02 杖術士エミーナ 一
前回までのあらすじ
・主人公トーマ、夜這いに及ぶ前に二度死亡
・ヒロインシルフィア、魔法を使って自宅の敷地ごと主人公とギャラリーを消し飛ばす
・二人の痴態は人界全土に毎週TV中継されている設定
……我ながら、なかなかひでえと思うます(小声)。
魔界へと到る次元の裂け目。これが近年になって発見されたサラドネ地方は、人界首都から見て西の果ても果てにある広大な土地だ。
ただ西部とも呼ばれる。
気候は穏やか、一年を通して温暖。広大な平地や草原。窪地に水が溜まってできた湿地、そしてそこここに人の手が入りきらない森林ばかりがどこまでも広がっている。
地形はほとんど平たい。起伏がないわけではないが南に申し訳程度の山がある以外、どこまでも見通しがよい。丘陵とも呼べないような、果ての果てまで緩い傾斜の続くこの故郷を馬に乗ってどこまでも駆けていくのがシルフィアはことのほか好きだった。
首都の魔導学院にだって本当は行きたくなかったのだ。
サラドネの一部を代々預かるスパルティアン家は、本来武門の血筋だ。放牧された家畜を狙う獣や草原を神出鬼没に移動する賊と渡り合い、被害を抑える役割を担っている。
シルフィア自身も、馬に乗って弓に矢をつがえるほうがずっと性に合っていた。彼女はずっと当主である父に自身の適性を訴えたのだが、父はそれを聞き入れてくれなかった。
結果から言うと、シルフィアを中央に出して教育を受けさせた慧眼を、のちに当主は周囲から大いに褒め称えられることとなった。
魔導の勉強を始めるのは早ければ早いほどよいと言われているが、一二歳というどうしようもない周回遅れの状態から中央で優秀な家庭教師をつけられたシルフィアはみるみるその才能を開花。同世代への遅れを一気に取り戻し、首都でも有数の魔導私塾へ編入。
そこでも飛び級を重ねて一六歳で王立学院の魔導研究室へ引っこ抜かれ、年上に囲まれながら担当教官に是非にと書かされている論文の裏に、故郷に帰ってひたすら風になりたいなどとポエムを綴り気晴らしするのがシルフィアの日常だった。
だった。
「風になりたかった……」
寝室のベッドで天蓋を見上げながらさめざめと泣くシルフィアに、やれやれという表情で年来の付き合いになる優秀な家庭教師エミーナは使用人の制服に身を包んで朝食の配膳を続けていた。
火急の用件という名目で灰色の研究生活から故郷へと呼び戻す報を受け、全身で喜びを表現していた無邪気な才媛シルフィアは、もう世界の何処にもいない。
ギャグテイストでまとめられた三文芝居のヒロイン役をリアルに割り当てられた、ただただ哀れな十代の少女が、寝台から起き上がりたくもないとむずがっているばかりだった。
いつもはエミーナも、シルフィアに寝室で朝食などという我が儘を許したりはしない。この四年で三度もなかったことだ。
だが、さすがに全国中継下、一張羅でおめかししたのを披露した直後、場末の酒場で披露するような下ネタの具にされたとあっては、立ち直れないのも仕方のないところかもしれないと思ったのだった。なにせまだ十代の娘、社交界デビューを夢見てもおかしくない年頃の、それも世間ずれしていないうぶな書生なのである。そも、エミーナ自身も勉強に次ぐ勉強の人生で、あまり大きなことを言えたわけではないのだが。
「帰りたい。マジ首都に帰りたい。あの面白みとかなにひとつない無味乾燥な原稿用紙の中に埋もれたい。平和が、静寂が、年少の研究生に対するささやかな嫌がらせが、それを訴えた時の導師の腫れ物に触るかのようなうっとうしい扱いが恋しい……」
「姫をして、そこまで言わしめますか……」
「姫とかやめてよ。前みたいにお嬢様でいいじゃないのよ。政治的な都合でスパルティアン家が西部独立辺境領とかいう特区をでっちあげられて、父上がそこの王様名義になっただけなんだから」
「格の都合ですからねえ……私も世事には疎いのでよくわかりませんが、仮に人界と魔界の代表者が婚姻関係を結ぶとして、首都におわす世界統一事業を成し遂げた国王陛下のご息女を魔王殿に当てるというのは、さすがに世論というものが」
「だからって、代わりに私を下劣な蛮族に差し出していいことにはなんないわよね!?」
がばっと起き上がってシルフィアがエミーナを睨みつける。エミーナはそうですねと気のない返事を返し、シルフィアが蹴り上げかけ咄嗟に上方に避難させた配膳盆を下ろした。
実のところ、政治的にはエミーナの認識とはまったく違う事情でスパルティアン家は連合内王家に祭り上げられていたのだが、それを指摘できる文官の類はこの場にいなかった。女学生の寝室にこれまた先輩の女学生が訪問して世話を焼いているという形の話であるから、仕方のないことではあるが。
もっとも、いたとしても指摘したかどうかは怪しい。事情がどうあれ、シルフィアの傷心は既に確定していたことだったから、藪をつついて蛇を出すまでもない。
「朝食のお支度ができましたよ。トーストにジャムはご自分でお塗りになりますか」
「……塗って」
シルフィアが両手でホットミルクのカップを包み込みながら、弱々しく甘えてくるのに苦笑する。
「仰せのままに、お嬢様」
ちびちびずずずと行儀悪く音を立ててホットミルクを啜るシルフィアを、今日は咎めない。
今日は土曜日。月曜にまた番組の制作会議があり、それまでにシルフィアをあやし立て直してやらねばなるまい。
だが、ちょっとやそっとでは間に合うまい。トーストの端から端までたっぷりと苺のジャムを塗ってやりながら、齢の離れた妹を扱うような心地でエミーナは考えた。
同調するのは容易い。一月も共に悲嘆に暮れれば飽きて別のことに興味を持ち、そのついでにこの痛手も忘れてくれるかもしれない。だが、それでは間に合うまい。
――くれぐれも、くれぐれも、くれぐれもよろしく頼む。
当主にはそのように手を握られ、跪かれてまで頼まれている。
まだそんな齢でもなかろうに既に薄くなりつつある頭頂部をエミーナに晒してでも、シルフィアの父君、エミーナの雇い主が望んだことなのだ。
応えてさしあげねばなるまい。
エミーナはもそもそとトーストを力なく食べるシルフィアを見下ろしながら、二枚目のトーストに葡萄のジャムを塗りたくっていった。
今朝はシルフィアを甘やかすと決めていたので、彼女の嫌うサラダの類は今日はない。地産のきつい塩味のベーコンを薄く切ってかりかりになるまで焼いたものをジャムを塗ったトーストを食べる合間に挟むという神経がエミーナには理解できなかったが、これも口にしない。
シルフィアは完全に空気を読んでエミーナの肩に頭をもたれかからせ、存分に甘やかされることに決めたようだった。
シルフィアには決して裏切らない味方がいる。そんなエミーナの言外のメッセージが伝わったということだ。
話をどう組み立てるか。エミーナははむはむちゅるちゅると麺料理のごとく行儀悪くベーコンを一枚まるごと口に含もうとしているシルフィアを見下ろしお茶をセットしつつ、政治的な思考を巡らせた。着地点を設定し、経路を複数用意、そこにより多くつながる出発点を定めねばならない。
果たしてそれはなにか。
本来手がかからず察しのよいこの少女は、当然自身の頼れる家庭教師がなんらかの結論に導くべく話を切り出してくることに心のどこかで備えているだろう。
結局のところ、シルフィアに押し付けられた役どころは返上できるものではない。それはシルフィアにも理解できている。そのうえで現状に承服しかねているというのがシルフィアの立場で、これはシルフィアにとって決して譲れない一線だ。
だから、これをなだめてはならない。なだめれば――「まあまあ、そう頑なになるものじゃありませんよ。おおらかに見逃してやるのも器量というものじゃありませんか」――エミーナとシルフィアの立ち位置が対立するものとして決定的になってしまう。
シルフィアは自身に課せられた役目そのものを否定しているわけではない。もちろん意に沿わない婚姻など否定できるなら否定したいだろうが、身分立場ある家の子女の婚姻が完全に自由になるわけではないことくらい理解はできている。
相手を選べないのは仕方がない。
だが、だからといって娘らしい恋を放棄したわけではない。
そして、昨晩用意された番組は――というより昨晩用意された番組"も"――娘らしさや恋っぽさがなにひとつなかった。自分に残された最後の聖域を取り上げられるところだった。
だから本気で怒った。
だから本気で悲しんだ。
自分の心をないがしろにされたと感じたのだ。
(問題は、笑いものにされているということだ)エミーナは若干の同情を覚えた自分を胸中のメモに写し取りながら、素知らぬ顔で二枚目のトーストに挑みかかるシルフィアのずれた前掛けを直してやった。(自分の人生が自由にならないなら、せめて尊厳だけは保ちたい。この点は譲れないだろうし、私も心の底から同意できる)
感情がそう動くというのはこの年下の少女との交渉事においてプラスに働くはずだった。なにせ、シルフィアは敏い娘だった。嘘や欺瞞を一目で見抜く洞察力がある。だからこそ、エミーナに偽りがないことへ疑いを持たないはずだ。
それを活かし、いつもの活力あふれたシルフィアに戻れるよう誘導、そこに二心なくただこの生徒を案じる気持ちが伝わる切り出しとはなにか。それも自然に。エミーナから水を向ける形ではなく、あくまでシルフィアの甘えの延長上にある話題であることが好ましい。そんな都合のいい話題があるだろうかと自問する。
――あった。
トーストの皿を下げてやりながら茶と茶菓子を配膳台に並べつつ、エミーナは自身にべったりのシルフィアをやわらかく押し戻し、お茶を傾けてこぼさないよう小言を述べてから、言った。
「お嬢様は乗馬がお好きだと首都では事あるごとに仰ってましたね。学院の課題は今日はお休みにして、『風になり』に行きますか?」
「本館から人員は出せませんね」
ロッファはにべもなくエミーナの要請を切って捨てた。
エミーナは生徒の機嫌を直すための提案をしたつもりだった。
具体的には、本館から人員を借りて半日ほど供をつけ、青空の下で気ままに自由行動させて気鬱を吹き飛ばせればよいと考えていた。
エミーナは本来小言を言う係だ。だから、本当の意味でリフレッシュさせるために、エミーナ自身からもシルフィアを解放するつもりでいた。そのためには、別のお目付け役がいる。さすがに大貴族の令嬢を、供もなしに一人で外に出すわけにはいかないだろう。
人員管理を請け負っている本館執事のロッファにその旨を伝え、そしてにべもなく断られた時には、さすがに少々反発するものが芽生えもする。
なにせ、当主様たっての頼みでプランニングしているのだ。
たしかにやりくりは大変かもしれない。だが、優先順位が高いはずの案件について、なぜそんなにも冷たくあしらわれなければならないのか。
表情と内心の連絡を断って、外側に柔らかい笑顔を貼り付けながら内側で荒れ狂うも、エミーナは食い下がって「そこをなんとか一人でも馬に乗れる女性を出してほしい」と執事のロッファに頼み込もうとした。
実際には、ひきつった顔で粘り強くエミーナが交渉を続けようとしたその横から、シルフィアがあっけらかんと言い出されるのに言葉の先を潰される。
不意に背筋に怖気が走った。破滅とは見えない死角に巧妙に隠れ潜んでいるものだと知った時には、もう手遅れだった。
「そう? まあそうよね。私の魔術で敷地内はボロボロだもの。そりゃあ総出で復旧になるわよね。しかたないわ。じゃあ馬だけ手配してちょうだい。先生と二人で遠出するから」
この教え子はいったい何を言い出すのか。エミーナは眼を剥いて傍らの少女を見た。
首都生まれ首都育ち、寝ても覚めても勉強ばかりで、身体を動かすことと言えば必要に応じて要人の付き人として護身術をかじった程度しかない都会っ子のエミーナに、乗馬技能などあるわけないではないか。
「エミーナ女史には乗馬のご経験が?」
「いえ、ありません。ですので、どなたか本館から人を出してくださらないと」
「そんな余裕は本当にございません。当家のお客様としてお迎えしている魔王のお二人、本来はこの世界の主敵にして今は賓客であるかたがたすら、早朝から庭園の修復にご助力いただいておるのです」言外に、自宅敷地で大魔法戦攻防をやらかした張本人が遊びに行くとはどういう根性してんだコラという空気を言葉の端々に滲ませながら、しかし表情は眉一つ動かさず執事が言った。「当家にも面目というものがございます。お嬢様のおられる離れに詰めている人員も、本日ばかりは私の一存で復旧作業に動員しております。といって、お嬢様を供なしで外にお出しするわけにもまいりません。心苦しいのですが、エミーナ女史にはなにとぞお嬢様をお願いしたく」
「ですから私は馬に乗ったことがないんです……!」
迫りくる何かの予感に必死に抗おうとエミーナは既知の情報を繰り返し提示した。
が、誰も聞いていない。シルフィアが指をぱちんと鳴らした。執事が令嬢のはしたない仕草をたしなめるような視線と、家庭教師が教え子の善意に満ちた危険な思い付きにおびえるような視線を集めながら、どちらも意に介さずにシルフィアは口を開く。
「体格のあるニュルロニチャリヌプスがいいわ。あの子なら先生と私、二人ぶんの体重も支えられるでしょう」
「御意」
「いやいや。いやいやいやいや」エミーナはぶんぶんと首を横に振った。「そんなにお屋敷が大変だったのでしたら、今日は私も微力ながらお手伝いいたします。遠出は明日にしましょう、お嬢様」
「実はお嬢様がそのように仰せになるかもしれないと思い、既に馬房の者にはお嬢様のお望みに応えられるよう、どの馬でも出せるように伝えてございます。既に鞍などの準備もしてあることでしょう。お出かけ前には厨房にもお寄りください。持ち出し用の軽食と飲料を二人分、先行して用意するよう指示してございます」
「さすがロッファ。気が利くわね」
「恐縮です」
エミーナを置いて勝手に話がまとまっていくのを、エミーナは見ていることしかできなかった。
自分が手綱を取る必要もないというのだから、止めることもない。
ないはずだ。
自分がその場にいてもシルフィアがくつろげるというのであれば、寄せられた信頼はむしろ喜ばしいとさえ言える。
言えるはずだ。
だというのに、なぜだろう。どうにも、心臓が鼓動を刻むたびに胸の中に嫌な予感がどす黒く膨れ上がってくるのは――
エミーナは、知らなかった。
生き物の歩行には力強い筋肉のうねりと、体重移動に伴った上下運動が不可避かつ断続的に発生し続けることを。
その背に別の生き物がまたがるというのはどういうことなのかを。
そして今、文字通り痛烈にその身に思い知らされていた。
うつ伏せになって、馬の固い筋肉質な背に鞍越しに何度も打ち付けられ腫れあがった尻を庇いながら草原に突っ伏している自分が、この地上の誰よりもみじめな存在に思えてならなかった。
患部が衣擦れにすら敏感に痛みを訴えるため、スカートをたくしあげ、尻を外気に晒してうつ伏せになっている。
時々ゾンビのようなうめき声を上げながら、昨晩さんざ泣きはらした教え子よりも自分は不幸なのではないかと真剣に思い悩むほどだった。
さすがにこれは誰にも見せられない醜態だ。うわあやべえと顔に書いてある教え子の頭からは、すっかり昨晩のことがすっ飛んでいるように見えた。
となれば、これはミッション成功と言えるのか。犠牲はあまりにも大きかったが、とほろ苦いものを感じながらエミーナは胸中でひとりごちた。醜態を晒した者が、よりひどい他人の醜態を前にするというのは、傷心を和らげる効果があるものだ。
二人をここまで運んできてくれた、やたらがっしりした体格の馬ニュルロニチャリヌプスはそこらで草原の草をもくもくと食んでいた。彼(?)がもう少し名前の語感から連想されるような弾性というかうにょろうじゅるした乗り心地でいてくれたら、エミーナが尻を持って生まれてきたことを後悔するほど痛めつけられることもなかったと思うのだが、しょせん馬は馬に過ぎなかった。
「先生……だいじょうぶ?」
「大丈夫とは言い難いですけど、ええ、まあ。死にはしません。乙女の尊厳はボロボロですけども」
「ううっ……」
「誰もいないとはいえ、この青空の下、真っ赤になった臀部をむき出しにして身動きもとれなくなってますけど、大したことじゃありませんよ。昨晩のあなたに較べれば」
「ううううう」
「まあ、あなたは年頃の女の子の心理に通じていない年頃の男の子と不可抗力ですれ違った結果恥をかいただけで、私はもう四年のお付き合いにもなる親しい気心の知れたはずの女の子に、おしりをひっぱたかれ続けたようなものだという違いはありますが」
「あああああ。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「……お屋敷の使用人のこの制服。本当に可愛らしくて、袖を通す時は内心とてもわくわくしたものです。だからこそ、この丈の長いスカートをまくっておしりを丸出しにするというのがどれだけみじめな落差を生むかは、お嬢様にはちょっとわからないかもしれませんね……」
ふっと諦めと絶望に満ちた表情を作るエミーナの追求にシルフィアは声にならない悲鳴をあげて頭を掻きむしった。
このくらいいじめてやったほうがお互いいい気分転換になるだろうと思いながら、エミーナはくすくす笑う。
それも次の瞬間までのことだった。
「おおい」
声を聴いたとたん、シルフィアの気配が戦闘態勢のそれに変わった。
エミーナはため息をついて、そっと風に晒して冷やしていた臀部を隠すべく、まくりあげていたスカートをしずしずと刺激や摩擦を起こさないように下ろした。さすがに殿方に見せていい姿ではない。
それにしたって、シルフィアの気分がほぐれようとした時にわざわざ来なくても。
エミーナは苦虫を噛み潰したような表情で、遠くの窪地から駆け上がって顔を覗かせた次世代魔王、トーマの顔を睨んだ。
両手を上げて交戦の意思がないことを示しながら、次世代の魔王であり、かつシルフィアの怨敵たるトーマは、ゆっくりと二人に歩み寄ってきた。肩からは水筒らしきものを提げている。
「何の用?」
とげとげしくつっけんどんに問うシルフィア。
トーマは勢いに気圧され、いえ、その、別に姫に用というわけではないんですが……とかなんとか、しどろもどろに口ごもった。
あああ、と内心でエミーナは目を覆う。そこは普通、昨晩の件についてフォローの一手しかないだろう。たとえ嘘でも「あなたを追いかけてきました」と言うところではないのか。それでシルフィアの機嫌が直ることはないにしても、悪化することもないのだから。
「お前に興味はない」などととられかねない、悪化する方向へ追い打ちをかける言葉を選んでどうするのだ。
エミーナは横目で彼女の大事な教え子を見やった。
唇が笑みの形に歪んでいる。
全身から魔力が漏れ出ていた。
エミーナは学士であって術師を本業としていないが、それでもシルフィアの基礎教養と初歩から中級的な魔導の入り口まで幅広く付きっきりで教導しただけあって、それなりの術式の心得はあった。魔導という専門分野ではもはやシルフィアに遠く及ばないものの、シルフィアが昨夜にもひけをとらない規模の戦術級攻撃魔法を編み上げるのに十分な量の魔力を空間に染み出させていることはすぐにわかった。
トーマにもなんらかの気配は伝わっているのだろう。頭の高さまで掲げた両手を、完全にぴんと肘を伸ばして更に高さを稼ぎ、交戦の意思がないことをことさらに強くアピールした。
だが、交戦のトリガーは彼が自身で引いたに等しい、とエミーナは虚しい思いを噛み締めながら判定した。
まあ、寝室で泣き伏しているよりは、ここで魔王見習の少年を五度ほど消し炭に変えてなお収まらぬ怒りに燃えているくらいのほうが、ましといえばましなのかもしれない。
「届け物にきたんですよ。それが終われば焼くなり切り刻むなり好きにしていただいていいですから」
震え声、しかし半ばあきらめ顔でトーマは言うと、肩から下げていた水筒らしきものを手に取り、地面に置いた。
そのままこちらを向きつつ数歩後ずさる。
手渡そうと近づけば、即座に撃たれると判断したのだろう。(そして、それはたぶん正しいとエミーナは採点した)
「何よ。それは」
「悲鳴を上げる都会の人を乗せて、姫が馬で矢のように飛び出していくのが見えましたので、擦り傷等に使う軟膏をお届けにあがりました」
草原を500メートルほど直線状に焼き払う魔術をいつでも抜き撃てる態勢でいたシルフィアが、うぐ、と喉を詰まらせ、固まった。
エミーナはため息をつく。なぜその気遣いが、当の姫に向かわないのかと。いや、個人的には非常にありがたい。ありがたくはあるのだが。
今は隠れているスカートの中に思いを馳せる。今もやけどに似た熱感を持つ痛みに苛まれている患部に。摩擦熱によるところも大きいから、やけどという表現はあながち大げさでもない。早めに冷やし、手当すれば症状も緩和される可能性が高い、とエミーナは自己診断した。
だが。
「持って帰りなさい。不要よ」
「えええええっ!?」
意固地になって斜め上の回答をたたき出すシルフィアに、さすがにエミーナは悲鳴を上げた。
「エミーナ先生は馬術のセンスもおありみたいで、すぐにニュルロニチャリヌプスを乗りこなされたわ。全然平気よ。残念だったわね。館のほかの人みたいに点数を稼いで取り入り、先生を篭絡しようとしたんでしょうけど、お生憎さま。見当違いの空振り。しょせん文明レベルの違う魔界者の浅知恵ってやつね」
ね、先生? と付き合いの長いエミーナにだけわかる、すがるような目でシルフィアはエミーナに顔を向けて、自身が無謀にも張った虚勢への同意を求めた。
――先生は味方だよね?
――私を裏切ったりしないよね?
いや、たしかにエミーナはシルフィアの第一の味方のつもりではいるけれども。
シルフィアの虚勢の代償に捧げられるのが、シルフィアの尻の肉ではなくエミーナのそれというのは、さすがにどうなのだ。
「……そ、そう、だった、……か、……な……?」
脂汗を垂らしながら、目力をこめてエミーナはシルフィアに方針の転換を要求した。
この場だけは合わせてやる。だが、薬は置いていかせろ。でないとマジで恥も外聞もなく今この場で泣き叫ぶぞ――そんな必死さのこもった脅しをかける。
高度な政治的駆け引きと鍔迫り合いがアイコンタクトを通じて交わされた。
同盟の維持を謳うなら、盟主は同盟国の窮地に際し、最大限得られるものを獲得すべきだ。エミーナの主張はごくまっとうなもののはずだった。
だが。
「ほら見なさい! 先生もこう言っているわ! 持って帰りなさい! すごすごと! おめおめと! 七ミリくらいに小さくなって敗走なさい!」
「!?」
シルフィアは胸をそらせて、トーマに向き直った。
裏切るのか。
同盟を持ち掛けておきながら、ここで自分を裏切り、自身の誇りだけを守ろうというのか。
エミーナは絶望に落ちかけ、しかし晒されたシルフィアの横顔に気づく。
特に負傷を負っていないはずのシルフィアまでこめかみにじっとりと脂汗が滲んでいた。思えば、シルフィアはまだ子供だ。恋愛の機微や押し引きがわからない子供が、いっぱいいっぱいになって、求められている新たな手筋を編めずにそれまでの路線に固執するというのは、よくあることかもしれなかった。
歴史を紐解けば、英明なはずの君主が外交の土壇場においてどうしようもなく稚拙な要求に終始し、袋小路に追い込まれた例などいくらでも見つかるではないか。
一六の小娘にとって、今がそれなのだ。失点のなにがいけない?
そう、しかたのないことなのだ。諦めるしかないことだって、世の中にはある。納得するしかないと思えた――かかっているのが、エミーナの尻でなければ。
ギっと音を立てんばかりに、エミーナは鋭い視線をトーマに飛ばした。
同盟国が力を尽くして駄目だというのであれば、これはもう対立する敵国以外に状況を動かせるプレイヤーはいない。
つまり、シルフィアの主張を立て、面目を守りつつ、薬筒じたいは置いていく口実をトーマが思いつけるかどうかにかかっている。
シルフィアも内心では自力でなんとかできないこと、外交主張の転換をトーマに頼らざるを得ないことを認めている。そこまでが最大限の譲歩ということだろう。
二人の才女に決死の視線を向けられて、トーマはわけもわからずさらにたじろいだ。
シルフィアの殺意が先ほどより増したと思ったら、今度は自分が助けに来た対象であるはずのエミーナからも殺意に似たなにかを向けられている。いや、ある意味では殺意そのものかもしれない。このまま薬筒を持って立ち去ろうものなら殺す。それほどの迫力をエミーナは自分の双眸に込めているつもりだったから。
だが、察しの悪いトーマにわかるのは、二人がものすごく切実ななにかに苛まれているというところまでだ。具体的に何を求められているかまではてんで理解できない。
エミーナの態勢からいって、どう考えても薬は必要な気がする。が、勘違いだから持ち帰れと言われた。ならば持ち帰るべきなのだろう。
なのに、その道理に従うと攻撃されそうな気がするのはなぜなのだ。
「気を遣え」と一言で言えば簡単な話に見えて、実はまったくそうではない。
「口頭にて求められているものとは逆の行為を、なにか口実を見つけて遂行しろ」というのは、考えてみればいかにも難癖だ。だが、社会においては高度な政治判断を求められる局面が時に存在する。
問題は、致命的なまでに察しの悪いトーマの判断にすべてをゆだねてしまったことだ。進退窮まった様子の少年の手をとって、「逃げるな、絶対に逃げるな」と強く握ってやれば、なんらかのヒントとして伝わり難易度を下げることができるのだが、とエミーナは思った。
だが、うつぶせに突っ伏したエミーナがこのタイミングで立ち上がるのはあまりに不自然だ。
シルフィアにも求められない。ヒントをとばせるくらいなら、そもそもこの少年相手に意地を張って自分で自分を追い込んだりはすまい。
必要なのは時間だ。
エミーナは、当人も知らぬうちに、奇しくも魔王という天災に直面したシルフィアの父らと同じ政治的判断に辿り着いた。
シルフィアの父が相手取っているのは、実質的には人界中枢のお偉方で、
エミーナが相手取っているのは、実質的にはシルフィアだ。
何らかの妥協を引き出さねば、西部地方ひいては全世界とエミーナの尻の肉が悲惨な末路を辿るだろうところまで相似形となっている。
時間を稼いで少しでも状況を好転させなければならない。
エミーナは自制心を最大限に駆使し、ともすれば声音に現れかねない必死さを抑制、膠着した三人の間の空気をほどくべくやれやれといったように聞こえる調子で言った。
「お嬢様、せっかくトーマどのが善意で来てくださったのです。たとえ彼の杞憂だったとしても、相応のお礼くらいは差し上げるべきなのでは」
求めていたなにかのきっかけを与えられたシルフィアは、弾かれたようにエミーナに向き直った。
「でも、先生」
「お嬢様にわだかまりがあるのはわかります。わだかまりを忘れろという話ではありません。わだかまりについて譲歩を行えという話でもありません」
「…………」
「ただ、手土産を持ってきた友好的な人物には、過去の行き違いはどうあれ、相応の処遇というものがあるのではないですか。お嬢様の名誉は、結局のところお嬢様ご自身の振る舞いの積み重ねだけが守ってくれるのです。その名誉が謂われない扱いで傷つけられたというなら、なおさらお嬢様自身が自暴自棄になってはいけません」
「…………はい…………」
シルフィアは口では反抗したが、しかし自分では曲げられなかった方針を転換できることに感謝の光を目に浮かべて、エミーナへと不承不承といった体でうなずいた。
そして、二人とも全く同じタイミングでトーマを見る。トーマが思わず半歩後ずさるほどの圧力を伴って、二人の眼光はトーマを射抜いた。
作り笑いを浮かべて、しかし獲物を追い詰めた猫のように何物も逃すまいという女性二人の気迫が、この開けた空間には満ちていた。
「トーマどの。せっかくですからよろしければ少し早いお昼をご一緒しませんか。お気遣いいただいたことへのお礼を、どうかさせてください」
「ああ……いえ……おかまいなく……」逃げたい。この場から。全力で。トーマは事情が分からないなりに本能的に危険を察知しながら、うめくように答えた。「お二人をお邪魔する気はなかったんです。ほんとに些細な申し出のつもりが、ご迷惑になってしまったようで申し訳ございません」
よくわかりませんけど、謝りますからどうか見逃してください。
そう言おうとしたトーマは、しかしエミーナに言葉を遮られた。
「トーマどの。お礼を、どうか、させて、ください」文節ごとにはっきりとした発音で、唇から白い歯の先を見せつけながらエミーナは繰り返した。「三度は申しません。お嬢様のもてなしを断って、お嬢様に恥をかかせぬよう、どうか、そこに、お座りに、なって、ください」
言外に、「座れ。いーから。」という威圧を滲ませながら凄むエミーナに、トーマは観念してうなだれながら、はい、と蚊の鳴くような声で返事をしかけ、
情けなかった目つきから一転、鋭い視線を周囲に走らせた。
遅れて草を食んでいたニュルロニチャリヌプスがぴくりと耳を立てて、首を上げる。
トーマがまず初めに行ったのは、二人の才女とその許へ周囲を警戒しながら戻ろうとする乗馬をまとめて包み込む結界を、呪文も印切もなしに瞬時に張り巡らせることだった。
唐突な行為に言葉を失う二人。
五秒近い空白を経てエミーナが我を取り戻し、何事かと問いただそうとした矢先、数十の矢が三人と一頭の頭上に殺到し、エミーナの喉元まできていた言葉を意味のない空気の漏れ出す音に書き換えた。
「……腐っても、魔王なのね」いまいましげにシルフィアは悪態をついた。付き合いの長いエミーナには、教え子の声が震えているのを隠しきれていないことに気づくことができた。教え子は続けた。「結界の展開が速い。触媒もないのに強度も十分。従軍免許と貴人護衛の心得を持つ首都の宮廷魔導士でも、ここまで即応態勢で堅固な防御を整られる人間は限られるわ。悔しいことに」
教え子の言葉をよそに、エミーナは目の前の光景に息を飲んでいた。
結界表面に阻まれて、結界のすぐ脇にずれて着弾、地面に突き立った数十の矢を、すぐには現実のそれと認めることができなかった。
では、なにからずれたのか。
言うまでもない。結界の内にいるエミーナとシルフィア、そしてその愛馬からだ。
自分たちを殺そうとして矢を射た者らがいる。そんな簡単な現実に、脳がどうしても追いついてくれない。
だが、その危難へ対応した当のトーマが結界の外にいることを思い出して、ついにエミーナから小さな悲鳴が漏れた。
「トーマ殿!?」
「生きてますよ」
察しの悪い少年は、苦痛を声に滲ませながらも、大した損害はないかのように装った。頭部をかばった右腕に二本、エミーナからは見えないが、背中から一本の矢を生やした状態で。
「言っておくけど、私じゃないわよ」
シルフィアの唇を震わせた強がりに、トーマはにやりと笑ってみせた。そういう不敵なところは父親によく似ている。
あるいは、ただこういう時に少年の知る一番心強い人物のそれを真似ただけなのかもしれないが。
「わかってますよ。姫様ならこんな搦手に頼らなくてもぼくをなんとかできること、昨晩にじゅうぶん思い知らされてますから」
「すぐに第二射が来るわよ。あんたも結界に入りなさいよ」
「とんでもない。狙いはぼくです。ぼくが応戦しなくてどうするんですか」魔王は右腕から無造作に矢を引き抜いて投げ捨てながら言った。矢じりには返しがついていて、体組織が無造作にひきちぎられたが、気にする様子すらない。修復が始まっている右腕で背中の矢を同様に引っこ抜く。「結界の維持と補強は姫様にお任せします。エミーナさんを守ってください」
「全員籠城して応援待てばいいだけの話なのに、馬鹿なの? スパルティアン家の領内で起きた無法よ。スパルティアン家が主導して対処するに決まってんでしょうよ。野蛮人はすっこんでなさい」
「死なない怪物相手にじゃれかかっただけのことですよ」しれっと少年はすっとぼけた。全方向から殺到する矢の群れを竜巻で吹き散らしながら、犬歯を剥きだしにする。「遊んでくれるというなら、ぼくとしては先方のご厚意に甘えたいところです」
かちんときたシルフィアが結界の中からトーマに言い返そうとしたが、それ以上はもう議論にならなかった。トーマは地を蹴って、目視した中で最も手近な発射点へと、一直線に飛び出していた。
エミーナとシルフィアは、あっという間に小さくなって丈の高い草むらに消えていく少年の背中を見送ることしかできなかった。
それこそ、風か矢のごとく。
というわけで一階ボスの顔見せでございます。
以降キャラ掘り下つつ中バトルを挟んでボス攻略、でワンセット。それを五階ぶん+αやって完結に持っていきたいなあと考えております。
(更新ペースはだいぶ遅いものになりますが、ご容赦くださいませ)