別れの夜。最期の夜:2
「まさかこんな手段があるとは。メディアさんもすごいな」
「やっぱり着眼点が鋭いのね。こんな方法で魔精霊の力を中和できないかなんて、普通は考えないわよ」
「そうだよな。道理でフィオナのお気に入りになるはずだ」
「そうよ。私の自慢の生徒ですもの。リアム、もしかして、あの手紙のこととか話したの?」
「うん。僕にもしものことがあった時のためにさ。できることはしておきたかった」
「もしもなんて……させないわ」
彩眼族血の力によって、一時的にだが正気を取り戻したリアム。
こうしてフィオナと話をするために驚きの手段が講じられていた。
話は少し遡る。
『お風呂? どういうこと、メディア?』
『今のままでリアムさんに近寄るのは危険です。でも、リアムさんが紋章の力を使い、わたしが水の浄化を祈念すれば、可能ですよね?』
『それなら魔精霊の腐食の風は防げるでしょうけど、貴方の気力が続かないんじゃ?』
『そこは大丈夫なはずです。先生の世界辞典を使って儀式正法を設置すれば、しばらくは持ちます』
『一度使っただけなのにそこまでわかるものなのね。ヘリオスはそれで問題ないの?』
『もしも魔精霊の意識が表出するなら紋章は維持できないはずだからな。フィオナが逃げる時間くらいは稼げるだろう。それに……』
『それに?』
『それに男だったら命をかける戦いの前には、好きな娘と過ごしたいものだろ?』
何をいっているのかと言い返そうと思ったが、ヘリオスの表情は真剣そのもの。
おそらくデメトリオスにでも教えられたのだろう。
『わかったわ。リアムの身体のことも気になるし、私もできるかぎり彼の側にいたい。それが可能かどうか調べてみるわ』
そして今に至る。
大地に穴を穿ち、そこに川から水を引き込む。
二人の故郷の雪割り谷には及ばないが露天風呂らしき物ができあがり、周囲に簡易結界石を配置することで魔精霊の力が外に漏れないようにした。
リアムはその後紋章を解放し、万が一力が暴走してもいいように湯船に浄化の力を注ぎ続けている。
メディアは世界辞典を使い、水の浄化を祈念していた。
湯を湧かすのにかなりの熱量が必要な気がしたが、意外にもそれはヘリオスが何とかしてくれた。
彼は魔法がとても苦手で、長い時間詠唱して湯をわかすくらいの魔法しか使えないという。
とっぷりと日が暮れて、結界石の放つ淡い黄色の光が水面を照らす。
ヘリオスとメディアは少しでも身体を休めるために今は砦跡で休んでいた。
時々、二人の浸かる湯船が青い輝きを放つのは、やはり暗緑色に変色したリアムから猛毒の風が染み出してきているからだろう。
「でも、こうやって二人でお風呂に入るなんて何年ぶりかしら?」
「四年ぶりくらいじゃないかな。最後の時とは全然違う」
「何が?」
「何がって、色々だよ。その……それとか」
「ああ、これ……」
途端に沈黙する二人。
視線の先には大きく育ったフィオナの双丘がある。
さすがに凝視するのは恥ずかしいのかリアムがフッと目を逸らす。
「リアムだって、背が伸びたし、たくましくなったじゃない」
記憶の中のリアムはこんなに筋肉質でもなかったし、背も高くなかった。
もはや全身を覆いつつある痣を除けばもう立派な大人の身体だ。
駄目だとはわかっていても、フィオナはその身体に触れてしまう。
今までは痣でしかなかった暗緑色の塊は入れ墨のように身体に拡がっている。
この文様が身体を覆った時、魔精霊はこの世界に現れる。
フィオナは危険も顧みず何度もその文様を手でこする。
頭では無理だと理解できていても、何度も何度もこすり続ける。
「もういい。フィオナ。僕に触れるのは本当に危険なんだ」
まだ浸食されていない左手でそっと優しくフィオナの手を離す。
柔らかくか細いフィオナの手、白くて滑らかなその手がリアムは好きだった。
離さなければならないと思いつつも、その手をしばらく眺めている。
「私、もうこのままリアムと一緒にいちゃ駄目なのかな?」
思い詰めたような声。
よく見るとフィオナは泣いていた。
フィオナ・グレンは諦めない。
明晰な頭脳で必ず解答を導き出す彼女は、後悔も逡巡もしない。
そのはずだった……。
「フィオナ……」
「だって、この時間が終わったら、もう二度と貴方に逢えないかもしれないじゃない」
政争に巻き込まれて両親を亡くし、祖父も亡くしたフィオナ。
唯一の肉親の叔父も彼女とは血のつながりは無い。
そんな彼女から、運命は最愛の婚約者すら奪い取ろうとしている。
ライアン家の両親が居るとはいえ、フィオナはずっと孤独に耐えてきた。
今の今まで泣き出したり弱音を吐かなかったことの方が奇跡なのだ。
「フィオナ……君にお願いがある」
リアムもこの三年間、孤独と絶望と戦ってきた。
それでも師であるデメトリオスやテオドリック、面倒を見てくれたミダスやゾエは側にいてくれた。
浸食による絶望の中でヘリオスの――勇者の手で討たれることで家名とフィオナの未来を守ろうとも考えていた。そんな彼の元に、わずかな手がかりからフィオナはたどり着いた。
剣も魔法も使えない。紋章があるとはいえ戦う力など皆無の彼女がここに来た。
そこまでしてきたフィオナの想いをリアムは心の底から愛おしいと思う。
だから全てを諦めるということは絶対にあってはならない。
「フィオナ。僕は必ず君と一緒に雪割り谷に帰る。だから、僕を助けてくれ!」
「リアム?」
「ただで魔精霊なんかにこの身体をくれてやるもんか。僕も最期まで諦めない。でも悔しいけど僕の力だけじゃこいつには勝てないんだ」
覚悟を決めてフィオナを抱き寄せる。
この鼓動を、この柔らかさを、この温もりを絶対に忘れない。
彼女の涙を止めること。それは彼女を信じて共に戦うことなのだと改めて決意する。
「うん。絶対に私達で貴方を取り戻すわ。そうしないとお義父さんやお義母さん。それにデメトリオスさんにもデルフォイのみんなにも合わせる顔がないもの」
リアムの決意を知り、フィオナもいつもの調子を取り戻す。
リアムが信じてくれるのなら、フィオナはその信頼に応えるしかない。
目を閉じてリアムの身体をきつく抱きしめる。
「そうだ。僕の妻になる君はどんなときでも絶対に諦めたりしない人だ」
「奇遇ね。私の旦那様になる人も世界で一番諦めの悪い人だわ」
顔を見合わせて二人は笑う。
その後はリアムのいない間の雪割り谷のことや、フィオナのいた帝都のこと。
リアムのデルフォイでの生活のことなど楽しい話ばかりだった。
「それじゃあ、頼むよ。フィオナ」
「うん。リアムも負けないで!」
湯船から出て着替えが終わると、もう一度二人は抱き合い挨拶を交わす。
この夜が最期の絶望の夜になる。次に来るのは絶対に希望の夜にしてみせるのだ。




