襲撃~鷲獅子との戦い
幸いなことに、今年の初夏は晴天が続いたため、デルフォイへと至る翡翠河の水量は多くない。
それはすなわち、いつもの年に比べて沢下りが楽だということを意味していた。
朝一で増水が無いことはアンジェロが確認済み。
滝の裏を数時間も下る最大の難所も、増水さえ無ければそこまで危険では無い。
「残念だったな。二人を抱えて飛び降りてもよかったんだが」
「ダメです! ヘリオス様! お願いですからやめてください!」
「私からも反対させていただくわ。私もメディアも貴方みたいに頑丈にできてないし」
「そうか……残念だな」
心底残念そうなヘリオス。
いくら下は滝壺とはいえ、雪割り谷で飛び降りた数倍の高さを飛び降りるとか正気の沙汰では無い。巨人が踏んでも壊れない勇者様とフィオナ達は違うのだ!。
「何かあったらメディア殿の魔法で合図を送ってください」
「わかりました。ありがとうございます、アンジェロさん」
「そうだ、村まで飛んで救援を頼んでみたらどうかしら? 誰か山仕事のついでに来てくれると思うわ」
「そうですね。カルロのことも気になります。お言葉に甘えさせてもらいましょう」
若い男達はほとんど薬売りに出ているとはいえ、村には隠居するにはまだ早い壮年の男達も少しは残っている。彼らも諸国を巡ってきた古強者でもあるのだ。
そして二時間後、雪割り谷への救援要請を終えた翼人に見送られて沢下りが始まった。
「たぶん一番の難所はネフリィティス大滝に降りるまでの北西斜面よ。鎖に捉まって降りないといけないから手に布を巻き付けておいてね」
『人馬族すら降りられぬ』と評されたネフリティスの岩壁は、その名の示すとおり巨大な翡翠の絶壁である。なめらかな表面は雨が降ると滑落の危険が高まるため、旅人は最新の注意を払わなければならない。
岩壁の中程から湧き出すネフリィティス大滝は勢いよく流れ落ち、その下の山の中腹に突き出した巨大な岩で二つに裂かれて麓まで流れ落ちる。二つの流れは片方はデルフォイに注ぐ翡翠河と、もう片方はテーベを抜けて南海に注ぐ珊瑚河となる。
また、滝の水だけではなく初夏まで残った雪解けの水も、この場所をさらなる難所に仕立て上げていた。
滝の裏に人が通れるほどの天然の隧道あることがわかり、登ることのできぬ岩壁に下山道が整備されて数十年。この道を使うのは雪割り谷の男達か、武芸の修行者だけである。
翼人が整備しているとはいえ、鎖はところどころ錆び付いていて素手で降りるのは危険に思えた。
「ほ、本当にこの斜面を降りるんですか?」
「私も来るのは初めてだけど、これは……想像以上ね」
「二人とも命綱はつけたか? それは俺に繋いでおいてくれよ」
ヘリオスは飛び降りてでも。という自分の言葉を後悔していた。
話には聞いていたが上から見ると、斜面はほとんど垂直にしか見えない。
彼だけなら落ちても死にはしないだろうが、乙女二人は別である。
「アンジェロに魔法をかけておいてもらって良かったわね」
本場のニケーの障壁術の効果は昼過ぎまでの数時間は持つ。500ペーキュス(約250m)の斜面を下るにはギリギリだが、滝の水が降りかかる足下のおぼつかない難所さえ抜けてしまえば、その先の滝の裏への道はわりとしっかりしている。
これが増水している時期だったら、流されないように岩場に張り付いて移動しなければならないために、何倍もの時間がかかるところだった。
三人は樹に張り付く虫のように崖を下りていく。ニケーの障壁術は上から降りかかる水にも有効で、空気の壁に触れるたびに、滝の水がはじき飛ばされている。
鎖に捉まりながら人一人分の足場を慎重に進み、轟々と音を立てる大瀑布の裏に入り込んだ時には、すでに太陽は天頂に差し掛かっていた。
滝の裏にできた天然のトンネル。瀑布から飛び散った飛沫が、陽光を浴びてきらきらと光り、洞窟の中を蛍のように舞う。
その幻想的な光景は、断崖絶壁を乗り越えた者だけが見ることのできる光景だ。
羚羊しか降りられないようなこの山で、この登山道の開拓は歴史を変える発見だった。
それまでは帝都からデルフォイまでは二十日ほどもかかっていたのだが、帝都からテーベ北部のアルゴスまで二日、雪割り谷まで二日、そこから約五日の山道と、中央山地の山沿いに進むしかなかった道程を一気に短縮することが可能となった。
ほどなく突き出した大きな岩が滝の流れを裂き、外の景色の見渡せる大きな広場にたどり着いた。
いかなる神の悪戯かはたまた自然の力か、巨大な岩の中心部分が龍の顎のごとくパックリとくりぬかれている。地面にはたき火や野営の跡が有り、外にせり出した部分には樹が植えられていた。
それらは先人達が植えたもので、今はここまでの疲れを癒やすスモモの実がたわわに実っていた。
これも山に生きる生活の知恵といえる。
「わぁ。すごい景色です。そのまま通り過ぎちゃうのはもったいない気がします」
「わかったわ。ここでお昼にしましょう」
「こんな絶景が見られるなんてな。苦労した甲斐があった」
今までの山道では、街道を進んでいるような気楽さだったヘリオスの顔にも疲労の色が浮かぶ。
フィオナとメディア、二人が滑落しないか気にしていたのだから当然ともいえる。
「本当に幸運だったわ。雨の多い年だと、滝に呑まれないように、ここも命綱をつけて降りるのよ」
「そっか。だからここに野営の跡があるんですね。ここが天然のテラスになってて本当によかったです」
落ちないように慎重に滝の外の景色を眺めながら昼食の用意を進めるメディア。
パンにハムを挟んでマスタードを塗り込む。フィオナは洞窟の水で野草を洗う。こんな山の中でも食べられる草はあるのだから不思議である。スモモというデザートもあるので一息つくには十分だった。
食事後しばらく休んだ三人だが残りの道程を降りきり、滝の外に出ようとした時、外の様子をうかがっていたヘルメスがそれを発見した。
「なあ、フィオナ。鷲獅子って奴は縄張りの外で人間を待ち構える習性はあるのか?」
「聞いたことはないけど……まさか?」
「キィィィン。キィィィン!!!」
そのまさかだった鉄琴を打ち鳴らすような叫びと異臭を帯びて巻き上がる風と羽ばたきの音。
鳶色の輝く目は煌々と輝き、鉄の強度を誇る白と茶色の羽根がガラガラと鳴る。
「あれは雄だな。おそらく一匹だ」
「これは困ったことになったわ……」
原則として繁殖期の鷲獅子は雌雄一組で行動し、縄張りを守るものだ。
それが雄が一匹で林道まで出てきているということは、雌が何らかの理由で動けないため、
積極的に外敵を狩りに来ていると考えられる。
人間は鷲獅子を狩る。鷲獅子にとっては数多くでやってきて、土足で踏み込んできて巣を荒らす厄介な敵だ。それに主食とする草食動物よりも不味いため、できる限り人里離れたところに巣を作っている。
まだこちらに気がついていないようだ。
ヘリオスは急いで鎧を装着し鞘の留め金を外して剣を構える。
メディアは小剣を抜くと障壁強化の加護を祈る。よく見ると小剣の表面には文様が刻まれていて、それが単純な武器ではなく魔法のための呪具を兼ねることを意味していた。
フィオナは背嚢の中から世界辞典を取り出した。
即座に鷲獅子のページを開く。
今まで知っていた習性を思い出すとともに、狩りの注意点を瞬時に検索する。
【鷲獅子は、主に中央山地からマケドニア東部の森林地帯に棲息する魔獣。元々は魔人族諸族が騎乗用に飼育していたらしく、知能が高く警戒心が強い。卵から孵化してから数ヶ月の間に接触した者を親と思い込む習性があり、現在でもごくまれに飼育される例も見受けられる。
ただし、野生では縄張り意識が強く大変危険な生物である。また、宝石などの光り物をため込む習性も持っており、この種の住む地域では屋外でのアクセサリーの着用は危険である】
「鷲獅子といえば、獅子に似た足の攻撃を警戒するものだけど、実際にはそうじゃないの」
「たしかあいつらは臆病だから、最初はくちばしで攻撃してくるんだったな?」
「さすがヘリオス。よく知ってるわね。気をつけなければいけないのはクチバシと、あと羽を振り回す動作よ。転んだところを丸太のような前足で、ズドン。と、やられるわけね」
「魔法は有効なんでしょうか?」
「ほかの魔獣と比べて彼らは視覚に頼っていると考えられているわ。目くらましの類いは有効で逃げる時は地面に這って転がるといいわ」
「できれば殺さずに済ませたいが、それができる相手か?」
魔獣とはいえその羽根や皮、巣の中に宝石の原石をため込む習性もあり資源とも考えられている。
ヘリオスからすれば、狩りで生計を立てるわけでもなく、それを殺すことに若干の抵抗はある。
「ヘリオス。貴方ならできるかもしれないけど、かなり危険よ。まずは首の付け根の鬣状の羽根。身を守る盾であるとともに体当たりの際には強力な武器にもなるわ」
「それなら今はやりすごして、夜の間にこっそり通り抜けるのはどうでしょう?」
メディアはできる限り危険は避けたいと思っている。逃げられるならそれに越したことはない。
「今晩はそれで切り抜けられるけど、問題は明日ね。相手に先手を打たれるとなかなかに厄介よ」
鷲獅子は高く飛ぶことは苦手であるが、それでも攻撃の届かない上空から巨体を生かした突撃を仕掛けられたらひとたまりもない。普通の狩りでは弓矢などの飛び道具で羽根を集中的に狙って、落ちてきたところを数人がかりで集中的に攻撃することが常道とされている。
「それに、相手はこちらを食べ物ではなくて天敵と認識しているから逃げるのは難しいわ」
「やるしかないな。メディア。奴は俺が引きつける」
「わかりました。先生はわたしの後ろに隠れていてください!」
戦闘能力を持たないフィオナを隠すのは当然にも思えるが、フィオナの答えは違っていた。
「そうしたいのはやまやまだけど、私も囮になるわ。あいつらは、ああ見えてかなり賢いの。柔らかそうな獲物を先に狙う習性があるのよ」
「それでいこう。フィオナを狙うあいつを足止めしているあいだに魔法で目を狙ってくれ」
「わかりました。絶対に無茶はしないでくださいね」
ヘリオスとフィオナはゆっくりと肯く。覚悟を決めて滝壺に石を投げ込むと二人は外に躍り出た。
「キィィィィィッン!! キイエェェェェェェッ!!」
不意に響いた水音に下を見た鷲獅子は二人の人間が飛び出してくるのを視認する。
彼はキラキラでない方――すなわちフィオナ――を獲物と定めた。
少しだけフワリと浮き上がると滑空し急降下を開始する。
「かかったわね!!!」
予想通り、フィオナを目がけた滑空。羽根が起こす風に吹き上げられないように、メディアの反対側に転がっていく。木々のあるところなら相手も自由には動けまい。
「残念だったな。お前の相手は俺だ」
そこをフィオナと敵の間に割り込み、ヘリオスが迎え撃つ。
一度攻撃態勢に入った鷲獅子は進路を変えられない。
クチバシで邪魔な堅い奴を串刺しにしようと大きく首を振りかぶる。
ガキィィィン!!!
鎧とクチバシが交差し、火花が飛び散り四肢と胴を取り囲むように魔方陣が回る。
ヘリオスが身につける鎧は宝石や輝石で彩られているが、それはただの装飾ではない。
城壁すらも一撃で粉砕するアトラスと戦うため、鎧自体が小さな城塞のような儀式正法をかけられている。
それゆえ、人間族の持つ加護障壁を何倍にも増幅する効果を持つ。
大樹すらへし折る鷲獅子の一撃も受け止められるくらいの勢いに減衰されていた。
「くっ!! 思ったより早いじゃあないか!!」
それでもそのまま構わず突撃されて拡がった鬣に突き上げられる。
並の力量の剣士であれば為す術もないが、ヘリオスは誓約の勇者。
鉄靴で鬣を蹴ると、空中で向きを変えて地上に着地する。
地面と鎧が触れて今度は羽根が舞う。正法と魔法による多重装甲。
彼一人が一個の砦とも呼べる防御力を発揮していた。
「キェッ!?」
跳ね上げたはずのヘリオスが地面にあることを確認し、鷲獅子は再び空へ昇る。
彼の本能は瞬時に飛び込んできたこのキラキラを驚異と理解する。
もう一度柔らかそうな獲物を狙うべきか?
それとも先にこの強敵を排除するべきか?
「メディア。準備はいい?」
「はい。準備完了です!」
泥だらけになりながらも立ち上がったフィオナが、木々の間を走る。
「ヘリオス。信じてるわよ!」
メディアのいる滝の方に走りながら、フィオナは宝石のついたペンダントを取り出す。
これは換金用であると同時に、こういう時のためのお守りでもある。
――――それでも、まさか戦闘に使うことになるとは思わなかったが。
「キィェ? キィィィン!!」
光り物に柔らかそうな獲物。頭よりも先に本能が柔らかいのを狙えと告げる。
フィオナは走ることもあまり得意ではない。はっきり言ってヘリオスを信じる外ない。
だから、必死に走る!。走る!!!
『生ぜよ。【光】。
願う。【回れ】早く何よりも早く。
命ずる。【炸裂せよ】真昼の太陽の如く』
もっとも簡単な三つの力の言葉を組み合わせた魔法。
一の言葉で事象を生み、二の言葉で動きを与え、三の言葉で結果を生む。
メディアが導き出したのは回転し炸裂する光。
今は細かい制御よりも早さが求められる。握りしめた小剣を振りかざすと、その先端に光が生まれた。
息を切らしながら走るフィオナの横をすり抜けると、今まさに二度目の降下に移ろうとしていた敵の目前で炸裂する。
「ギャァァァァァァッ!!!」
不意に生まれた光に視界をふさがれ、盲滅法に羽根で周囲をなぎ払おうとする鷲獅子の突撃を剣を構えたヘリオスが正面から迎え撃つ!
「行かせる…………ものかぁ!」
自分の何倍もの巨体を正面から剣でガッシリと受け止める。
ヘリオスを押し切ろうと何度も羽ばたき頭と手足を振り回すが、そのことごとくをヘリオスは剣の平で払いのけていた。とても余人に真似できる技量ではない。
武人同士が打ち合うようにその場で何合も打ち合っていた両者。
そこに一瞬生まれた隙を勇者は見逃さなかった。
「てぇぇぇりゃあぁぁぁ!」
鷲獅子の眉間に思い切り剣を叩きつける。
ガシンと丸太をぶつけたような音が響き渡り、よろよろと揺らめくとその場にドウっと崩れ落ちた。
宣言通り、鷲獅子を殺さずに倒すことができたのだ。
「大丈夫ですか! ヘリオス様! 先生!」
「はぁ、はぁ……私は大丈夫。ふぅ……だけど、ほんと、噂には聞いていてたけど出鱈目な強さね。一人で鷲獅子と正面から殴り合う大馬鹿な人間なんて聞いたことないわよ」
背後で気絶している鷲獅子を眺めながら、涼しい顔で立っているヘリオスを見る。
「そうはいわれても、これが仕事だからな。それに最初の一撃で仕留められなかった。本当にすまない」
待って、そこ謝るところが違わない? などと思ったが、ヘリオスは大まじめな様子。
つまりまだまだ全然本調子でなかったのだろう。頼もしくも恐ろしい強さだった。
初めての戦闘回です。わかりにくいところもあるかもしれませんので、修正するかもしれませんが、今は先に進めることを優先したいと思います。
2018/2/8
読みやすいように改行位置、文末などを改良。
世界辞典での鷲獅子の分析結果を追加。