢さんがたもこのくらい割り切りがいいと助かるんだがなあ」と苦笑していた師範の顔を思い出す。
エミーナに言わせれば、習い事で護身術学校に来る女性たちと自分との違いはシンプルだ。
エミーナは悪漢に負けない強い自分になりたかったわけではない。
ただ学費を稼ぐ手段としてシルフィアを保全できれば、あとは弱かろうと追われようとどうでもよかったのである。犯罪者と戦うのは治安組織の仕事であって、うら若い女学生の仕事ではない。
自分はそのことを十分に承知していただけなのだ。
もっともその話にはオチがあって、武家の娘のシルフィアが付き添いで護身術学校へ来たがり、棒一本で刃物を持った相手や複数の暴漢を制圧するといった動きまで修得してしまったのだが。
まれになにかしら素性の知れない男たちに囲まれることがあっても、エミーナが武器を出すまでもなくシルフィアがそのへんの棒きれを握って全員地べたに這わせてしまう始末だった。
けろりとした顔で気負いなく振り返ってきたときなど、あぜんとさせられている。
初めて引き合わされたとき故郷では武芸百般で通っていたなどと豪語していたが、マジネタだったのではとそのとき思いいたったものだ。
そうした付け焼刃よりもむしろエミーナの役に立ったのは、どちらかといえば室内に籠りずっと勉強の日々だったシルフィアの退屈を制御するため、シルフィアにつきあううち身についた取っ組み合いの技術と筋力だった。
あらゆるジャンルカテゴリを問わずなんでもすぐに修得できる天才肌のシルフィアだからこそ、忍耐や我慢という言葉が縁遠い。なにごとも飽きっぽいセンス頼りの気まぐれな猛獣をねじ伏せるのは一にも二にも火力がものを言って、これは毎日の地道な筋トレと走り込みだけが実現への道をつけてくれる。
的確な努力がエミーナの持ち味だ。じつに庶民的な話だとエミーナは自己評価している。
その的確な努力というのを人間そうそうできないからこそスパルティアン親子に見込まれ重宝がられているという自覚は、このときまだ芽生えていなかった。
「へーきへーき。三日間とはいえ棒術についても私とおけいこしたんだし」
「実際それは助かりましたけど」
外部から専門の指導者など呼ぶより自分がエミーナの面倒を見たほうが早いとのたまったシルフィアは、この数日で実際にエミーナの技術を一段階上の領域に引き上げてくれてもいた。手ごたえを掴んだ実感もあるにはある。
とはいえ、もとが素人護身術の域なのだ。それが一段階上に上がったからといってなんなのだというのがエミーナの偽らざる本音ではあった。
「けど?」
「トーマどのは五〇人だかいる襲撃者をおひとりで退けたひとですよ。そういうかたと私が渡り合える腕前になったかと言われると、はなはだ心もとないといいますか」
「あー」シルフィアは顔をしかめた。「あれね。まあ私だって同じことができるかって言われたらちょっと面倒だけども」
面倒の一言で片づけられるのかと言いたげなエミーナの視線を化粧台の鏡越しに受けながら、シルフィアは「でもあれ、ずるだからなあ」と苦い顔をした。
「ずる?」
「うん。あいつどうせ自分が死なないと思って、ものすごい雑なんだよね」
「それはずると言えばずるなのかもしれませんが、より私には手に負えないことを意味しませんか」
「そうでもないよ。一回一回を丁寧にやらないって、たいてい弱い奴のやることじゃない? それで失敗してもどうせまた挑戦できるから、ぜんぜん成長しなくてもいいと思ってそうだし」
「ああ……」シルフィアの言わんとするところがわかった気がして、エミーナは複雑な顔をした。「それでも人ひとりやっつけるというのは大変なことで、それを何十人もというのはやはりすごいことだと思うのですが」
「先生は実戦経験がないからね」
暗に自分は人ひとりやっつけたこともないのだと言うエミーナの懸念を、シルフィアは気楽に笑い飛ばした。
「他人事だと思って……」
「まさかあ。先生のお仕事に私の貞操がかかってるんだよ?」
そういえばそうだった。いや貞操というのはあくまでイベント上の建前で、実際にはそうではないのだが。苦りきった表情のエミーナにシルフィアは笑いかけた。
「私、人を見る目には自信があるんだよね。とくに、その人が強いか弱いかに関しては父様や兄様よりずっとわかるつもり――さ、できたよ」シルフィアはエミーナの髪の編み込みを終えて満足げにうなずいた。「先生が手を抜きさえしなければ、あいつがなんで先生より弱いって私が言ったか、すぐにわかると思うよ。それより――」
それより? この生徒が言いよどむのはめったにないことだった。妹分の顔が曇ったのを見てエミーナは目だけで先をうながすと、シルフィアは険しい顔をして言った。
「新しく入ってくる男の人。あれはやばいね」
「当主様が新しくお雇いになったコルトンさん?」
「私たちを襲った難民ってことだったけど、あれはそんなタマじゃないと思う。生活苦でどうこうじゃなく、人へ暴力を振るうのにためらいがないひとだよ。たぶん専門的ななんらかの訓練を受けてるんじゃないかな」
「そんなことがわかるものなの?」
「うーん。経験的にわかるんだよね。スパルティアンって野盗とか盗賊とかを取り締まる家だからさ、逆にそれっぽくないところがいやでも目につくっていうか」
ぶっそうな経験もあったものだとつい素の口調に戻ってしまったエミーナは思ったが、さすがにその感想まで口に出すのは控えた。エミーナが内へ沈み込むようにぶつぶつと続ける。
「父様がもうろくしただけかもしれないけど、なにか考えがあるのかなあ……」
「さすがにまだそんなお歳ではありませんよ」
「だといいんだけど。とにかく、先生はあんまりあの人の近くに行かない方がいいかもしんない」
「まあそもそも殺されかけてますからね」
「うん。それだって巻き添えなんだけど、今度もなにかやらかそうとして巻き添えにされるかもしれないから」言うか言うまいか逡巡して、シルフィアはけっきょくこれも口に出す方を選んだ。「私が先生についててあげられればそれが一番なんだけど……」
「だいじょうぶ。これだってお仕事ですからね」
「うん」
元がシルフィアの客人扱いとはいえ、あまりひいきにされているとエミーナと他の使用人たちとの関係によくない影響を与える。これ以上のトラブルは避けたかった。よほどの事情とはいえ、前任のフロアマスターが紹介状なしで放逐されたという話を聞けばなおさらだ。
シルフィアの政略結婚がもし現実となったら、エミーナは首都へ帰って学業をひと段落させ、次の仕事を探すつもりでいた。母もそれを望むだろう。
そのときに当主様からなんらかの口添えがあるに越したことはない――未来の旦那様にどんな条件を求めるのかエミーナはまるで思いついていなかったが、とにもかくにも母は安定した収入の男性を喜ぶだろうから。それにはやはり自分も相応のステージに上がってみせなければなるまい。
自分の浅ましい発想にほとほとあきれる思いだったが、それで母がなんらかの呪縛から逃れられるというのなら、こだわりのない条件くらいは希望に沿ってやりたいとエミーナは考えていた。
母が語りたがらない大恋愛の末に自分が生まれたように、いつか自分もそうした相手ができるかもしれない。それが母の希望の範疇になければないで、それはもうごめんなさいと言うしかない。
が、すくなくともいまはそうではない。将来性のない男にひっかからないための努力くらいはすべきだと思えた。まだ、このときは。
番組収録当日。夜。シルヴィア館。
トーマがよろしくお願いしますと頭を下げ、顔を上げると戦争は始まる。
館のメイドたちが一斉に弓へ矢をつがえ放つ。番組の当初からいまに至るまで、矢じりのない先端を丸めたそれだ。
もっとも、それが意味ある配慮かと問われるとだれもが答に窮するだろう。弓の材質にもよるだろうが、初速時速三〇〇キロオーバーで何十グラムという拳銃弾丸に倍する質量の棒が飛んでくるのに温情などあったものではない。
撃つ側、メイドに扮した女性兵士らの罪悪感が若干和らぐ効果が見込まれるかもしれないというだけだ。
これらの武器設定について、魔王側は相談を持ち掛けられても好きにしてくれとしか言わなかった。殺されることになっても報復はしないと確約している。
実際、魔王とトーマにとって、矢で撃たれることなど停戦前まで日常茶飯事だった。痛くないわけではないし可能なら避けたいことではあったが、いまさらそこをとやかく言った筋合いでもない。
そもそも、かれらはまぎれもない大量殺戮者なのだ。魔界へ入植してきた軍を容赦なく何万人と殺害して人界へと押し戻している。
そんな怪物が矢じりの有無程度でいまさら泣き言を並べるわけもなく、自身の不死性を見せびらかすかのように文字通り矢面に立つことをためらわなかった。
どちらかといえば番組において損耗が大きかったのはメイド側だった。
職業軍人というのは人間を殺傷する前提の訓練を受けている。メンタルケアも手厚くされている。が、それにしたって日常生活圏内でふつうに生活しているのを見知った魔王の息子をいざ週にいちど殺さなければならないというのは、女性兵士らに尋常でないストレスをもたらしたのだった。
経緯はどうあれ見た目自分たちと同じ姿かたちをした、それも害意を持たない年下の少年を手にかけなければならない。
それも、終わりなく。
非殺傷武器の提案はかのじょらのために行われたというのに、しかしそれでも事故で魔王の息子の眼窩を射抜いてしまった職業兵士などは後送され長期療養の憂き目に遭った。
その後、当該兵士は復帰の見込みが立たぬまま退職を申し出ている。
職業兵士といえど、元が魔界植民事業のために大規模に募られた兵士である。
大義ではなく雇用のために軍へ身を投じたひとびとだ。兵士としての質はともかく日常生活の延長上で隣人を手にかける暮らしというのは、彼女らの精神を当初おおいに疲弊させた。
新天地を得るために殺人にも手を染める覚悟をした男性兵士たちとは、適性が異なっていたのだ。
このため、当初シルフィアの別館へ詰める人員について勤務評定上位者で選出していたのを大幅に見直す事態まで招いている。
なんにせよタイミングを合わせて放たれる矢の雨は、トーマの回避領域を大幅に削るかたちで殺到した。当てるつもりがなく、相手の選択肢を狭める制圧射撃ならば、事故率は下がるというわけだ。
トーマは視界に捉えている一〇人、女中姿の弓兵たちの視線から漠然と矢の到達点を割り出し、安全地帯へもたもたと逃れる。
当てるつもりで撃ってこない矢玉というのは、当たり前だが余計なことをしなければ当たらないようにされている。つまり、相手の意図を正確に汲んでいるかどうかが問われる。
逆に言えば、安全圏へ移動するというのは相手の意図に沿い誘導されているということだ。
相手の計画に一から十まで乗ってなお勝利するのは困難を極める。どこかで計画から逸れるか、計画を踏み潰すかしなければ勝てない。ゆえに、
計算外の動きを差し挟むか、
計算外の質量を叩きつけるかしなければならない。
後者は、じつはそう難しいことではなかった。そもそも魔界から人界まで戦線を押し戻したことじたい、魔王という規格外単騎戦力のたまものだったのだから。
矢が十本飛んでくる? 迎撃して射手ごと焼き尽くせばいい。なんなら射手と言わず館全部を火の海に変えたって労苦としては大差ない。
ただ、これ以上人死にを起こさないために和平を持ちかけているのに、そのプロセスで人が死ぬのはいかにも馬鹿らしいから選ばないだけだ。
月曜火曜と連続で行われた制作会議では人死にを起こさないために無力化ルールを設けてもらったかたちだが、トーマとしてはそれでも積極的な利用となるといまだ乗り気とは言えなかった。そもそも、魔力を相手急所部位に備えたアクセサリへ充溢させるだけなら、それこそ手を触れずともこの館全体を濃い魔力で満たすことさえできてしまう。
この瞬間にもエントランスホールを視線で撫で斬りにすれば、それだけでこの場の全員を無力化できてしまうだろう。が、それはルールの穴を突いて勝つようなもので、西部地方のひとびとをやりこめる役には立っても、かれらの納得を買う役には立たない。
相手の善意の隙間から勝ちを拾っても、政治目的は果たされない――
停戦だけならやりこめるだけでいい。だが、その先へ進むにはなんらかの好意か敬意を勝ち取らねばならない。トーマはそう考えていた。
実際には必ずしもそうとは限らないのだが、悲しいかなトーマは政治を知らない。序列と利益配分さえ終えてしまえば、あとの納得は当事者が勝手に調整するものだという西部連合王家の常識もかれにまで浸透していなかった。
もっとも、これはある意味で正しくお飾りの魔王として申し分ない資質とも言える。
君臨し大方針を示し主要人事を発布すれば、トップに求められる役割は果たせるのだ。
その先には果てしのない利害調整と関係各所からの聞き取りという地道な作業ばかりが山をなしている。この世のだれにも縁がない魔王稼業にやらせる仕事でないのは実務担当者すべてがうなずくところだろう。
なんにせよ現地民の反発を過度に恐れる少年は、
関係者からすれば好ましい誤解をもって、
関係者が一致して希望する魔導の活用にいまだ及び腰だった。
現地で修得した技術と組み合わせてなんとか乗り越えたい試練である。もたもたと走り、慣れぬ格闘術の型を状況に合わせて活用、習熟を重ねて防衛側の思惑を超える動きで勝利への道筋を拓く正着を探っていた。
その正着に至るまでは、防衛側のプラン通りの獲物を演じるほかない。
魔導を使えばもう少し速く動けるのだが、それをよしとしていないトーマはおのが二本の足で矢の投射区域からなんとか逃れた。
行動範囲を制限されるかたちで逃れた先には、当然のごとくべつの女中たちが殺到する。軍事訓練を受け、近接武器を持った女中たちである。
穂のない槍で殴打され、突き倒され、行動不能なほど大勢に詰め寄られたのは過去の話。
現在は無手で女中たちをさばき隊列を崩して逃げるか、女中たちがトーマの動きに翻弄されず隊列を柔軟に組みなおして逃げ場をさらに削り、罠のある区域へ追い込んでいくかの駆け引きを展開するのが常だった。
そう、これまでは。
一方的にやられてばかりの画では駄目だと暗に言われている。女中たちを裸に剥いて無力化、攻め手の頭数を減らす戦術を披露せよという話だった。
つまり、これから横隊で足並みを揃えて駆けてくる女中たちを格闘の体で無力化せねばならない。
やはり弓兵女中らとおなじく、槍女中らも人体の急所に相当する位置へ人工琥珀を組み込んだ装飾品が配されている。
装飾品へ魔力を叩きこめば撃破判定が得られる。そのはずだ。が。
トーマは苦い顔をした。気乗りしない作業ではあった。女の衣装を剥ぐというのもおおいに抵抗があったが――ナイーブな青少年というのはそもそも男女問わず無防備な裸体を前にすることへきわめて大きなストレスを感じるものだ――、それよりなにより打撃の瞬間に必要な魔力を過不足なく対象へ込めるというのは、トーマからみてもちょっとした離れ業に類されることなのだった。
少なすぎれば成果がないまま相手の間合いに留まる愚を犯すことになり、
多すぎれば魔力蓄積限界を超過、なにかしらの事故を誘発しかねない。
衣服を破裂させるような術式だ。安全検査もやっていないわけではないだろうが、それはあくまで人類が同じ人類を相手にする前提の技術に過ぎない。
戦時に単騎で世界を相手どれる規模の魔力を有した魔王としては、安全重視で臨みたいところだった。ルール改訂初日から大事故を起こせば、ルール改訂に尽力した好意的なひとびとのメンツをつぶすことになる。
そして言うまでもないが、ルール改訂初日から改訂されたルールを活用しないこともまた、かれらの好意を無下にする扱いとなる。トーマとしては綱渡りがひとつ増えた心境だった。
(横隊右端のリュペリさん。相手より速くさらにその右側へ回り込んで、相手槍の初撃を回避、潜り込んで交差気味に腹部へ軽く掌底。接触と同時に接点へ魔力放出しつつ、連れ去るように抱える。破裂音がしたら床へ転がして逃走――いけるか?)
近接戦闘技術に自信のないトーマとしては、なにを画策したところで薄っぺらい浅知恵にしか思えなかったが、それでも何の構想もなく交戦開始するよりはずっとましだった。どこかの段階で頓挫することをなかばあきらめつつ、広間を駆ける――
――いや。
足を止めた。違和感を覚えたのはその直後で、なにに違和感を覚えたかもわからないまま横っ飛びに急転回する。三秒前までトーマの踏み込むはずだった場所へ音もなく影が降ってきた。そのときになってやっと初めて、突如自分に覆いかぶさってきた陰から間一髪逃れたことを知覚する。
上背のあるメイド服の男。バートンだ。コルトンという偽名を頑なにまだ使っているらしいどこかのスパイ。それに倣うならトーマもコルトンと呼ばなくてはならないのだろうが。
手にしていた大ぶり、刃渡り三〇センチほどのナイフが空を切っていた。実質小剣と呼んでもいいかもしれない。手の届くところにトーマはおらず追撃も不可能と見たか、着地の衝撃を転がって逃がし、トーマと反対の方向へ距離を空ける。抜き身の武器を持って地面を転がるなど、トーマからすれば正気の沙汰とは思えなかったが、こともなげにこなすと槍女中たちと反対の方向へ一歩目を踏み出そうとした。挟撃するつもりなのだろう。戦術的には正しい。
トーマはそこまで見て取ったあと、足場の床を踏み砕いて加速、五メートル近くあったバートンとの手の届かないはずの距離を一気に魔導で詰めた。急激なストップアンドゴーの繰り返しに悲鳴を上げる右足首の腱を意識の後方へ置き去りにして、左の掌をまっすぐ突き出す。虚を突かれたかたちのバートンは横転からの立ち上がりに際して両腕を振ってバランスをとっていた。つまり手を使った防御ができない。無防備な胸に魔王の魔手が噛みつく――
――バートンが上体を反らした。精度の甘いトーマの左掌打がメイド服胸元の表面を滑らされるかたちで衝撃のほとんどを受け流される。完全には入らない。バートンがナイフを握っていない右腕をトーマの左腕へ絡めるべく、上体にひねりをくわえた。トーマバートン両者ともにどちらも体勢を崩している。右腕をトーマのどこかにひっかけて、そこを起点に相手重心を崩す体術をしかけるつもりなのだろう。
転倒させれば数に勝る館側の優位はもう動くまい。
読み合いで勝ったとほくそ笑んだバートン、その死角、左脇腹にトーマの右の掌底がわずかに遅れ時間差で刺さった。腰だめに構えていたトーマのそれがあまりにも強い蹴りだしの速度だったため、結果届いている。左掌突き出しのモーションになんの動きも加えることなく、ただ圧倒的な速度と移動距離が、現代近接格闘技術常識の範囲外から牙を剥いた。人類は助走なしで一歩五メートルを稼げる生き物ではなく、この点バートンでなくだれであったとしても回避不能だったことだろう。
未熟な牙はやはり対象へ直角に打撃を埋めること能わずバートンの左肋骨上を滑るかたちとなったが、それでも初撃と比較にならないダメージをバートンに与える。すがるように伸ばしていたバートンの右腕はなにもつかめないまま、転倒直前に屋敷の床を叩いた。側転めいた変則的な受け身を朦朧とした意識でこなす。
トーマは勢いで行き過ぎたところをさらに切り返して反転した。
視界にバートンと槍女中と弓女中のすべてを収める位置取りで、接地させた左手を軸に脚部をたわめた状態で向き直る。右足首が激烈な痛みを訴えていた。熱を帯びて修復を始めているのが見ずとも理解できる。
止めていた息を吐くのを自らに許した。足首の激痛が呼気量に比例して無視しづらくなる。腱がちぎれていたのかもしれない。額に脂汗がにじんだ。
激痛に誘われ、反射的に脳裏を魔術式がよぎる。
見渡す限りを毒氷の礫で埋めれば、こんな茶番は一息に終わる――どうしてそうしちゃいけない?――気の迷いを奥歯で噛み砕いて飲み込んだ。
なんのためにここまでやってきたと思ってんだ。こいつら殺さずに済ますためだろうが。
槍女中右翼正面から六人分の距離を瞬時に移動し、槍女中左翼を正面に見据えた。バートンが混ざる以上、うかつに混戦に持ち込むのはためらわれる。シルフィアとエミーナの殺害も辞さなかった一味だ。なにかの事故で女中に武器が流れて当たることも恐れずバートンは踏み込んでくるだろう。
――先にナイフ使いを排除すべきだ。できるかどうかは別として、少なくとも自分の望みはその選択の向こう側にしか叶える余地がない。
苦いものを噛みしめながら、足取りのおぼつかないメイド服の男を観察した。あとに残るダメージはせいぜい脇腹の打ち身程度のものだろうが、それを馬鹿正直に受け取っても始まらない。
その後ろに並ぶ六人の槍女中たちはというと、一瞬で繰り広げられた目の前の攻防に目を剥いて足を止めていた。かのじょたちの前で魔導を使ったのはこれが初めてだったから、しかたのないところではある。
べつに秘匿していたわけではない。これまで使う必要がなかったわけでもない。相手の土俵で相手の納得を勝ち取らなければ、相手の譲歩を買えない。だから自分の土俵に持ち込まなかっただけだ。
だが、その納得も相手が生きていてこそだった。バートンが暴れる巻き添えを看過してまで買わねばならない納得ではない。
女中たちは足を止めたまま動く様子がない。想定外の動きを前にしては、打ち合わせていない陣形の取りようがなかったか。魔王が独力で数十人を伸したという話を疑っていたわけではないが、こうも圧倒的な速度差があるとは思っていなかったのだろう。
多対一の定石としては分散包囲を図るものなのだろうが、速度差があるとなれば包囲が終わる前に各個撃破されてしまう。そのくらいなら互いが手の届く距離にあって援護できたほうがよい、そんなところか。消極的な選択ではあるが、間違いとも言えない。
トーマとしてはバートンへ速攻をかけたいところだった。しかし、その場合女中たちがバートンへのカバーに動き出す可能性が生じる。バートンがかのじょらの陰に隠れて機を狙うなら、事故率が上がる。
あるいは上がらないかもしれない。新しい雇い主の機嫌を損ねることを嫌うかもしれない。が、他人の命をチップにやりたいギャンブルではなかった。結果、バートンが回復してどう動くのかを見極める消極策へ落ち着く。
「よくもまあ、それだけ速く動けるもんだ」トーマが呼吸を整えていると、その当のバートンが口を開いた。立ってこそいるが、突けば尻を着きそうな体でかろうじてナイフを構えている。「その動きをここまで隠していたのはなんでだ? 遊びか? 余裕か? 人間風情、いつでもひねれるって言いたいのか?」
「いつでもひねれるなら、とりあえずさっきのであなたには脱落してもらいたかったけどね」トーマはバートンの時間稼ぎに乗った。どのみち相手の出方を待つ以外、やれることがほかになかった。「あなたの場合、かのじょらを後ろから刺してでも有利な状況を作ろうとするだろうから」
トーマの言葉へぎょっとする女中たちを背に、バートンが鼻を鳴らした。
「それが俺の仕事だ」
「悪びれずに言うことじゃない」
「俺が敵で、こいつらは敵じゃない。それがお前の手を抜いていた理由か」
「あなたのことはもうあきらめてますが、なんで目の前の相手についてかのじょらの意識まで敵か味方へ色分けするのにこだわるんです? ぼくはただ平和が欲しいだけだ」
「こいつら職業兵士に言うことじゃないな」
「平和ってのは争い合う余地のある二者が争わないことを選択して生まれる状態ですよ。職業兵士が当事者じゃないなら、だれを当事者とするんです」
「平和ってのは争い合う余地のある二者が争い尽くして鼻血も出なくなった状態のこった。流れる血が残っていて自分の任務に及び腰なら、それは職業兵士とは言わない」
トーマはため息をついた。わかってはいたが、バートンはどこまでもトーマと相容れない思想の持ち主だった。それでも、口喧嘩で済むのなら平和なものだとかれは信じていた。
一拍置いて――トーマにも罪悪感を感じる機能くらいはあった――かれは言った。
「自分には流れる血が残ってるからと、メイド服まで着用し、女装してでも戦場に出たかった。そう自己紹介してるんですか?」
バートンは耳まで真っ赤になってナイフの切っ先を向けて突進してくる。
帰す言葉もなく逆上して突っ込んできた中年のフリルマシマシ男へ、トーマもまた一歩踏み出した。
ナイフは一直線に突き出されているように見えて、自在にその軌道を変える。二度殺害されたトーマは文字通りその身で知っていたので小器用に対処することを潔くあきらめた。
どうせ自分は死なない。再生もある。即死さえ避けてバートンを無力化、その後の女中らから逃げ回れば仕切りなおせるという計算もあった。
が、それ以上に自分のはるか上をいく技量の相手に小細工勝負を仕掛ければ、負ける余地を広げることにしかならない。
痛いのは嫌だが、自分がそれを乗り越えられれば女中らの安全が買えるかもしれない。やる価値のある賭けだった。
急所を庇いながら相手に肉薄する。一撃で無力化されなければ、こちらも相手に一撃入れる機会が生まれる。実際にこの手でいちどバートンを無力化してもいる。
トーマの意図を察してバートンが舌打ちした。技量で上回るというのは相手が技量で勝負してくれる範囲でしか安心材料にはならない。遮二無二突っ込んでくる素人などどうとでもなるが、喉を掻っ切り臓腑を抉っても意に介さずしらふでこちらを無力化し続けようとする魔王はもはや素人とは呼べなかった。相手右側面へ回り込んですれ違いざまフェイント混ぜて持ち替えた左手のナイフを翻らせる。
狙うのは顔。ためらいなく切りつけた。視界を少しでも奪いたい。
むろん悪手だった。
相手になにもさせない以上の良策はない。相手になにもさせないというのは、つまり自分のやりたいことに相手を付き合わせて、その対応で手をふさぐということだ。トーマのやりたいことにバートンが付き合わされるのではなく、その逆でなくてはならない。
それに気づいたのは相手の眼球が自分を見失わずに追ってきたときだ。どうせなら眼窩に突き立ててやりたいと思っていたところへその反応が返ってくる。苦いものを舌の上に覚えながら当初の予定通りナイフを振るった。
トーマの額から出血があふれる。エッジが硬い頭蓋骨を上滑りして相手後方へすり抜ける前に、強い衝撃が胸骨を貫いた。トーマの右ひじがバートンの右胸に刺さっている。前に出ようとしていたトーマが無理やりバートンを追いかけて方向転換をかけたかたちになった。
浅い当たりだが、ダメージは大きい。相手反撃の意図を先んじて見つけていなかったら、次に相手背面を狙って刺しこむつもりだったナイフを取り落としていたかもしれない。
実際には心の準備ができていた。止まった呼吸が叩きつけられた肺の中で暴れ回る。生理反応で眼球があふれる涙に沈んだ。歯を食いしばって呼気を漏らさず耐え抜く。
プロだ。俺はプロなのだ。そんな意味のない自負に縋ってでも体勢が崩れるのをかろうじて防いだ。
しょせんは思い切りのよさでひねり出した単発の攻撃でしかない。プロとそうでないものの差がそこだ。常に次手を用意している自分との差が。
内心だけでもほくそ笑もうとしたバートンだが、予想にないトーマの跳ねあがってきた右裏拳に早くも顔色を変えた。左に首をかしげて直撃を避け、しかし顎に拳の先端が絶妙にかすめるのを避けられない。
脳が揺れた。ぐらりと闇にかたむく意識を、まだ光が当たっている部分にしがみついて引っ張り上げる。
反撃どころではない。後ろに回り込んで距離をとるだけで精一杯になる。
一歩、二歩と後退――というかたたらを踏み――、前傾姿勢を取り戻したときには、右目を流血で塞がれているトーマが迫ってくる。右半身を前に文字通り闇雲にバートンへと転進してくるのが見えた。トーマ自身は何も見えていないのだろうが、体術など知らなくても当たるまで突進するつもりなら、方向さえ間違わなければ体当たりくらいはできる。魔導で再加速しただろう少年の身体がみるみるバートンの視界の大半を占拠し、
泥臭く肩と頭をぶち当てられて吹き飛ばされた。成人男性の身体が宙に浮く。
両腕で衝撃を受け止めて威力を殺そうとしたが、焼け石に水だった。クロスガードした両腕に痺れが走る。ナイフは手放さざるを得なかった。相手の肩の皮膚を削って宙に舞う。接触の瞬間に首筋を狙ったのだが、失敗した。さすがに欲張りすぎだった。
それでも急所へのダメージは防いでいる。なんとか次につなげる道筋を思考が探ろうとした矢先、「あ、そこは」というだれかの声が漏れた。
戦闘中になんとも間の抜けた響きの声だ。プロにあるまじきことだった。やはり西部は駄目だななどと脳裏で悪態を吐きながら、吹っ飛ばされて浮いていた足が接地するのに力を籠めようとし、
ばくん、というやはり間の抜けた作動音を足下から聴いた。
接地したはずの足がずるりと滑る。踏ん張れない。作動した落とし穴の床表面がバートンの荷重に耐えきれず、落とし穴内部、壁沿いに重力へへつらうよう垂れた。数十メートル下の奈落へバートンをいざなう。
――落ちて死ぬしかない。
プロなのだ。それもこんな辺境のもどきではなく、歴史ある東部のプロなのだ。
ならば足場のない空中で浮揚くらいやってみせろと脳のどこかでもうひとりの自分が好き放題喚き散らすのをよそに、バートンはふとなにかから解放されたような心地で何秒後かに待ち受けることを静かに受け入れた。
やれるだけのことはやった。つまらない死に方だが、それはしかたがない。
英雄を志向して工作員をやる奴はいない。この生き方をすると決めたときに、どぶの中で溺れ死ぬことも覚悟していた。
そのときが来たというだけだ。
ふわりとした無重力感のあと、視界を無機質な陥穽の壁が下から上に高速で流れた。数瞬後にはつま先からぐちゃぐちゃになる運命のバートンだったが、死ぬ前にせめて違うものが見たくて直上を見上げた。屋内だから空など見えるはずもないが。
「なっ――」
入ってくる光の角度からまさしく底が見えないピットを落下するバートン。目を剥いた。かれの瞳に映るのは、遠ざかる一階の天井ではなかった。
異世界の魔王が自由落下速度を超えてバートンに迫ってくる。鬼気迫る形相で。先日の草原で五十人からを相手どった襲撃対応より、よほど切羽詰まったなにかに突き動かされて。地獄など生ぬるいとばかりにバートンを追いかけ、追撃してくる。俺の手で痛苦を与え尽くさねば世界が滅ぶとばかりにバートンへ手を伸ばし、
追いつき、
バートンの前髪をつかみ、
引き千切るほどの勢いで、さらに魔王が加速する足しにした。
胸倉をつかみ、
フリル付きの生地が悲鳴を上げて裂けるのもかまわず引っ張り上げ、
反動でくるりとたがいの上下の位置を入れ替えた。
より地獄に近い位置にとってかわった魔王から、今度は上方へ突き飛ばされる。今日何度めかの痛打。呼吸が止まる。双掌打だと打たれてから気づいた。衝撃の強さだけ、落下速度が殺される。魔王との距離が離れた。打撃直後に魔王がなんらかの印を高速で切った。障壁。結界。魔王の手許で張られたそれに、直後バートンが激突した。弾性のある壁にびたんと全身をやわらかく叩きつけられる。
それでも魔王の手による障壁は壊れることなく展開を続け、バートンの荷重を受け止め、上方へと跳ね返そうとたわみ、力を溜めて、
その直後に魔王が落とし穴の底へ激突して即死した。魔王のむきだしの後頭部からひかえめに肉片が飛び散り、床に広がった。術者の死に伴いバートンの落下を阻んでいた結界が雲散霧消する。再度数メートルの自由落下。目まぐるしい状況の移り変わりで、受け身を取る準備姿勢などとりようもなかった。コンマ数秒遅れで魔王の死体に追いつき、全身を強く打ち据えられた。死体の上でバートンは自分の意識の許容量を超えたダメージにのたうった。のたうち続けた。
それはつまり、少なくとも、バートンだけは即死をまぬがれたことを意味していた。
エミーナは、フロアマスターとして一階から二階へ通じる唯一の階段の前で中継を見ていた。
周囲があわただしく動いている。
トーマがみずから落とし穴に飛び込んだのは、じつはこれがはじめてというわけではなかった。カメラマンがライトスタッフとともに現地へ駆けつけ、落とし穴の底を照らす手配をおこなうのも比較的速やかに進んでいた。
ゲーム終了が宣されると、今夜の収録は終了ということになる。その後はメディカルスタッフが魔導で降下してふたりを救出することになるだろう、とディレクターから説明を受けた。
エミーナはそうですかとだけ言って、我知らずくちびるを噛んだ。
少なくとも今週はもう全国ネットで恥をさらさずに済んだということでいいのだろう。
だから、自分はもっと喜ぶべきなのだろう。
ほっとした表情でこの先予想される展開を説明しにきてくれたディレクターに礼を言って、おつかれさまでしたとお辞儀をして、早々に楽屋へ引っ込んで武器をロッカーに押し込んで身の丈に合わない代物を手放せる幸運を祝うべきなのだろう。
だが、実際には、エミーナはいらだちを覚えていた。新調した武器をぎゅっと握って、むしろこれから戦いに臨むかのように鋭い目で、落とし穴に飛び込んでいくトーマの多角的リプレイ画面をにらみつけていた。
自分でもとまどいを覚えていた。なんだこの気持ちは。どうしてこんなにとげとげしい感情が心に汲みだされてくるのか。
エミーナの妹分がこの中継を見てどんな顔をしているのだろうかと思いを馳せ、少なくともかのじょが手放しに喜んでいないだろうことは確信できた。
つまり、なにがしかのまだ見えない根拠にもとづきこの反応が起きているということだ。
エミーナはひとりうなずいて、人目のない場所への移動を始めた。今週の番組は終わった。なら、その先に追加の挑戦を行うのは余人の目がないところでやりたかった。
エミーナの戦いの夜は、これからだった。それまで、型の確認を念入りにやりたい。
エミーナは番組で勝つことなど求められていなかったし、自身もそこまでの強い使命感に駆られることなど、これまでなかった。
いまは違った。今夜は絶対に負けられない戦いとなる予感がしていた。
なんかちょいちょい読み返しに来ていただいてきょうしゅくです。ありがとうございます。
今話で1章を終わりにする予定だったのですが、圧縮が追いつかず実質前後編みたいなかたちとなっています。
次回でメイド服お姉さんと非公式に殴り合って2話めの下地が完成予定です。