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01 男子よ、起て

 お口に合うかわかりませんが、よろしくお願い申し上げます。

 どんどこ どんどこ どんどこ どんどこ どんどこ どんどこ どんどこ どんどこ――


「ヲァエッチャラララララララッ!」


 どんどこ どんどこ どんどこ どんどこ どんどこ どんどこ どんどこ どんどこ――


「ヲァエッチャラララララララッ!」


 太鼓の乱打。

 野太い男たちの咆哮。

 あちこちに焚かれたかがり火の切れ端。

 人間たちの生み出す熱気が空に吸い込まれていく。


 その世界の夏も、日照時間は長くなる傾向があった。

 一九時ともなればさすがに空も暗くなるが、西の山の端からは未だ黄金の光が未練がましく漏れ差している。月は中天に高く上り、気早に夜の支配を宣言していた。


 辺境だった。堅苦しくも清潔できらびやかな首都ではない。

 牧畜と農耕が主産業ののどかな田舎、

 草木と森林と自然と大自然と藪蚊が豊富な、動物と動物の糞尿の臭いが日常から消えることのないド田舎。

 この地を治める地方豪族の邸宅、敷地内のことである。


 母屋本館とは別に突貫で建てられた、ややファンシー気味なシルエットを持つ築一年にも満たない()()()()()()()()()()()()。これを囲んで、領民たちが思い思いにビールを傾け、トトカルチョに興じていた。

 今日も早々に報道局が入って入念な準備を整えたのだろう、リハーサルと寸分たがわぬ軌道を描いて照明から繰り出される光の輪が舞台と客席を自由に行き来、乱舞する。

 その光の乱舞のさなか、時折舞台の手前と袖を照明がよぎると、ふんどし一枚の筋骨たくましい男どもが汗を飛び散らせつつ一心不乱に太鼓を叩いている姿が浮かび上がった。


 舞台の上では腰みのをつけた別の男どもが、太鼓のリズムに合わせて単調だが極端に速い動作で腰を引いては突き、引いては突きを繰り返しながらバックステップを主体にした動作でやはりこれも汗を飛び散らせつつ舞い猛っている。


 トーマはいつも不思議に思う。

 これは本当に必要なことなのだろうか。

 野外に特設された巨大モニターでは、

 舞台上のダンサーが身につけている股間の角がアップで映し出され、

 次のバックステップとともに角と腰みの、

 次のバックステップとともに角と腰みのと鍛え上げられた腹筋と大腿筋、

 次のバックステップとともに屈強な男たちが画面内に二人映し出され、

 次のバックステップと共に三人四人と増えながら遠ざかっていく、

 そんな構図が全体共有されている。


 そう。共有だ。これは全国中継されているのだ。


 自分の周囲にもメイクと衣装がつき、慌ただしそうにあれこれ世話を焼いている。

 これも本当に必要なことなのだろうかと、トーマは自問する。

 周囲に問うても、エンターテイメントというのはそういうものなんですと言われるだけなので、その問を満足に相手してくれるのは自分だけなのだった。


 この大仰な騒ぎはトーマがこれから挑むミッションには間違いなく不要なたぐいのもので、むしろ困難さを底上げする類の行為だと思うのだが、口には出せない。

 結局のところ、何もかもが善意で行われていたのだった。善意となると、これはもうどうしようもない。自分など、ある意味押し付けがましい善意の最たる象徴だ。だから、トーマには何も言う資格がない。

 時に暴力をもってその善を為す立場となればなおさらだ。


 楽屋から、横目でちらりとバカ騒ぎになっている客席――というか酒席――を見やる。

 トーマの父親、現世代の魔王が目ざとく視線を感じ取ってこちらを向き、にやにや笑いながら大きく手を振ってくる。

 もう片方の手にはビールジョッキが握られ、トーマとは面識のない地元労働者の首と肩に腕が回されていた。地元のかたの手前、軽く目礼を行ったが、通じたのかは怪しい。

 父も労働者も完全にできあがっており、何やら下品なジョークを交わし合って盛り上がっていた。

 自分がああなれるともああなりたいとも思っていないが、立場的には羨ましいものを感じずにはいられない。


 父は父でやるべきことをやっているのだから八つ当たりなのだろうが、ああもあけすけに楽しまれると鼻白んでしまうのは仕方のないことだった。


「トーマ殿」


 自分の名前が呼ばれた。行かなくてはならない。気乗りはしないが。

 ため息をついて、トーマは最終打ち合わせに誘ってきたディレクターの元へと歩いて行った。




 照明が止められ、一時的に夜闇の帳が落ちた。

 気が付けばもう二〇時近い。

 深遠にして母なる闇の訪れと同時に、盛り上がっていた喧噪も、潮が引くように収まっていった。

 繰り返すが、何もかもが善意で行われていた。集まっている領民たちも、別に悪意があって騒いでいたのではない。彼らには彼らなりの、彼らの戴く愛すべき姫君への敬意があるのだ。

 セレモニーに際して、沈黙すべき時には沈黙する。たとえ飲んだくれていようと。

 赤ら顔でも、ほんの一瞬くらいなら自分の我儘より優先すべきものがあると見失わずにいられる、愛すべき人々。ビールを傾けながら、静かに事を見守る。

 誰かが喉を鳴らした。これはビールで喉を潤したのではない。唾と共に酒臭い息を飲みこむことで、この神聖な空気を今だけでも汚すことを嫌ったのだ――


 アシスタントディレクターの一人がカウントを始める。はいいきまーす、ワン、ツー、スリー……

 照明が再び点灯した。ただし、それはさきほどまで男たちが踊り狂っていた舞台へと差さない。

 咲き乱れる花々、庭師たちが丹精込めて整えた小さな庭園、その中央を明るみに出した。

 そこにはトーマが立っている。どこかしらけたような顔で。


 これについては番組へと「やる気がなさそうだ」「覇気が足りない」「真剣みが感じられない」などと苦情が山のように寄せられたものだった。初期は。

 だが、番組がトーマに密着取材を重ねるにつれて、現在では苦情の数が少しずつ減っていく傾向にある。

 つまり、トーマはどう頑張っても、こういう顔しかできない男であり、それが受け入れられていったのだ。

 トーマは素朴で正直で、しかし熱意や情熱がなかなか表に出てこない男なのだと。


 陰気というのはいかにも番組映えしない要素なのだが、ディレクターはトーマに難しい演技を求めず、飾らないことに決めた。

 この番組は国家予算プロジェクトだ。尺は幾らでも取れた。

 番組はじっくりとトーマの生活を追いかけ続け、トーマが根暗で悲観的で少々つまらない少年であるとしても、決していじけずに黙々と取り組み続けるいっぱしの男であることを強く保障してみせたのだった。

 その集大成が、先ほどの番組オープニングの乱痴気騒ぎだ。オープニングではここ三か月のトーマの実直な取り組みを振り返る構成となっている。

 太鼓と男たちの奇声とともに、巨大なツボを三つ、頭頂部と両拳の上でバランスをとりながらスクワットをするトーマの姿。そこにオーバーラップする男性の腰みのと股間の角。そして夜空をバックにしたかがり火と、燃え散る火花。トーマが練習用の木人相手に拳を突く様に合わせて、股間の角が前後し、火花がスパークしている。

 画としてはこれ以上ないレベルで下品極まりないのだが、太鼓のリズムに原始的な角笛をイメージした力強い低音ベースの管楽器が加わり、まるで感動させるつもりのような演出でまとめられていた。


 そして、それに嘘はなかった。トーマは実際その通りの男だった。

 見世物にされても、周囲から受け入れられずに叩かれても、逆に見直されてやや過度に持ち上げられても、付き合いが終わった後は黙々とステージから下りて、スポットライトの当たらないところで、使命と、使命の準備にとりかかっていた。


 使命とは何か。

 これだ。この瞬間のことだ。

 今こうして庭に立ち、館を見上げる。これだ。

 トーマは一つうなずき、右手を挙げた。口を開き、カメラの向こうの視聴者と、それ以上に重要なトーマの相手に向かって、挨拶をする。


「こんばんは。いい夜這い日和で」


「死んでしまええっ!」


 五階のバルコニーから、ここまでほぼ触れられることのなかった姫君たるシルフィアは激怒した。必ず、この唐変木無神経の魔王を除かなければならぬと決意を新たにするのだった。




 どっと、酔っ払い共が沸いた。

 飛び交う指笛。


 直前、台本にないアドリブを入れ知恵したディレクターがぐっと拳を握るところ、そのわき腹に女性アシスタントディレクターが肘鉄を入れて悶絶させるのを横目に、トーマは間髪入れずシルフィアから投げつけられたモーニングスターをついと躱した。

 五階から柄付きのとげとげしい球体を的確に彼の頭に向けて投擲してくるシルフィア姫の制球力もなかなか凄まじいものがあると感心する。というかそもそもモーニングスターは投擲武器ではないのだが。なかったはずだ。この世界では違うのかもしれない。

 まあどうでもよろしい。トーマは徒手空拳で挑む、それがゲームのルールだ。この世界での武器の使い方がどうあろうと、それはトーマにとって役に立つ知識とならない。


 ひょいひょいひょいと五階のシルフィアから連続投擲される地元工房広告入りのフレイルをすんでのところで回避し続け、庭師渾身の花壇に流れ弾がいきそうなところはなんとか両手を添えて受け止める。凶暴な重力加速度と質量が乗った鉄球に、みしりと手首が悲鳴を上げた。勢いを殺しきれない。抱きかかえるようにして踏ん張り、そのまま倒れ込まないよう無理やり後ろに跳躍。草花を飛び越え、とんぼを切ろうとする。


 失敗した。


 花壇の縁に植えてあった煉瓦が頭頂部に突き刺さった。直撃した煉瓦はぶっ飛ばされた。目の奥に火花が散る。

 もんどりうって吹っ飛び、

 錐もみし、

 再び顔面から着地。そのまま首が骨折するしかない角度で反り返り、耐えきれず背骨が折れ曲がり、鼻血やら折れた前歯やら何やらを撒き散らした。二転三転。ぱたりと倒れ伏す。

 控えめに言っても、おおむね死んだ体である。


 そのままぴくりともしない。


 十秒。


 二十秒。


 さすがに酒宴のバカ騒ぎも時間が経つにつれて、しんと止んだ。

 空気が凍り付く。

 当の投擲を続けていたシルフィアさえやや青い顔をする中、泡を食った救護班とディレクターが駆け付けようとした。その時。

 誰かが声をあげた。


 大人に肩車された年端もいかない男の子が、どこかを指差している。

 倒れているトーマを指差している。

 まさか今更トーマが倒れ伏して動かないことに気づいたのか? 否――


「右手、右手!」


 右手?


 カメラマンが慌てて画面から見切れていたトーマの右手にフォーカスを合わせる。この地方の人々は総じて目がいい。誰もが中腰で立ち上がり、目を凝らそうとした。


 トーマの右手。それが引き絞るように握りしめられ、唯一親指だけが天を仰ぎ立っていた。

 漲っていた。

 屹立していた。

 もっとも、半ばからありえない方向に先端はへし折れていたが。爪も剥がれてぷらぷらと夜風に吹かれている。


「あいるびーばっく」


 ぽつりとトーマの父親、現世代魔王がつぶやく。


「それは?」


「知らん。だが、かつて、ある異世界ではあの仕種をした者に、そう声をかける伝承があったそうだ」


「異世界って、魔王、あんたの故郷の?」


「いや」顎に手をやって現世代魔王は否定した。「魔界とはまた別の世界だな。伝承では魔界に攻め寄せてきたが、俺の先々代が絶滅させたらしい。骨も肉も鋼鉄でできた兵士たちだったそうだ」


「またまたフカしおってからに」


「大事なのは魂だ。素材じゃない。物理強度など何の問題にもならない。だが、そうした兵士たちの中にも、魂まで鋼でできた奴がいたそうだ」


「他と変わらんじゃないか」


「いいや。魂がないだけの鋼の肉体と、魂が鋼でできていることには明確な差がある。何度撃ち砕かれても立ち上がり、不屈の意志で戦いを止めない。そういう時に、言うのだそうだ。あいるびーばっくと」


 再び、しんと酒席が静まった。第二カメラに据え付けられた高性能マイクが、現世代魔王の解説を、砂に水がしみこむように拾い上げていた。

 やがて、かわるがわる現世代魔王に合いの手を入れていた領民たちの一人が、眉間に顎に目じりに皴を作りながら頷いた。


「そいつぁ、あれだな。ゴーレムみたいなもんだが、それでも戦士の鑑、戦士の誉れだな」

「わかるか。そうか、わかるよな。たとえ世界が違おうと、男が男を認めるのに違いなんかありゃしねえわな」


 お嬢ちゃん! このとびっきりのいい男と俺にビールのおかわりをくれ! こいつは魔王の俺が勘定を持つぞ! 魔王の俺が認めたこの世界の勇者と乾杯をやらにゃあならんからな!――場に轟かせるようにウェイトレスに注文をとばす魔王を他所に、領民たちが口々に感想を述べる。


「そうともさ。この地方の男にタマ無しなんかいやしねえものな」


「クッソ。いいこと言うじゃねえか。目から汗が出てきやがった」


「馬鹿言え、泣き上戸が。せめて洟くらいは拭けってんだ……で、魔王?」


「あん?」


「なんつった。さっきの呪文は」


「呪文?」


「なんとかって声をかけるんだろう?」


「……ああ。あいるびーばっく、だ」


「あいるびーばっく?」


「そうだ」


「……あいるびーばっく」


「……あいるびーばっく」


「あいるびーばっく」


「あいるびーばっく……!」


「……あいるびーばっく!」


「あいるびーばっく!! あいるびーばっく!!!」


 やがて、今や割れんばかりの呪文の複合詠唱が、地面を踏み鳴らす音と共に天上に捧げられつつあった。

 それは一人の少年、

 いや男、

 男性、

 タマを持つ者の再起を一心に願われていた。(こいねが)われていた。


 天にまします主、いやさあまねく世界の一つ一つにも必ず在るだろう男たち全てに通じる、この世の半分を味方につけた、単純で純粋で無意味で無価値な野郎どもの聖典が、きっとそこには現出していた。

 どう考えても原典のその英語は魔王のうろ覚えの記憶通りの意味をフォローしてくれないのだが、この際呪文の正誤などどうでもいい。

 観測できる魔力などまったく発生しなかったが、そこには奇妙な熱と力場が生まれ、空間を歪曲せしめていた。


 重要なのはそれだ。男はそうせねばならない時があるのだ。


 倒れ伏しても、

 半ばで折れかけても、

 そこが孤立無援で、

 立ち向かわなければならない城門を前にして、

 何かの事故で武器を喪失することがあったとしても、


 男たちの脈づく歴史が、

 連続して受け継がれてきた魂が、

 倒れた者に肩を貸し、

 半ばで折れた槍に接ぎを当て、

 勇気と自信と武器を取り戻させるべくその背中に声を届けるのだ。


 もはや涙を隠さぬ男たちまでいた。

 彼らもまた孤独な戦場で戦ったことのある大人たちなのだ。

 そこでは負けたかもしれない。悔いもあったかもしれない。だが、その時のみじめな気持ちを決してこの少年、いやこの男にして欲しくない。

 させてはならない。


 唱えるのだ。

 高らかに唱えるのだ。

 祈りを。異世界語に乗せて。

 起て! 起て! と。


 右手と言わず全身を複雑骨折し、あちこちが変な向きを向いた状態で単に気絶していただけのトーマも、さすがにこれほど周辺で大騒ぎされては意識を取り戻さざるを得なかった。

 起き抜けと割れた頭や身体のあちこちを貫く激痛、混濁する記憶に混乱しながら、ぴくりと身じろぎする。


「やった!」


「通じた!」


「呪文が通じたぞ!」


「もっと、もっと唱えるんじゃ!」


「今じゃ、パワーをメテオに!」


「いいですとも!」


 ――歓声と慟哭が沸き立つ周囲を全く理解できないまま、トーマは自己診断を開始する。

 たぶん、再生がおっつかず二回ほど死んだのではないだろうか。それでも救護班が来て自分を手当てしていないということは、今回はまだゲームオーバーにはなっていないということだ。

 なぜかはわからないが。それでは立たなくてはならない。

 たぶん父が、また何かペテンをかましたのだろう。あいつはまだ意識がある、ただ今はまだ立てないだけだ、そこで黙って見てろ、とかなんとか、そういう。


 いつもそうだ。

 破天荒だが、必ず一回目の挑戦で求められる結果を出す父。

 優等生だが、人外の成果を成し遂げるのに時間がどうしてもかかってしまう自分。

 今回など、スタート地点で既に躓いて死んでいる。情けないことこの上ない。


 だが、それでもやらねばならない。

 自分は自分がこの世界を滅ぼさないために、死力を尽くしてこの夜這いをやり遂げなければならない。この世界の当事者たちがほとんど危機感を持っていないというのが実に業腹だが。

 しかし、魔王とは常に理解されないものだ。自分は父の背中を見てきた。同じように自分が理解されないからといって、なんだというのだ。


 歯を食いしばった。力を入れた。

 めきめきばきりとあまりの荷重にひびが走った奥歯が悲鳴を上げかけ、

 しかしその悲鳴を戸惑い気味に途中で途絶えさせる。

 込められる力に適応しようと、破壊される端から骨密度を増して再生しているのだ。奥歯のひびが修復され、より強靭に、より凶悪な硬度に奥歯が生まれ変わる。地面に激突した際に折れた門歯は既に生え変わっていた。


 死なない。

 死ねない。

 次元を越えた異郷にあってすら、故郷の守護者はシステムに祝福され、呪われている。


 再生を終えた両手の指が、がつっ、と煉瓦で互い違いに舗装された地面に突き立った。

 今やすさまじい熱量で湯気すら立てながら、ばきりと煉瓦にひびを入れる。

 上半身を起こす。

 割れた頭、外傷の再生は後回しにされていた。アドレナリンが溢れ、その溢れたアドレナリンの混ざった頭部の出血がだくだくとほとばしり続けている。


 べったりと顔や衣装を血にまみれさせながら、トーマは上半身と地面の隙間に生まれたスペースへ、いまだおかしい角度にひん曲がったままの右膝関節をねじ込んだ。

 激痛が走る。

 しかし、それがなんだと言うのだ?

 痛いのが嫌だから、とここで無様に横臥しているのか?

 たとえば世界崩壊にタイムリミットがあることを後から知らされたとして、「そうと知っていたらあそこで無理してでも立ち上がっていたのに」とかなんとか泣き言でも言うのか?

 冗談じゃない。


 他の連中ならそれでもいいかもしれない。

 だが、魔王はそういうことはやらない。

 目じりに涙がにじむ。

 痛い。

 怖い。

 暴力は嫌だ。

 それでも、他の大事な誰かにやらせるくらいなら、自分がやりたい。トーマはそういう男だった。


 文字通りの死力を振り絞ってトーマはゆらりと立ち上がる。五百四十度横向きに回転して断裂した右膝関節。それに巻き込まれて捩じ切れていたはずの筋肉の再生も、トーマの目的意識に基づいた無意識のオーダーにより最優先で済んでいた。

 体が熱い。

 ふらつく。

 だが、トーマはそれでも身を起こし続け、逆戻りすることはなかった。膝をがたつかせ屈しかけることすらなかった。

 ゆがみひずんだ一本の棒のように、天に向かって真っすぐ一直線というわけにはいかずとも、男として空を仰ごうとしていた。

 そして、二本の足をぴんと伸ばし、再びこの夜に臨む戦闘態勢を示す――


 一瞬の静寂が場を満たし、


 そして天地を貫くほどの怒号が観衆から上がった。

 その半分が男泣きに泣いている。トーマの右手親指の複雑骨折を最初に指摘した少年などは、目を輝かせて両こぶしを握り、意味もわからないままそれでもなお、「そーれ、勃(あいるびーばっく、)起、勃起!(あいるびーばっく!)」と謎の呪文を喉を嗄らして唱えている。

 もはやそれだけで彼ら男衆の間には世界を超越した強い連帯が生まれたことが一目瞭然だった。

 気絶していた間に何があったのかを知らないトーマは戸惑いながら、これでミッション達成、人界と魔界は恒久平和条約を結びましたということにならないだろうか、とふと思った。まあ無理だろうが。


「…………その…………」


 と、そこで男たちの連帯から外れていた五階のシルフィアが気まずそうに口を挟んだ。

 ディレクターがオーケストラの指揮者よろしくさっと両手を掲げる。

 一斉に男どもが静かになった。彼らの姫君の言葉を一言でも聞き逃すまいと耳を澄ます。

 うぐ、おぐ、と、ところどころ男どもの興奮冷めやらぬ嗚咽が漏れ聞こえても来るが、そこは仕方のないところだろう。


「ご、ごめん。……だ、大丈夫なの?」トーマの出血の止まらない頭部を見ながら、やや引き気味に、容疑者――というか加害者――のシルフィアは被害者のトーマに安否確認を取った。「頭、血が止まってないみたいだけど」


 思えば、彼女はいつも五階にいて、トーマが死ぬところを直接見るのはこれが初めてなのだった。手を下したのも。

 これは初めて殺人に手を染めたということになるのだろうか。生き返る相手の頭をかち割ろうと試みて成功し、生命活動を停止させ、やっぱり生き返ったところを見るというのは。

 バルコニーの手すりを握る手が少し震えているのに、トーマは気がついた。

 トーマはなんということもないという体で頷いた。こういう時、相手に気づかれないよう見栄を張るのがトーマは得意だった。


 実際、大したことはない。

 頭から血が溢れているのは立ち上がるために下半身の再生を優先しているからだ。


 少々ふらつきはする。

 ふらついているところは見られているから、そこは誤魔化せない。


 ならば正直に言えばいいだけのことだ。

 胸を張ってトーマは一つうなずき、答えた。






「なんということはありません、姫」その力強い労わりはぼろぼろ血まみれの衣装へ仕込まれたマイクに拾われて、全世界に共有された。「夜這いの前にちょっと下半身に血が集まりすぎて、くらくらする程度のことです」






 一瞬の間。


 そして、観衆から大爆笑とブーイングと歓声と指笛とありとあらゆるもの、混然一体となったなにかが巻き起こった。そのあまりの音の圧に、トーマも慌てて振り返ってしまったほどだ。

 なんだ。自分は別に笑える話など披露したわけではないのだが。ディレクターと父親が抱き合いながら腹を抱えてげらげら笑っているのを不審げに横目にし、それでもシルフィアと少しでもまともな会話ができたことに、トーマはやっととっかかりを掴んだ心境で思い悩むのを止めた。


 とにもかくにも人界と魔界の停戦の行方、和平交渉が成るかどうかは、このミッションの成否にかかっているとトーマは考えている。シルフィアとの会話は、これまでほとんど一撃必殺の斬り捨て御免状態で、取りつく島もなかった。


 だが、ひょっとして、今なら、少しは親密度を上げることが可能かもしれない。


 ここ一番で頑張らねば。力強く、トーマなりに前向きな表情で――つまり陰気な、陰のある、残念極まりない少年が、ぎょろりと目を剥いて唇を結び――バルコニーを再び振り仰ぎ、トーマはシルフィアの異常に気がついた。


 深く俯いている。

 先ほどまで人を殺してしまった罪悪感に手を震わせていたのが、今や全身に震えを広がらせている。

 一張羅のドレスの隙間から除く肌が茹蛸のように真っ赤になり、しゅうしゅうと表面の汗を気化させている。

 後ろにいるお付きの侍女(エミーナ)がこめかみに指を当ててかぶりを振っているのが見えた。


 シルフィアが顔を上げた。


 顔を真っ赤にし、

 唇を波線にし、

 顎に皴を寄せ、

 半べそをかいて、トーマを睨みつけた。

 握っていたバルコニーの手すりが、ついにその握力に負けてばきりと破断する。


「最っ低!」シルフィアは地団太を踏んだ。もうそれしか語彙が思いつかないという体で、その言葉を繰り返した。「最っ低っ!」


 無数のフレイルが雨あられと彼女の館の敷地に降り注いだ。文字通りトーマが命を賭して守ろうとした庭園も、酔っ払い共の酒席も、CM前に一踊り披露するため袖に待機していた郷土舞踏同好会のいる舞台の別なく、シルフィアは凄絶なまでの遠投力とコントロールを見せて文字通り地上を爆撃した。姫君を心から敬愛する領民たちと報道局は悲鳴を上げて逃げまどった。そこへシルフィアの編んだ戦術級の魔術が立て続けに炸裂し、あらゆる生き物を消し炭に変えようと荒れ狂った。侍女(エミーナ)に羽交い絞めにされながら印を切り、武器を投擲する。


 魔王が暴走した時のために国費で待機させられていた戦略魔術兵団が、泡を食っておっとり刀で駆け付け、なんとか被害を食い止めようと試みた。魔導防壁を展開して広域破壊魔術を抑え込もうとするも、コンマ数秒の連携の遅れで防壁同士の結合に失敗する。防壁ごと、構成員が何人か、あえなく何百メートルかぶっとばされていった。

 そうしてできた結界や迎撃術式展開の穴からシルフィアの暴威が潜り込んで地面も地面以外も丹念に耕そうと暴れまわり、精鋭兵団はどんどん歯抜け状態になっていった。攻撃起点に反撃することが許されず守勢に回るというのはそういうことなのだった。こればかりはトーマの父、現役魔王といえども一人ではどうしようもなく、あちこちの危地に飛び込んでは致命的な事故になりそうな人々の首根っこを引っ掴んでぶん投げ、退避させていくのがせいぜいだった。


 次世代魔王のトーマはというと、初めから逃げ惑うことを諦めて「あー」とか「うー」とかやる気ない声を上げながら真っ先に消し飛ばされることを選んでいた。彼が逃げればそれを追って次撃が飛んでくるのだから、被害を最小限に抑えるためには彼が動かずに攻撃を引き受けるしかないのだった。


 こうして、人界全土に生中継されるこの番組は、今回は冒頭十分程度の企画で終わり、残りは放送時間の延長に次ぐ延長を重ねて、目まぐるしく展開される広域魔術戦の実況中継で占められた。

 視聴率はこういう事故があった時の方が跳ね上がるもので、広告代理店と報道局はこれを喜んだが、三度の飯より三十分程度の深夜アニメの視聴を尊ぶ作者やその同類の類は、いーかげんにしろとか狙って報道事故を仕込むなとか乙女のデリカシーにもっと配慮してさしあげろとかそれなりにまともらしく聞こえる愚痴をネットで垂れた。


 どちらにせよ、一つ言えることがあった。

 本当に親身になってシルフィア姫――いや、地方豪族の長女ふぜいを姫と呼ぶべきではないとする意見もあるのだが――を案じる者は、人界全土に皆無と思われるということだった。

 少なくともシルフィアの中ではそういうことになっていた。

 この世界を越えたカップルの夜這い番組企画が始まって最初こそ、見世物にされるシルフィアに同情票と応援の手紙も集まっていた。しかし、局の連中の巧妙な情報操作によって、あのデリカシーを解さない異世界の少年、植民地にする予定だった世界の土着土人の子供にも一定の見どころがあるという流れに持っていかれてしまったのだった。

 シルフィアはそれまで外交政策や身分制度に興味などなかったが、この件を境に若干差別的な言動が目につくようになった。曰く「魔界の風習は野蛮だ」とか「蛮地の平民は作法がなってない」とか「人界の武門の家の妻乞いと、家宅侵入して未婚の女性を手籠めにする犯罪の区別がついていない」とか、思いつく限りの悪罵を並べて精神の平衡をとろうとしていた。

 そのくらいの反動は仕方ない、と罵られる側のトーマら異世界の魔王組はあっさり笑って受け容れたが、これはシルフィアの父兄弟を含めたスパルティアン家の頭痛の種だった。家中でたった一人のかわいい娘、あるいは妹の意向をなるべく尊重してやりたかったが、事はもうそういうところを大きく超えて動いていたのだ。




 人界軍による急襲から幕を開けた魔界との戦争は、わずか三年で魔界で得た領地を次々奪い返され、一年前にはついに魔界から人界への逆侵攻すら許す事態となっていた。

 魔界へとつながる次元の裂け目。これを抱える人界西部地方は魔界から送り込まれたたった一人の魔王に終始圧倒され続けており、スパルティアン家が主導して、四か月前になんとか停戦にこぎつけたばかりなのだ。


 この停戦もあくまで一時的なものに過ぎない。

 あまりに強すぎる魔王への戦線をこれ以上維持できないという現状認識で一つにまとまった人界西部地方連合は、人界政府中枢の継戦派と水面下で激しい政治的駆け引きに舵を切っている。

 その行く末によっては魔王は逆侵攻を再開しかねないのだが、これをなんとか避けたいというのが憂国の士、スパルティアン家当主の考えだった。

 魔王によってわずか半年かそこらで人界西部方面軍が徹底的に活動基盤を破壊されるのを目の当たりにした彼は、たとえその脅威に未だ接していない他地方から裏切り者臆病者の誹りを受けようとも、その被害を全土に拡大することだけは食い止めねばと決意していたのである。


 そのためにはなにがなんでも魔王の息子トーマを、スパルティアン家唯一の未婚の女子シルフィアに繋ぎ止めてもらわねばならない。

 少しでも長く。


 人界西部地方連合にとって、あくまで主戦場は人界中央との水面下交渉だった。

 魔界有力者トーマと人界有力者シルフィアの婚姻そのものは、人界内政治がうまく転んだ場合に行き着く余禄に過ぎない。

 過ぎないのだが、読者諸兄にお付き合いいただくのは、その余禄、おまけ、茶番に翻弄される、二人の少年少女のおはなし。

 密室政治や人界内における国境線の書き換えをこそ余禄に追いやった、三流恋愛ドキュメンタリーを中心にご覧いただくことになる。


 以上、序章でございました。

 まとまりのない文体で申し訳ございません。

 引き続きおつきあいいただけそうなかた、おられましたらあらためてよろしくお願い申し上げます。

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