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旅立ち~出会いの夜:2

天空から差し込む月明かりは水面を照らし、湧き出る湯気は谷間を駆け抜ける風に乗って右へ左へと揺れていた。


 皇帝浴場――そこは石と水の織りなす一個の完成された絵画のような場所。


浴場の中央にある女神像の手のひらから、とめどなく溢れる温泉が大理石のブロックを積み上げて組まれた浴場を満たす。


 浴槽の下には真っ白な玉砂利が敷き詰められていて、誰かが動くたびにジャリジャリと小気味よい音をたてていた。


 ゆうに100人は入れそうな浴場は、ところどころに今のように整備される以前の露天風呂だった頃の名残の岩がニョキリと顔をのぞかせている。


「ヘリオス様から話には聞いていましたけど、すごい温泉ですね。先生!」


「それでもこの場所に元々あったのはこの像だけで、昔は河原そのものだったらしいのだけどね。何百年もかけて改修したそうよ」


「帝都なんかにある公衆浴場バラネイオンとは全然違いますね。前にテーベで入った温泉施設テルマエみたいです」


 湯船の縁に腰掛けてフィオナに話しかけるメディア。


 着衣の時にも年齢の割には小さく細い体だったが、こうして何も身につけていない状態では見た目以上に幼い印象を与える。


「私は逆に帝都のお風呂とか違和感しかなかったわね。蒸し風呂なんかも多いらしいけど、一度は入ってみたいものね」


「蒸し風呂はあれで結構体力を使うんです。長く入ってると息苦しくなりますし」


「へぇ……それはますます気になるわ。村と帝都以外は知識で知ってるだけだから、実際に行ってみたいわ」


 そういうフィオナの方は年相応に発育しており、動くたびに小刻みに胸が揺れる。メディアの視線はその動きに釘付けだ。


「ところで先生って全然日焼けしてないですよね。羨ましいです」


 もう一つメディアが気になるのは、フィオナの肌の白さ。


 日照が少ないとはいっても、雪の多いこの土地で雪焼けもしていないとは、やはり秘伝の日焼け止めみたいなものがあるのだろうか? 


「なに? そんなにジロジロ見られると恥ずかしいわね」


「いえ、フード付きの外套でも、長旅のせいかやっぱり少し日焼けしますし、その白さの秘密が気になります」


「これは……体質もあるでしょうけど、やっぱりこの村の水でしょうね。おば様もこの村に来てからずいぶん色白になったそうよ」


「う-、そんなにお肌にいいなら、ずっとこの温泉に入っていたいですね」


 なおもじっとフィオナの肌を見ているメディア。

 

 もっとも、視線を動かせないのはそれだけが理由ではない。


 その元凶は鼻歌交じりに温泉を楽しんでいた。


「陛下から話には聞いていたが、予想以上によい温泉だな」


「当たり前じゃない。そのための皇帝浴場よ。コリントスにも、温泉は結構あるのでしょ?」


「あるにはあるが、ここまで立派なものではないさ。なぁ、メディ?」


「は、は、は、ハイッ! ヘリオス様!」


 お湯が沸き出している女神像によりかかりながら訪ねる主の言葉に、メディアは上せてもいないのに、真っ赤になりながら返答する。


「それよりもここの温泉は混浴なんですね。その……恥ずかしかったりとかしないんですか?」


 そう、一般的に都市では浴場などは男女別に分かれていて、旅の途中に水浴びや沐浴をするときにもヘリオスは席を外してくれる。


 それがいきなり一緒に入るとなると、恥ずかしがり屋のメディアはフィオナに頼るしかない。


 だからフィオナの胸が揺れるたびに、視線は右へ左へと誘われる。


「だけどヘリオス。コリントスでも温泉は混浴でしょ?」


「それはそうだが、あいにくメディは我が家の浴場にしか入ったことがない」


「そうです。なんでも兵舎の浴場とかで貸し切り状態だったので、実はこうやって殿方と入るなんて初めてなんです」


「でも、そんなにジロジロ見るわけでもないでしょうし、そこまで緊張しなくてもいいんじゃないかしら?」


 人間族ヘレネス最大の国家であるテーベや、帝都アクロポリスのあるアッティカの首都アテナイならともかく、地方に行けば温泉はどこでも老若男女問わず市民たちの交流の場と相場は決まっている。特に恥ずかしいことはないようにフィオナは感じる。


「あとヘリオスもいつまで像に寄りかかっているの?」


 ヘリオスは湯船につかり背中を像に預けたまま微動だにしない。

公子でもあるなら侍女に素肌を見られることもあるだろう。


 もしかして乗り気だった割には、メディアに見られるのが恥ずかしいのか?


「俺もこうやって改まって一緒に入ると、その……目のやり場に困る」


「それは……悪いことをしたわね。こういうときはなるべく相手の目をみるようにするのよ」


「おお、さすがは賢者の知恵だな!」


「違うわよ。ただのマナーよ!」


 だめだ! この主従は放っておくと落ち着いて入浴もできない!


「とりあえず、こっちの方は深くなってるから二人とも来なさい」


 川べり側は大人の女性なら肩口までつかるくらい深いので、そこまで視線を気にすることもないだろう。ちょうどかがり火からも遠いので好都合だ。


 メディアの手を取ってフィオナは川辺へと移動する。


 フィオナの意図を察したのか、ヘリオスも恐る恐るやって来る。


 ようやく落ち着ける状況になり、メディアが口を開いた。


「それにしても……まさかリアムさんのことを、商館長さんがご存じとは思いませんでしたよね?」


 出迎え儀式の後、宴席で商館長から思いがけない情報がもたらされた。

リアムは半年ほど前にここから北西にあるデルフォイとの国境沿いの町で働いていたというのだ。


「その件についてはフィオナも知らなかったんだろ?」


「当たり前よ。知ってたらとっとと連れ戻しに行ってたわ」


「人違いってことはないんですよね?」


「本人だと確認が取れているのだから間違いはないだろう」


 儀式の席にリアムの姿が見えないことに気がついた商館長の方からクレイグに尋ねてきたのだ。


「商館長が勘違いするのは無理もないわ。特に若いうちの薬草売りは冬までに村に帰ってこられないことも多いもの」


「そうなのか?」


「だいたい最初の一、二年は地理も把握できていないし、少しでも稼ごうと必死になるから間に合わなくなるのよ。それで町での暮らしを学ぶらしいわ」


 商館長は、てっきり何かのトラブルで冬までに雪割り谷にたどり着けず、雪解けまで待っているのだと思っていたそうだ。


 そもそも、どこの土地でどんな状況に陥っても困らないように、最初はわざとたどり着けないように先達たちがルートを組むそうで、商館長もてっきりリアムも薬売りを始めたと思い込んでいたために、特に気にするでもなくそのまま別れたのだという。


「夏までには帰ると言っていたらしいが、帰れない理由に心当たりは?」


「ないわ。そのまま帝都に行って騎士認証を受けることもできたはず。できない理由があったと考える方が自然でしょうね」


「えーと、まさかフィオナ先生に怒られるのが恐かったとか……」


「うっ……あり得ない話ではないのが痛いところね」


 いつもより一層鋭い目つきで水面を見つめてフィオナは呟く。


 自分ではそんなつもりはないのだが、キツめの目つきと落ち着いた声のせいで、よく怒っているのではないかと勘違いされる。


「だが、それなら文の一つも帝都に送れば済む話だ、だがデルフォイに行くとなると、このまま街道を戻って麓に降りるのは得策じゃないな」


「テーベからだと一度南の街道に出ないとですしね。でも、それ以外に道なんてあるんですか?」


「できれば山越えの道を使いたいが……フィオナ。それでも問題は無いか?」


「そうよね。相当な険路だし、本来ならば女子供が通るような道ではないのだけど、あなたが居れば大丈夫でしょう」


 山越えの道は、数十年前にフィオナの祖父ダイアー・グレンと、先代の村長であったイントッシュ・ライアン男爵によって開拓された道。


 それまでも狩猟や薬草の採集のために村の者が使う登山道は整備されていたが、二人はそこから有翼族ニケーの協力によって、ヴァルドシア山の北西麓に出る道を作った。


 ほとんどの道が危険な沢下りのため、登山道としては使えないが、それでも七日から十日は旅程を短縮できるため、村の男達は数人でパーティーを組んでその道を下るのだ。


「明日の朝には出立したい。俺はこの後に男爵ともう少し話すことがあるから、メディは良かったらフィオナの家に泊めてもらっても良いかな?」


「メディアがそれでいいなら大歓迎よ」


「はい! わたしも学院を出た後のこととか色々お話ししたいです」


 そうしてその日の晩はメディアはグレン家に宿泊することになった。


 次の日の早朝、登山道の入り口までライアン夫妻は見送りに来てくれた。


「では、殿下。リアムとフィオナのことをよろしくお願いします」


「ご子息もフィオナもイアソンの名にかけて必ず無事に返す。だから俺を信じて欲しい」


「頼もしきお言葉、痛みいります。フィオナも絶対に無理はするんじゃないぞ。本当に無理なら引き返すのも勇気だ」


「おじ様……それでも私は彼を連れて戻ります」


「でもねフィオナ。貴方までいなくなったら私達の子供はいなくなってしまうもの。だから絶対に無事に帰ってきてね」


 温かい手でギュッとフィオナの手を握りしめるハンナ。


 天涯孤独になってしまったフィオナにとっても、村長一家だけが家族なのだ。

 その気持はとても良くわかる。絶対にリアムを連れ帰らなくては。と決意を新たにする。


「はい。行ってきます。お義父さん、お義母さん」

 次に帰ってくるときには二人とは親子になっているはず。それはフィオナなりの決意の表れだ。


「準備はできているな? 少し辛い道のりになるが頑張れよ。メディア」


「はい、ヘリオス様。それにお二人ともお世話になりました。ハンナ様、またミケーネ料理を教えてください」


「わかったわ。フィオナも喜ぶでしょうし、いつでもいらっしゃいな」


「ハイッ! いつでも参ります!」


 薬草と保存食の詰まったリュックを背負い、メディアも頭を下げる。


 初夏の森に向かって踏み出す三人。


ライアン夫妻は、その姿が見えなくなるまでずっと笑顔で手を振ってくれていた。


そうして、三人の姿が見えなくなった後のこと。


「ねぇ、あなた。なんでフィオナばかりこんな辛い目に遭わなくてはいけないのかしら? 両親のこともリアムのことも。あんまりだわっ!」


 両手で顔を覆い、ハンナはその場に泣き崩れていた。


昨晩遅くヘリオスから聞かされた話は到底納得できるものではなかった。


 できれば、その推測は外れていて欲しかったし、なぜよりによって我が子なのかという理不尽さしか、彼女には感じることができなかった。


「こればかりは運命としか言いようがない。それでも私達の息子と娘なら、絶対にそんな試練に負けはしないさ。そうだろう?」


 そっとハンナの肩を抱き寄せクレイグは言った。


 彼とて内心穏やかではなかった。すぐにでも動員をかけて村中総出で連れ戻しに行きたいと考えた。それでも自分の愛する子供たちを信じることに決めたのだ。


「二人が帰ってきた時のために村を守る。それが私達親の仕事だよ」


 嗚咽の声を上げながらもうなずくハンナ。二人は大切な娘が旅立った道をずっと見つめ続けていた。

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