たいの三段活用
「~したい」っていう「たい」には大きく分けて三通りの使い方があるんす。
第一は、「この後コンビニに行きたい」っていうような予備願望。
第二は、「いつかパリに行ってみたい」っていうような仮定願望。
第三は、「悪魔と契約して大いなる力を得たい」っていうような夢想願望。
見ての通り、言葉尻は同じでも意味合いは全然違うんす。
だと言うのに、会話の中で この差が無視されることが しばしばあって、すっげー面倒くさいんすよ。
例えば、「異性に興味ない振りしても、本当は色々やりたいんでしょ」とかいう問答ってありがちだと思うんすけど、これは確かに大抵誰でもYESっすよね。
って言っても願望の持ちようは人それぞれっす。状況が許せばすぐにもやりたい予備願望か、素敵な人と両想いになれたら なんていう仮定願望か、完全に頭の中だけの夢想願望か。
でも、こういう質問が投げかけられる時、相手は勝手に予備願望と決めつけてるんすよね。
このすれ違いは本当に面倒くさい。
あるいは、「誰かを殺したい願望」について考えてみたらどうすか?
「殺してやりたい」と思っても、まさか予備願望として持ってはいないけど、深刻に捉えられると怖いから口に出すことも躊躇いますよね。
でも、本来は夢想願望としてなら幾ら発露しても問題ないんす。実際に空想の物語として世に出す人も居る。
で、まぁそういう人は往々にして無暗に怖がられたり叩かれたりするんすよね。
あるいは、無意味な揚げ足取りになったりもする。
「あの人は英語を話せるようになりたいと言いながら全く英語を話そうとしない」なんて小言は割とどこにでも転がってますけど、これは無邪気に仮定願望を語っている人に予備願望を経て実現した人が現実を突き付けてるだけなんすよね。
先に挙げた「いつかパリに行ってみたい」なんて言ってる人にパリ行きのチケットの相場を伝えても仕方ないんすけど、意外とこれに気付かない人も多いすね。
実行力のある人にとっては、願望は常に予備願望なんすよ。「心の中で思ったなら、その時すでに行動は終わってる」ってやつ。
ああ面倒くさい。
要するに、夢物語を糧として生きている人は願望を口にしちゃいけないんす。仲間内以外では。
そして、敢えて正義を定義するならば、間違っているのは我々の方なんす。
やりたいと思ったらやる人間が、子を作り未来を創るんすから。
卑屈とは違いますよ。
日々を怠慢に生きるには現実を見定める目が必要なんす。