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シシングハースト・カースル・ガーデン Sissinghurst Castle Garden

「馬鹿なことするんじゃないぞ、ここで死ねるわけが無いんだから」

 お城の尖塔内の階段の最後の一段を上がりながらポールは声をかけました。先に初夏の日差しの中に飛び出した瑞穂の背中に。

 3ヶ月前に夫を亡くした彼女は、つい最近も岸壁から飛び降りようとするなど、不安定な行動を続けているのです。

 2年前に彼女の同僚だったポールは彼女を正気に戻すには庭を訪れ、花々を見せるしかないと信じています。庭園の花の世話を生業としていた瑞穂だから。


 今日1日、「世界で一番美しい庭の一つ」とよばれるシシングハースト城にきて、イングリッシュローズの香りに包まれています。ピンクのグラデーションが続くローズガーデン、ブライダル・ベールのようなホワイトガーデン、瑞穂はポールを振り返りもせず歩き廻って、目を離すと花の中に消え入ってしまいそうです。

 花々に語りかけているのか、始終何かつぶやいているのですが、母国語でポールには理解できません。


「オレが誰だかはわかっているらしい」

 何とも心もとないですが、数えるばかりの知人以外は皆締め出してしまう今の彼女の状態では、上出来といわねばなりません。

 夫と愛を育んだ家に閉じこもって、近所に住むキャサリンが定期的に様子を見にいき身の回りを手伝う、そんな生活が2ヶ月も続いています。

 一緒に働いた庭園の友人から瑞穂の不幸を聞き知ったポールはじっとしていられませんでした。

 28才で転職を決意してわけもわからず飛びこんだ自分に、庭仕事の喜びを一から十まで教えてくれた人。指先で植物と対話する妖精のようなガーデナー。そしてオレを恋に落した張本人。

 ――夫のいる人だから何も言わずに身を引いた。同時にオレは幸せにすると誓っていた相手を愛せなくなった――


 5メートル四方のこの屋上から身を乗り出すようにしてはるか下を眺めていた瑞穂が急に振り向きました。塀にもたれてまっすぐにポールを見ています。風が彼女の長い黒髪を吹き上げて顔の半分を隠していますが、振りのけようともしません。

「私は夫に一緒に死ぬと約束したの。どうして死ねないと思うの?」

「ここではだめだ。誰かが投身自殺すれば、庭はこの屋上を閉鎖しなくてはならない。この眺めが見られなくするなんて大罪だ。そしてきみの血で下の庭を汚したら、シシングハーストがどれだけ迷惑するか」


 ポールは瑞穂の変化にとまどいました。うすぼんやりとしていた鳶色の瞳が今はまっすぐに自分を見据えています。

「庭師らしくなったのね」

「いつまでも弟子扱いはさせないよ。それに瑞穂はここを造ったヴィタ・サックヴィル・ウェストを尊敬してる。作家として詩人として。自分の感傷で彼女の遺産を汚しはしない」

「やっぱりあなたが一番私を理解しているのね」

「あの10ヶ月は強烈だった。充実していたからね。身体動かしながら、頭使いながら、センスを試されながら、あんなふうにオレを感化した人は他にいない」

「できる限りの全てを教えたつもりよ」

 ケント州の青い空を背にして自信のかけらをみせる瑞穂はとても美しく見えました。


 ――小柄な、32才になったはずの彼女がオレをドキドキさせる。この人の期待に応えたいと思えば思うほど、簡単な作業がうまくできないこともあった。それをたまには笑い飛ばしながら、たまには「どうしてこうなっちゃうのよ?」と当惑しながら導いてくれた。植物とどう接するか、美しさをどう作るか、教えてくれたのだと思う――


「いい加減現実の世界に戻ってきたらどうだ?」

「そうね、みんなにさんざん心配かけているわね」

 ポールは瑞穂の正気がこの風景の中でしか続かない、束の間のものだと察しました。

 ――塔を降りればまた自分の世界に閉じこもってしまう。伝えたいことは今言ってしまわねば――


「ミックが知らせてくれなかったらきみはどこかで自殺に成功して、二度と会えないとこだった」

「連絡とろうとしなかったのはあなたじゃない。携帯の番号もメールアドレスもみんなあげたのに使いもしなかった」

「一人前になるまでコンタクトしないつもりだった。オレの園芸会社が軌道に乗ったらコンサルタントとして迎える予定だった」

「人の気も知らないで」

「そっちこそ」

「あなたは住所も電話番号もくれなかった。私とはもう関わりたくないって意味だと思ったわ」

「きみは名刺をくれた。ビジネス以外に煩わせるなという意図だと思ったよ」

「あなたと知り合ってから私は夫に対して百パーセントではいられなくなった。心にいつもあなたがいた。今はそれを後悔してる。あのひとどれだけ淋しい思いをしたか」

「オレのこと好きだったって言ってるの?」

「そうよ」

「ふたりは幸せの絶頂にいると思ってた」

「幸せだったわ。あのひとほど私を愛した人いないもの」

「オレを除けばね」

「私を愛してたっていうの?」

「ああ、今でも。だからここにいる。思い出に溺れさせないために。オレのために生きて欲しい」


 瑞穂はくるりと背を向けてしまいました。ケント州特有のウィールド、丘に挟まれた平野が遠くまで広がっています。

「私は夫の死を喜べないわ」

「彼が生きていたほうが楽だった。こんなふうにたくさんの思い出を残して突然いなくなられたんじゃ困る。それでもオレはきみを愛している。これだけは言っておくよ、オレほどきみを愛した男はいない」

 ポールは瑞穂の背中に話しつづけました。心の窓はもうすぐ閉じられてしまう。

「自殺はやめてくれ。オレの気が狂うから」

 ポールは瑞穂と並んで屋上のレンガ塀にもたれかかりました。腰までの高さしかありません。背が高いだけに自分は簡単に頭から落ちていくことができそうです。

 ふたりの間を緑の風が抜けていきます。


「急がなくていいから少しずつ生活立て直して。ひとりにしておいても大丈夫だと思えなきゃ、オレは仕事にも戻れない」

「思い出から引きずり出すのはもう少し待って」

「待つのは得意だよ」

 ポールは瑞穂の頭をくしゃくしゃと撫で、髪にキスしました。ひきよせて抱きしめることも口づけることもできたのに、そこまでしたらやり過ぎな気がして。

 瑞穂はすりぬけるようにして塔の階段に向かいました。70余りのうす暗い石のらせん階段を一段一段降りながら瑞穂の肩が沈んでいきます。

 今はまだ人の思いに応えられない、心を閉じて身を守りたい、と彼女の背中が言っているようです。

 彼女はオレを好きだったと言った。それはシシングハーストが見せた夢?

 

 日が翳っていく中、庭園を出て駐車場に戻り、うつむいてしまった瑞穂を助手席に乗せてポールは黙って車を走らせました。家具も小物も写真立てもすべて夫がいなくなったときのままの彼女の家に向けて。

 家の前の道に車を横付けにすると、瑞穂は黙ったまま車を降りました。

「オレの準備もまだできていない」

 つぶやくポールをゆっくり見返すと瑞穂は、

「オリテキテダキシメテヨ」

 と抑揚のない日本語で答えました。


 ――通じないのをいいことに。

 いつか英語で言えるようになるだろうか、そのときポールはそばにいてくれるだろうか?

 時がくれば屈託なく愛しあえるようになるのだろうか?


 何もわからないままに瑞穂は家の玄関を入っていきました。



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